第二章[表]守り神が眠る山②
「ったく。ヒデェことしやがるぜ部長様はよぉ……ビデオカメラぐらいでなんだってんだちくしょう……」
あいにく命を落とすところだったぜ。そう適当にうそぶく少年は、腕を拘束する頭上のロープを必死こいて暴れさせていた。
自身の身長より少し高い段差の上、不自然な石の人工物に両腕はガッチリと固定されていた。つまりずっと腕は上げっぱなしなわけで、じわじわと疲労感が広がって、身体を支配していっているのだった。定期的に動かさないと辛い。
それに、ずっと腕を振り回していれば外れるものだと思ったのだ。口のガムテープだってすぐに取れたし。流石に冗談でもこんな山奥に縛りつけて放置はあるまい。ハッハッハ。
全くそんなことは無かった。彼女は本気である。
「は! 相変わらず人の心がないやつだぜ。………………ちょっと緩んだかな」
手首の感覚から、若干少々だが隙間が出来たことに気づいた。この調子で何とかするしかない。強引に腕を振り回した甲斐があった。やはりオレの力は素晴らしい。世界的に賞を貰うべきだ。芥川賞とか。
希望の光が見えた。さらに腕を振り回そう。誠人は力いっぱい腕と腕を反対側に引っ張りあった。
無理だ。もげそう。
片腕だけでも抜けたらどうにかなるのだろうが、そんな美味しい話は一向に訪れる気配がない。硬ぇ。これめちゃくちゃ硬ぇ。マジで硬ぇ。どうするか。
……とりあえず跳ねてみる。
「ん?」
何か変化が。もう一度跳ねてーー
「……おぉ!」
横方向にはビクともしなかったロープが縦方向に上下した。誠人が縛り付けられている石碑はさほど高くない。このままジャンプし続ければ、ロープを上から外すことができるやもしれない。
これはいけそうだ。ハハハ、ヤツらめ甘いな。縦方向へ脱出することを考えなかったとは。これではオレ様に脱出しろと言わんばかりだぞ。アホどもめ。少年はかなり調子に乗りつつ、ひたすらぴょんぴょんと跳ね続け。
その姿は傍からはとてつもなく阿呆に見えること請け合いだった。
ーーーー
第一のポイントを通過し、山道を登ること五分と少し。件の滝とそこから流れる川を進行方向右側に捉える。
月並みな感想になるが、美しいものだった。
まだ夏には早いが、その心地よい空気を頭の奥に呼び起こさせる涼し気な音と軽やかな景観。普通にこれだけを見に来ても良いくらいだ。何度見ても飽きは来ない。
満面の笑みを浮かべながら、裕也は視線を進行方向左に向けた。例の何も刻まれていない小さな墓標がそこにあり、
現実が横たわっていた。
「……ここだな」
「……ここだね〜」
「……ここですね」
各自少しずつコメントに困る。何故ならーー
めちゃくちゃ山だったからだ。
……山までわざわざ来て何を言っているんだという話になってしまうが。
めちゃくちゃ山だった。
斜面は普通に山の斜面で、木は高く青空に届きそうに背を伸ばし、木の根っことかに気を配って足をかけないと転んで、転がって、そのまま下まで転げ落ちそうだ。つまるところ裕也たちはーー
「……ちょっと油断してたな」
各々の感想は全てここに収束する。
そう、油断していた。最初に案内された場所があまりにも良心的で、他の場所も同じように行動しやすいものだとタカをくくっていたのだ。間違いだ。流石にそんなヌルゲーではなかった。
もとよりこれぐらいは当たり前に想定していたが、最初に甘い汁を吸わされてしまうと、そんな苦い覚悟はすっかりほだされてしまう。そして後から急所にサクッと一撃。現実は非情で、いつだって難度はヨーロピアンエクストリームなのだ。腹に一本ぐらい槍をくくらねば。
「前来た時に確認したポイント行ってみる?」
「……いや、ロッドがここを指定したんだから、ここを登ってみるべきだと思う」
「じゃあ足元に注意して、とりあえず広さを確認してみようか〜」
しのかの言葉に裕也たちは頷き、裕也が先頭に立ってとりあえず登ってみる。まずは土地そのものを確認だ。
カメラは一つしかない。流石に夜通しここに留まることは出来ないので、深夜の様子を観察するのはどちらか一つだ。どちらに仕掛けるかは見極めなければならないが。
……見極めるも何も、こんな斜面に幽霊が出たなんて、いったいどこの誰がどうやって目撃したのだろうか。
裕也は脳内に屈強な老兵が匍匐前進で山をかけずるイメージを浮かべ、ついでにダンボールも付いてくる。ご愛嬌だ。そして絶対にありえない。真相が存在するなら、闇の中だ。
ーーさてさてさーて、どうしたもんかいな……。
裕也は足元を土に取られないように気をつけながら、他の石碑を探してたまに四足になりつつゆっくり登る。後続の二人にも気を配りながら、万が一の事故が起こらないことを……祈る対象がいないので、どこぞの縛り手首刑のアホにでも祈った。
これを先に説明しなかったヤツは呪っておいた。
そうして馬鹿正直に斜面を一歩ずつ登り、体感で数えること三十分。実時間は半分の半分くらい。無事に残りの石碑を発見して、終着駅だ。
「割と登ったね〜」
「だな」
「折り返した山道に繋がってたんですね」
比較的踏み慣らされた土に座って、ペットボトルを口に運ぶ。
この斜面は山道の左側にあったもので、それを登り続けていると、最後はまた山道に出た。元いた場所を真っ直ぐ行けば、ここに繋がる道があったのだろう。
裕也は慣れない動きをした身体をぐるぐるグニグニとほぐして、二人に向き直った。
「で、ここからどうするんだ?」
「ここを見張る、ぐらいしかないよね〜」
つまりほぼノープランであると裕也は認識した。正直そうだと思っていた。いつも通り。もとよりこの部活は思いつきと意地と根性に任せて街中を駆けずり回る暇人集団の巣窟なのだ。
鉄の掟である。”伝研五箇条”の第三項にも『ゴリ押しは美学』とあるからもうどうしようもない。くず鉄の掟だ。
まあ経験上、超常的存在関連の話に持ち込めない荷物が”確実性”だったりするから、あながち間違いと断言は出来ない。
それから数分ほど話し合って、とりあえずカメラはもう一つの場所に仕掛けることに決めた。
カメラがなんの不具合もなく運用できるかは分からない。昨日一日を使って色々確かめはしたが、なにせ普段は使っていない代物だ。
見えないところにガタが来ているかもしれないし、それらに加えて死角が見るからに多いこの場所に設置するとなると、懸念する事柄が増し増しなのである。
まだ明日も明後日も時間はある。今は(一見して)簡単な方から攻めようと結論が出た。五十歩百歩。どんぐりの背比べだと思う。幽霊なんてどうせ出ないだろうとは、思考に浮かんでも言葉には出来ない。
裕也は腕時計を覗き込んだ。もう午後三時を回っている。
戻ってカメラを設置する時間を差し引いても、ここでゆっくり一時間程度は居られる計算だ。この豊かな自然の澄んだ空気が全身を巡るまでには足りないぐらいの塩梅。
ほぅ、と一息。ゆったりまったりお茶でも飲みながら世間話にでも花を咲かせよう。
緑の音。
森のさざめきとか。鳥のさえずりとか。川のせせらぎとか。淀みない水面とか。巻き上げられる若草とか。遠くで剥がれそうな木の幹とか。優しげな風の笛とか。手の甲で揺れる木漏れ日とか。ひんやりと伝わる土の感触とか。透き通る山の匂いとか。
緩やかな時間。
間があまり空かない程度の速度の会話は、大した内容も意味もないような雑談だったが、かけがえのないものだと誇大解釈したくなる。青春してるなぁとか。……もっと、青春したかったなぁ、とか。
思えば、ここしばらくはこんなふうにゆっくり落ち着くことがなかったような気がする。家ではずっとベットから見える天井のシミが青空だったし、雑にライトノベルや漫画が放り込まれた本棚が森だったし、タンスの上に積まれた洗濯物が山だった。
ーー自然に触れるだけで普通に癒されるなんて……
僕ってやつは、やっぱりめちゃくちゃ単純で平凡な人間だったんだな。裕也はぼんやりと考える。
ハンカチに垂らした血の一滴みたいなシミはこんな瞬間にも浮き彫りになって、そんな自分はやはり平凡なのか。でもやっぱりーー抜けきらない妄想癖に嫌気がさす。
今まで何度だって実感してきたのに。
こんな些細なことでもハッキリするのに。
それでも心のどこかで思ってるんだ。特別でありたいなんて。世界的にも屈指のアホらしい話なんだと思ーー
「二人ともありがとね〜。こんなところまで来てくれて」
唐突。両足を交互にぶらぶら投げ出していたしのかが、懐かしむように言った。
いきなりのお礼を至近距離で食らった二人は面食らい、いきなりなんだと目をぱちくりさせた。
少女は目を閉じ、全身で風を受け止めるように手を広げて、めいっぱいに息を吸い込んで、無理なく吐いた。
「なんだかね。単純に嬉しいんだよ。なんとなく、もう活動しないんじゃないかな、とか思っちゃってたから」
だから、ありがとう。
ゆっくり開いた目は前を見て、軽やかに立ち上がって眼下の世界を一望する。
一周まわっても気恥ずかしい台詞を唄う少女に、裕也は眩しさから目をそらすように、
「まあ、ちゃんと三人になって活動は継続できたし、僕は部員だ。部長様の命ならば火の中水の中、あの子のスカートの中だって。どこへだって行くに決まってるよ」
「……だよね〜。でもなんだかわかんないけどそんな気がしたんだから仕方ない!! お礼が言いたくなったんだから言った方が良いに決まってるんだよ〜」
部長命令で快く受け取っておき給え〜、なんて言われたら、例え嫌々でも渋々でも、嬉々として従う他あるまい。男二人で静かに笑って、大仰に両手で受け取った。
「ほらっ! みんな立って立って。ちょっとこっちズレて。すごいよ〜!」
なんだか倍々の勢いで気恥ずかしい空気が流れ、それをかき消すような本日二度目の部長命令に従う。
山に水が溶けていた。
滝壺へと流れる水の流れは白に飲み込まれて、下流へと押し流されていく。その一連が岩と木々の中で際立って。ここまで届くはずがないのに、濃い霧のようなひんやりと湿った空気を肌で感じる。圧巻ではなく、何か尊いものを見つけた感動に近いものを感じる。下で見たときとは、確実に違う感動がそこにあった。
件の幽霊のお目見えはやはりないが、正直今は見えなくても良いか、なんて裕也が考えているとーー
「……え?」
智紀がそう漏らして、ありえないものを見るように固まった。
それはつい最近、そう、あの路地で見たような表情で。
「あっ、あれ!!」
動揺しているかのような智紀の視線を追ったしのかが、それを見つけて指さした。
「…………な、なんで!?」
そこにいたのは。
眼下の先、滝壺の傍らの窪んだ空間でこちらを睨めつけるその存在は。
こちらを発見したようでいやらしく品のない笑みを浮かべるそれは。
伊吹誠人その人だった。
ーーーー
時間は少し遡る。
「と、と、とと取れたァァァァ!!!!!」
格闘すること体感時間十日。実時間十分の(誠人内)世界大戦を見事に攻略した少年は、喜びに咽び泣きそうなくらい喜んだ。
ポツダム宣言云々喚きながら、誰も見てないのにガッツポーズを決めたりしている。「カメラ目線四十五度!!」誰も見ていないしカメラはまだどこにも設置されていない。
誠人はそのテンションが落ち着くのに五分ほど労して、ようやく自身が今行っていることが虚しさと寂しさが凝り固まった『恥』そのものであることに思い至り、特に反省もせぬまま激闘を述懐する。
序盤の闘いが最も激しいものであったのは確定的に明らかだ。跳ねすぎて手首がやばかったからな。この苦しみを乗り越えた今なら、気持ちがわかるぜ。
中学一年の時に、裕也が左手に”蒼炎龍”なる使い魔?を封じていたらしいが、あいつはオレが想像するよりも遥かにすごいヤツだったのだ。手首が灼けるってヤバいぞ。いやもうマジでヤバい。他のヤツらにも体験させたい地獄だ。どうりで一回も出してるの見たことないわけだわ。蒼炎龍。めっちゃ熱いだろ。
そしてこの戦いの分水嶺は正しくあの瞬間だった。
そう、何も使える手札は自身の体のみではなかったのだ。
お前の背後には何がある?
天より舞い降りし神々の天啓の囁かれた言葉は確かにそう言ったのだ。オレには聞こえたね。間違いない。
そうなればやることは一つ。火を見るより明らかだ。そうーー
ーー壁を足場にして駆け上がる!!
以上回想終わり!!
「は! 危うくパーフェクトジオングになるところだったぜ!!」
かっくいい捨て台詞を吐きながら、誠人は凝り固まった全身をグニグニわっしょいドスコイとほぐす。
右肘と左肘を交互に前に出したり、手のひらを太陽に透かしてみたりして気分もほぐす。
後ろを見る。
背中をかく
ポケットからコンビニのレシート(チキン百四十円購入)を見つける。
後ろを見る。
前を見る。
やることが消滅した。
なのでこの有り余る青春の魂がおもむくままに山々の自然を全身で味わい尽くしてから美味いメシを食ってたらふく寝たいところなのだが……。
「むぅ。だがしかし、ここを見張るのが仕事だと言われたしな……」
三人が立ち去る際、そう言い残していた。気がする。間違いなくそんな気がする。
律儀に言いつけを守ろうとする誠人。正直彼らがなんのためにこんなよく分からないことをしているのかは謎だが、ここをすっぽかしたら生きて帰れない。少女に生きる権利を剥奪される確信的な予感がある。空気を読むのは大得意なのだよ。オレは。
しかしそうなるとますますやることが無い。
「どうしたもんかいなぁ」
あごに手を触れさせながら、上体を思い切り後ろに倒した。ぐぐぐぐ、と背筋が伸びて、後ろの景色が良く見える。あともう少し、なんやかんやでそれなりに頑張ったら後頭部が地面についたりしそうだ。実は手を使わずにブリッジして、そのままひたすら横に突っ走るのが誠人の数多き夢の一つである。まだ誰にも話したことの無い、胸に秘めた淡い空色みたいな夢だ。
さらに上体を倒し、己が夢へのさらなる一歩をここに刻ーー
「…………む」
逆さまの世界を捉えていた視界が、何か違和感を察知した。
「……むむむ!!」
目を凝らし、気づく。
ーー今ナニカそこに居た。
その正体を確かめるべく、体勢はそのまま、全速力で後ろに進むーーいや、景色が近くなったから前進か? いやでも足は後ろ向きに動かしてるし。……あれ、どっちだ?
……もう知らん!
誠人はガサガサガサと後ろ向きに前進した。
「…………あっれぇ……? 今ぜってぇなんか居たんだけどなぁ」
ゴリン、という洒落にならないような音を立てながら平然と立ち上がった誠人は、頭を掻きながら周囲を見渡した。
確かに今、ナニカ居た。
それだけは間違いない。誠人は自身の視覚情報に疑いを持っていなかった。
ここで即時的に『幽霊』と結びつかないのが彼を彼たらしめる所以だが、もっと状況が違えば、それもまた変わってくるのだろう。
今この瞬間は、もっと別のアプローチに落ち着く。
キョロキョロと振っていた視線は一点に注がれ、その形状を誠人は言葉にした。
「…………穴?」
それは黒い穴。
少年は無駄な勢いを乗せながら、それを覗いてみる。
やたら綺麗な正円の穴は、誠人の拳より一回り大きい。何かをはめ込むくぼみにも見えるし、無限に続く闇の入り口にも見えた。ユウの大好物じゃん。
「『それはヒトを暗黒面へと繋げる……ウンタラがカンタラ』とか言ってたっけ。なんか危ねぇんだろうな。たぶん」
迷いなく右腕を突っ込んだ。
何が暗黒面でパッパラパーなのかは知らないが、オレは迷わない。手応えも何も無かったが。一見して分かる確実な変化は起こった。
「ーーおぉ! ……おぉ?」
その穴を中心にして『黒』は広がり、
現れたのは下へと続くであろう階段と、その入り口だった。




