第二章[裏]第六班
九野里、美咲香、静木。
三つの市を跨いだ一帯の、その奥深く。観測至難の『虚数域』には太い根が横たわっている。
俗に『龍脈』と呼ばれる高濃度の星の生命力が通る道。
如何なる手段か、そこに巣食った魔王軍残党は、魔王復活のために今も力を蓄えているらしい。
龍脈に直接干渉することは出来ない。世界の首を締めるそれは、禁じ手の中でも最たるものだ。そもそも虚数域の奥底まで手を伸ばす手段自体がかなり限られる。
だから討伐隊は網を張った。
三つの市を覆う結界が、瘴気じみた魔力と、それに由来する魔獣たちを吸い出し絡めとる包囲網を形成した。そして敵が枯れ果てるまで絶やさない。
それが狩人たちが選んだ作戦。長期が予想されるものだった。
日に日に体制は盤石となっていき、逃げ場なんてどこにもありはしなかった。
万が一の魔王復活にも、切り札としての『勇者』があった。
誰もが勝利を確信した。
誰もが敗北を忘却した。
だから誰も、想像だにしなかったのだ。
始まりの日から百年余り。
未だに終わりは訪れていない。
ーーーー
人造物の欠片も見えない森林地帯。
紺色を纏った影が駆ける。
人体の限界を遥か彼方に置きざりにする疾走は、地面を蹴るたびに砂埃を巻き上げる。
その一人のニンゲンを追いかける影は三つだ。
獅子か虎か豹か。
そんな外見情報すら判然としない合成獣の体長はゆうに五メートルを超えていた。
常識的で一般的な神経をしていれば、せいぜい二メートルもない人間は踏み潰されてサヨナラなのは想像にかたくない。
そして大きいということは、歩幅もそれに比例するという事だ。徒競走の強弱など、それこそ些細すぎる些事である。
彼らは木々を踏みにじり、大地にヒビを入れ、鼓膜を破らんばかりの咆哮で強者を知らしめる。考えるまでもなく明らかだ。
人間はいつもちっぽけで。
獣たちはいつだって巨大である。
だからこそ人は徒党を組み、知恵を絞る。そうでなくては成立しないのが”狩り”というものだ。
巨大な獣たちはその体長を十全に生かした以上に速い。ちっぽけな一人を轢き殺さんばかりに距離が詰まる。
少年は知っていた。この場にニンゲンは三人しか居ないと。
少年は知っていた。この森には罠の一つも存在しないと。
少年は知っていた。あと十秒もすれば獣たちとの距離はゼロを踏み越えると。
森が揺れている。
地を鳴らす四本の脚が、少年の踵にまで響いている。
”徒競走の強弱など、それこそ些細すぎる些事である”
少年は知っていた。
先にゼロを踏み越えるのは自分であると。
『もろたでクドウ!!』
「俺は矢車です!!」
彼の甲高い震脚は陶器を叩き割るような音がした。
脳裏を殴りつけた不快な勝利宣言を、それは見当違いも甚だしいのだと、己が成果で塗りつぶす。その手が白に塗りつぶす。
震脚の勢いのまま少年は百八十度旋回して跳んだ。まるで足が凍りついたかの如くつんのめる二体の獣。
急接近した少年が繰り出したのは拳撃。
低空をコンパクトに跳躍し、全身の回転を最大限に右腕に伝達させて放つ、しなる拳が獣の左半身を抉るように打ち込まれた。
確かな練度を感じさせる拳は、しかし傍目には意味不明な、とち狂った奇行としか捉えられないだろう。
単純な比較の問題だ。
巨大。
彼が殴りつけたのは肉と獣毛で練り上げられた壁。大人と子供の比較ではぬるい。
真っ当な思考をしていれば、目を強く瞑ってしまう場面だ。
だからーー
この場で真っ当でなかったのは繰り出した拳に秘めたモノと、もう手遅れな白い巨像で。
耳の奥まで響く硝子を叩き割ったような破砕音。それと共に獣の半身が真横へと砕けとんだ。
ひび割れて舞う。
塵と砕ける。
空に溶ける。
その一連の奇跡を成した拳はスローモーションで残心し、夢のように消えた結末をダイヤモンドダストが讃えている。
それを当然のように。内心では少し満足げに。
素早く引き戻した腕と共に左後方へと振り返り、その表情を遠方へと飛ばす。そのスコープへ。
真っ直ぐこちらを見据える視線をくいくいと指で手招き、今しがた砕いた氷像の先へ。全身でダイヤモンドダストを浴びたそれもまた、氷像と化していた。
微かな破砕音と風切り音、卵に亀裂が入るような音がすぐ側で高速で通過する。
それを数回繰り返したあと、氷像が砕けて消える。正確な狙撃。
お見事と、今の自分ができる限りの愛想笑いをスコープへ飛ばしたが、その返事はガン飛ばしだった。銃口で。銃口だけに。
味方への予期せぬ被弾防止用の弾道予測線によると、額に一直線である。何か失礼を働いてしまったのか。
「大和さん」
『なんや』
「狙撃銃とかけているんですか?」
返答代わりに一発入った。魔力弾が額で弾けて普通に痛い。
後方で首なしの三体目が崩れ落ちる音が聞こえた。
ーーーー
矢車一真を隊長に据える『協会』魔獣討伐部隊第六班。外部スカウトの新人、大和大和を加えて新体制になったが、やることは何も変わらない。
『魔獣』なる超常生物の討伐である。
今日も今日とて彼らは紺色の作業服風専用服に身を包み、異なるケモノの体液で全身を汚すのだ。ちなみに汚れはすぐに取れる他、専用服にはそれなりにちまちまとした機能がある。
魔獣たちを一通り殲滅し、一真はカチリと、自身の中でスイッチを切り替えた。聴覚野にざらついた慣れ親しんだ感覚。
「こちら矢車。獅子型原種二体。亜種三体討伐完了。魂核は変わらず喉です」
『支援官了解。当該個体の脅威度をC+まで引き上げます。作戦決定はこのままそちらに一任するわ。暫定数は同型の亜種が残り三体。原種が四体。まだ慣れてないかもしれないけれど、警戒は怠らないように』
「了解」
遥か遠くから自分たちを支援する女性への報告を終え、まだ通信は開いたままで、握った左手を軽く前に放るように振って開いた。
するとその予備動作に応えるかのように、青白く輝く半透明の薄板が出現する。
そこには森林地形を表した地図のようなものが投影されており、どこかタブレット端末のような印象を抱かせるだろう。それはあながち、というかかなり使用法に肉薄している。
文字通りそれは地図であり、いくつかの青と黄の光点が瞬き、歪な円マークが白線で塗りつぶされていた。
地図は上下左右がそのまま方角を表している。そのほとんどが森林で覆われており、左下、つまり南西部にせり立つ崖が印象的だ。
班員を表す緑色の点は南西の崖上に一つ。
森林地帯を中ほどから南西の崖下までを斜めにバッサリ切り開いたような道に、やや距離を取りながら二つ。
歪な白の円マークは崖下に描かれていた。敵を迎え撃つ目安として書いた印だ。
黄色の点は敵性魔獣を表し、右上に二つ。右下に二つ。それらより中よりに三つ。それぞれ、C、C、C+とアルファベットが傍らに添えられている。
青点たちからはかなりの距離があるが、少しずつ近づいてきているように見える。特にC+の三体は同種個体も変わらず速い。獲物を見つければさらに速度を増すだろう。
つまり数分ほどだが、猶予がある。
「それで、残りの分配だけど」
開きっぱなしの通信へと口を開く。
実際に口を開いて話す必要はないのだが、頭の中で話すというのは意外と違和感が強い。さらに余計な言葉やノイズが交じることもあるので、念話は声に出してしまうのが普通だ。
「スズはどうしたいとか、あるか?」と通信に語りかけるようで、その声はすぐ傍らに向いた。
「べつにー、なんでそんなん聞くの?」
「新体制だからな」
「なんか不安ならフツーに言うし」
伸びやかというか、少々雑にも思える声は通信特有のノイズを含んでいなかった。
いつの間にか距離を詰めていたらしい胡桃沢千鈴は、大きな岩に座り込んで、手の内の武装に手のひらを滑らせている。
それは一本の日本刀。
滑らせた手が放つ揺らめく魔力が、黒っぽい獣の体液を掃き飛ばし、顕になった抜き身の刀身。
その波打つ刃紋は燃えるような炎模様を彷彿とさせ、薄く日の光を反射するそれは、気のせいか、微かに赤い光沢を纏っているようにも見える。
魂を引き込む魔性を抱えているようだ。鞘も紅唐色と徹底している。
銘は『茜姫』。一見通りに相当な逸品らしく、『六家』の名工、鐙谷玄舟のお墨付きだ。
「よしよし、キレイに生まれたてですねー」
なんて言いながら千鈴は立ち上がり、刀を何度かその場で振ってみる。
「さっきの通りでいけそうか?」
「あー、だいじょぶだと思う。大和さん予想以上に達人だし。ソンケーソンケーリスペクト」
そう断言する千鈴。これには一真も同意見だ。
彼、大和大和は狙撃手として既に使える。外部スカウトの人間がここまで即戦力に成りうるのは珍しい。人間は性格では判断出来ないということだろう。
ーーだからこそもう少し見たいところだな。
方針が決まった。
「大和さん。奴らの急所は心得てますね」
『なーんやその質問は。首に生えとる赤色の水晶やろ?』
バカにすんのも大概にせーや、と白けたような反応は無視して、一真は決定を示す。
「さっきとは逆で行きましょう。狙撃の精度をもう少し見せてもらいます」
『了解。俺がトドメってことやな』
魔獣たちは脅威度と呼ばれる評価法で区分されている。
S~Fまでの基礎脅威度七段階。感知した魔力の強弱で決められるこれが、最も大きく魔獣の討伐難度に直結する
また当該魔獣が予期せぬ特徴的な要素を持つ場合は、+か-がアルファベットのあとに振られ、『亜種』と暫定的に呼ばれる。
『特級』と呼ばれる例外個体もあるが、協会で用いられている基本的な基準はこのようになっている。
つい先ほど脅威度C++に引き上げられた獅子型亜種は、C水準を凌駕する驚異的な速力を誇っている。
逆に言えばそれだけだ。特化しているからこそ堅実に丁寧に対処すれば大事はまず起こりえないが、面倒くさい敵なのは間違いない。
先行して来た三体はまず一真が引きつけ、崖下の印まで誘導。体は凍結して釘付けにした。
そして残る一体には大和が正確無比な狙撃を左前脚に見舞い、体勢を崩したところを千鈴が首ごと跳ねた形だ。
十分な腕だ。
なんせ相手はスポーツカーじみた馬鹿げた速度を出していたのだから。
そして今度は千鈴が足止めし、大和にはさらに狭い魂核を狙ってもらう。
別段必要のない無茶ぶりだが、一真は見極めておきたかった。
彼という狙撃手は実質的に『一人分』なのか『半人分』なのか。あるいは『数人分』と見ても良いのか。
少数部隊が主となるこの街での戦闘では重要な意味を持ち、特殊な役職であればその振り幅も大きくなるものだ。
そして大雑把にでも、今確認すべきことだ。
「うへー、カズ君、新人にもスパルタだぜ」
「スパルタ……だな。だが、出来るだけ早い段階で大和さんの戦力は確かめておきたい」
「異論はないけどね」
この一ヶ月。正直、気の休まらない日々だった。
あの街が揺れた日。大規模な空間震は、これまた深刻な『酔い』をもたらした。
それで魔獣たちにどのような影響があったのかは分からない。分からないが、その形は確かにある。
右肩上がりで湧き出続けるヤツらは、これ以降も数を増して行くとの予想だ。
今やれることは、今やっておくべきだ。
頭の声の向こうで、拳と手のひらを打ち付けたような感覚があった。
『俺の実力の見せどころっちゅうこっちゃな。しゃーなしやが、しかと承った。よう見とけやクドウ』
「だから俺はーーいやもういいです…………。一応失敗してもリカバリーは効くので、安心して狙ってください」
『それで残りは?』
一真は一息口に溜めてから、目の前に浮かぶ地図に素早く指でラインを走らせた。自身が立っている位置から百メートルほど東の、森を空いた通路の末端だ。
「亜種がここに到達したら、まず俺が先行して二体持ちます。
それから奥の二体も片付けるので、二人は亜種の一体が終わったら北側の二体を。環さんの指示に従ってください。もし手こずるようなら、頃合いを見てスズが片づけてくれ」
半ば形式的な雑な取り決めの概要を説明し終え、帰ってくる『了解』の二文字が脳裏に響く。
『決まりね。各員準備なさい、近いわよ。タイミングはこちらで計るわ』
ーーーー
地図上の黄点たちは三体だけが突出して近づいている。
空気が締め付けられる音が聞こえる。
全身の筋肉から心まで及ぶその手は、一真にはとっくの昔に飼い慣らした飼い猫の手だ。借りて余分な思考を削ぎ落とす。
しばらくの沈黙の中、支援官が推定到達時間を秒読みし始めた。
…………四十。
…………三十。
…………二十。
……………十。
身を屈め、折りたたみ、圧縮し、沸き立つ魔力がゆるりと廻る。
「GO」
叫ぶでもない。
囁くでもない。
ただ合図を。
贅肉の一切を排した、始まりを告げる号砲。
静かで、簡潔な、霧と消える神風の疾走。
後方に吹き飛ぶ景色と、急激に接近する敵影。
ーー……一、二、三!!
駆ける脚で三歩。地を蹴り砕き跳躍する。
砂粒だった獣たちは、既に目と鼻の先の数瞬の間合いだ。
三体の内、向かって右二体へ向かって踏み切った彼は、迫る首筋に狙いを定め、両手首を広げるように振るった。馬鹿みたいな空気圧をモノともしない軽快な動きだ。
放たれたのは『鎖』
どこに隠していたのか、両の袖から繰り出された二本の鎖は左右に展開し、平行線上に獅子の首を捉える。
闘争本能を隠そうともしない視線はようやくニンゲンの影を捉える。牙を濡らす、一瞬の停滞。
たった一瞬。
遅すぎた。
二体間の通過直前、手首を返す。
ケモノたちの首に鎖が叩きつけられ、その瞬間、触れた側から凍結が始まる。
跳躍運動はわずかも殺さず、苦痛に歪む声と痛覚を殺し。
ヤツらが眦を決した瞬間には、首は砕けて宙を舞っていた。
地面を慣性のままに転がる二体。
遥か後方から吐息が一つ。
「…………人外にもほどあるでホンマ……」
「アハハ、あえて口に出してる辺りが新鮮だ。ーーさあ、こっちもそれなりに働きますぜい」
残された一体は何一つとして反応出来ない。まるで傍らにいたはずの同胞を肉塊としか認識出来なくなったように。
ただ、足踏みすることも無く本能で駆け、ひたすらに前進する。
どこか速度が増しているのは無意識の怯えかーー
「螺子切レロ」
短く、微かで、それなのによく通る風鈴の響き。
獰猛な獣には感慨など湧かず、しかし違和感だけが確かに頭蓋を鳴らす。
前脚が無い
轟く咆哮は苦痛の不協和。
上半身が地面を抉り、急激に速度を落とす。ーーだが止まらない。鬣がちぎれ飛び、激熱と体液に塗れながら四度前転する。
「んー、じゃあ今度はフライかね」
朧気に聞こえた言葉の、その意味なぞケモノにはまるで理解出来ない。
すると突然、血肉を骨ごと抉りとらんばかりの衝撃が全身を貫いた。獰猛な唸り声には悲鳴の色が滲み出るーーと同時に、不思議なことが起こった。
もみじおろし式に削げていた肉の感覚が消えている。
好機だ、と。
その理由に考えが及ぶ程の知能は無く、ただ己が本能に従える喜びを、この牙で肉を噛み砕けることへの喝采を。渾身に猛り吠えて、ケモノは獲物を食い散らかさんと双眸を見開いた。
何故か地面が少し遠くて。
森の彼方はずっと近くて。
開けた世界の先に、微かな星が煌めいた。
一閃の風切り音。喉から、ナニカが砕ける音がした。
「命中」




