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漂う嫌悪、彷徨う感情。  作者: 中め
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漂う嫌悪、彷徨う感情。

 


 何も出来なかった。


 俺は何をしに旅館まで美紗を追いかけて行ったのだろう。


 和馬から美紗を取り返そうと思っていた。美紗と和馬の旅行をぶち壊してやろうと思っていた。


 だけど、美紗の楽しそうな笑顔を見たら、出来なかった。すべきでないと思った。


 ここのところずっと、険しい顔で辛さに耐えている美紗しか見ていなかったから。


 邪魔をしてはいけないと思った。


 でも、やっぱり嫌なものは嫌で。苛立ちは止められなくて、美紗に当たってしまった。


 後悔しか残らず、こんなにも楽しくも何ともなく、ただただ嫌な思いしかしなかった旅行など初めてだ。


「……はぁ」


 平日の中日に2日連続で有給を取った為、仕事が溜まってしまい、今日はいつもより1時間早く出勤。


 溜息を吐きながらパソコンに向かっていると、まだ勤務時間には早いのに、事務所のドアが開いた。


 入って来たのは、紙袋を持った美紗だった。紙袋の中身はおそらく、一昨日買ったおみやげのまんじゅうとせんべいだろう。


 俺に気付いた美紗と目が合う。


「おはようございます、佐藤さん。早いですね」


 美紗が俺に挨拶をした。


 ちょっとビックリした。


 ずっと美紗に避けられていたから。俺から話しかけることはあっても、美紗が俺に声を掛けることなどなくなっていたから。


「あ……おはよう。休んだ分の仕事、やらなきゃと思って……」


 驚きと嬉しさで声が裏返ってしまった。


「私もです。話しかけてすみません。続けてください」


 美紗は『もう喋りません』とばかりに、左右の人差指を口の前で交差させると、ペコっと頭を下げながらお茶台の方へ掃けて行った。


 旅行に行く前と明らかに様子が違う美紗。


 何かが吹っ切れたと言うか……。


 あの旅行で何かがあったことは、一目瞭然だった。


 俺にとっては悪夢の様な旅行でも、美紗にとっては有意義なものだったのだろう。


 美紗が元気を取り戻せたのは良いこと。


 でも、そうさせたのは俺じゃない。和馬だ。


 2人の間に何があったのかは分からない。だけど、それを想像出来ないほど、俺は馬鹿でもおめでたくもなかった。


 美紗が普通に俺に話しかけてきたのは、そういうことなのかもしれない。


 もう俺には気持ちがないから。なのかもしれない。


 お茶台にお土産の箱を置き、『ご自由にどうぞ』という貼り紙をする美紗の後ろ姿を眺めながら、ネガティブなことばかりが頭の中を駆け回る。というか、この状態でポジティブでいられるわけもなかった。


 おみやげをセットし終わった美紗が自分の席に着いた。


 小声で「よし」と気合を入れ、パソコンに電源を入れる美紗。


 美紗は俺とは違い、仕事やる気モードらしい。


 美紗の席は俺のデスクと離れたところにある為、会話はない。


 パチパチとキーボードを叩く音だけが響く所内。


 そうこうしていると、始業時間が近づいてきて、次々と社員が出勤してきた。


「おはようございます。2日間、お休みありがとうございました」


 美紗が同じ業務を請け負う事務員さんたちに挨拶をしながら頭を下げた。


 しかし、新しい彼氏と温泉旅行帰りの美紗に、周りの風当たりは以前に増して強くなっていた。


 美紗の声掛けが聞こえなかったかの様に、美紗の存在が見えていないかの様に、完全無視をされる美紗。


 そんな美紗が買ってきたおみやげに、全員気付いていたはずなのに、美紗を嫌忌する社員たちは手を付けず、昼休みになっても大量に残っていた。


「……美紗、みんなが喜ぶと思って買っただろうに……」


 昼休み、社員たちがランチに出払った事務所で1人、お茶台に乗った温泉まんじゅうを見つめる。


 箱を手に取り、側面に目をやる。


「明日までかぁ……」


 思いの外、温泉まんじゅうの賞味期限は短かった。


 おせんべいの方は日持ちするだろうと、温泉まんじゅうを箱ごと持ち上げ、空いている会議室に持って行く。


 賞味期限を過ぎても残っていたら美紗が可哀想というよりは、美紗を良く思えない気持ちは理解出来ても、あからさまに美紗の善意を無下にする周りの社員たちに苛立ちを覚える。


 適当な椅子に座り、昼メシ代わりにとまんじゅうの包み紙を剥ぎ、口に入れる。


「……あーまー」


 甘さ控えめのまんじゅうと言えども、そんなに甘いものが得意ではない俺にとっては、充分甘い。


 それでも次々に包み紙からおまんじゅうを取り出し、テンポよく口の中に放り込んでいると、ドアの外から誰かがノックをした。


「あ、はい。どうぞ」


 モゴモゴしながら返事をすると、


「気を遣って無理して食べなくても良かったのに……。どうぞ」


 苦笑いを浮かべた美紗が、ペットボトルのお茶を手にしながら中に入ってきた。


 温泉まんじゅうの箱の横にお茶を置いた美紗が、俺の隣に座った。


 やっぱり、今日の美紗はおかしい。前にみたいに普通に接してくれる。普通な美紗を【おかしい】と感じてしまう俺の方がおかしくなっているのだろうか。


「……別に腹減ってただけで、無理してるわけじゃ……。お茶、ありがとう。もらうね」


 美紗が持ってきたお茶に手を伸ばす。


 まんじゅうに唾液を持って行かれたこともあるが、何か変に緊張して口の中が乾く。


「だったらどこかに食べに行けばいいじゃないですか。おみやげがみんなに喜んでもらえなかったのは残念ですけど、そうなる原因を作ったのは自分なので、別に落ち込んでないですよ、私。大丈夫です」


 美紗が笑顔を見せながら、まんじゅうの箱に蓋をした。


「……別に、ただ甘いものが食べたかっただけだし」


「嘘吐き。佐藤さんが甘いものを食べたくなるわけないじゃないですか」


 ふふふと息さえ漏らしながら笑う美紗。


 美紗の笑顔が見れて嬉しいのに、困惑してしまう。


「美紗にだけは嘘吐き呼ばわりされたくないわ」


 美紗に笑われた事が何だか恥ずかしくて、変に言い返してしまった。


「ですよね。すみません。お腹が空いているならおせんべいの方を食べてください。今、持ってきますね」


 笑うのをやめた美紗が腰を上げ、会議室を出て行こうとするから、


「待って‼ まんじゅう食うの‼ 賞味期限がやばい‼」


 と言いながら自分も立ち上がり、咄嗟に美紗の手を掴んだ。


 別に逃げようとしているわけでもない美紗を逃がしたくなくて。どこにも行かせたくなくて。


 キャスター付きの椅子が物凄く遠くまで転がって行く程の焦りっぷりを披露する。


 そんな俺に一瞬目を点にした美紗が、


「……賞味期限、気にするんですね」


 声を震わせながら「くくくっ」と笑った。


「……するよ。うるさいよ」


 カッコ悪いな、俺。と思いながら、遠くの椅子をいそいそと取りに行く。どこまでも格好の悪い自分。


「本当に無理しないでくださいね。余ったら、家に持って帰っておやつに食べるので」


 美紗が椅子に座り直した。


「無理なんかしてない。……独り占めしたかったんだよ。俺だけの為に買ったわけじゃないって分かってるんだけどさ。美紗が買ってきたものだから。……もう、美紗から何かを貰うことなんてないと思うからさ」


 本心を吐露しながら、コロコロと椅子を転がして元にいた位置に戻り、腰を掛ける。


 美紗の気持ちが和馬に向いてしまったとしても、こんなに意地汚いことが平気で出来てしまうほどに、俺は今も美紗が好きだ。


 「……」


 美紗が無言で俺を見つめる。その目は何故か潤んでいた。


「ちょっと、話さない? 俺の話、聞いてくれない?」


 美紗の涙の意味は分からないが、それでもこのチャンスを逃してはならないと思った。


 美紗が和馬のものになってしまったのなら、美紗をこうして話す機会ももうないかもしれない。


 今、自分の気持ちを全部話しておきたいと思った。


「私も、佐藤さんと話がしたいと思っていました」


 どうやら、美紗も俺に話がある様だ。


 和馬の話なら聞きたくない。そんな話を聞いてから出来る話ではない。だから…、


「美紗の話も聞く。だけど、俺から話させて」


 勝手だけど、俺から先に。


「はい。聞かせてください」


 美紗は快諾してくれた。


 急にこんな事になってしまったから、何をどう話せば良いのか分からない。


「……真琴のこと、親のこと、赦せないと思った。何で何でって人のせいにしてたけど、俺だって悪い。自分のこよも赦せないんだ。ずっと後悔しているんだ。どうして美紗を助けられなかったんだろうって。俺なら気付けたはずなのに。真琴と一緒に暮らしていたわけだから。俺なら真琴を止めるられたはずなのに、美紗が苦しんでいる時、俺は高校生活を笑いながらのうのうと過ごしてた」


 話を順序立てる余裕なんかないから、とりあえず思いのままに話し出す。


「それは佐藤さんが気に病む必要ありません。真琴ちゃんと家族からって、四六時中一緒にいるわけじゃない。気付かなくて当然です。後悔なんかしないでください。私、佐藤さんの高校生活が楽しいものだったって分かって嬉しいです。本当に。良かったって思ってます」


 美紗が首を左右に振りながら、俺の懺悔を否定した。


「良くないよ‼ 俺、美紗がどんな思いをしたのか知りたくて、聞いた事を全部してみたんだ。……でも、無理だった。口に土と虫を近づけただけで嘔吐したし、便器に顔を付けることさえも、身体が拒否した。ごめん、美紗。本当にごめん。ごめんなさい。美紗が俺と結婚したくない気持ち、理解してるくせに素直に受け入れないで苦しめてごめん。全部全部、ごめんなさい」


 勢いよく美紗に頭を下げると、


「なんで⁉ なんでそんなことするの⁉ 私は佐藤さんに同じ思いをしてほしいわけじゃない‼ 佐藤さんに苦しい思いをしてほしいわけじゃない‼」


 美紗が俺の両肩を掴んで揺らした。


 俺を揺すった振動で、美紗の目から涙が零れ、スカートに染みを付けた。


「……じゃあ、美紗は俺にどうして欲しい? 解放して欲しい? もう俺のことは好きじゃない? 和馬くんの事を好きになっちゃった?」


 美紗の目から次々溢れ出す涙を「スカート濡れちゃうよ」と親指で拭うと、


「日下さんと一緒に旅行に行ったら、好きになるんじゃないかと思いました。佐藤さんより好きになれるんじゃないかと思ってたのに……佐藤さんが旅館まで来ちゃうから……」


 美紗の頬に触れる俺の手を、美紗が強く握った。


「行ったけど、邪魔してないじゃん。おみやげ売り場で話し掛けただけじゃん。それさえも邪魔だった?」


「存在が邪魔だったんですよ」


 泣きながらなかなか辛辣なことを言う美紗。


「……ひっど。美紗」


「隣の部屋に佐藤さんがいると思ったら、気になって気になってしょうがなくなるじゃないですか」


 美紗が、悔しそうな目で俺を見た。


「本当に俺のことなんか気にしてた? 朝から仲良さそうに2人で朝メシ食ってたじゃん。俺のことなんか、気にも留めずに楽しんだんだろ? 結局、付き合ったんじゃないの? 和馬くんと」


 正直、悔しいのは美紗ではなく俺の方がだ。攻め立てる様に問い掛ける俺に、


「旅行は楽しかったです。でも、付き合ってません」


 美紗が否定をしながら首を左右に振った。


「でも、一緒に寝たんだろ⁉」


 苛立ちと悔しさが入り混じり、勢い余って答えなど聞きたくもない質問が口をつく。


「一緒には寝てません。一緒の部屋で寝ただけです」


 真剣な目で答える美紗が、冗談を言っている様には見えない。でも、


「何その、女子のありがちな言い訳。女子あるある? 正直に言えばいいじゃん。何の為の否定?」


 大人の男女が温泉に行って、何もないはずがないことを、大人の俺は分かりきっている。


 簡単に信じられるわけもなく、変に嘘を吐かれるくらいなら潔く認めてくれた方がマシだ。と乾いた笑いが漏れた。


「佐藤さんに信じてもらえなくても、佐藤さんに堂々と【日下さんとは何もしていない】と言いたかったからです。私は、日下さんとは何もないです」


 それでも美紗は切実に訴えてきた。


「だから、何で美紗は俺に『和馬くんとは何もない』って言いたかったの?」


「無理だったからです。諦めようと、忘れようと、自分の気持ちを押し殺そうと頑張ったのに、ダメだったんです。やっぱり私は、佐藤さんが好きです。佐藤さんの中で小田ちゃんの存在が大きくなっていたとしても、私は佐藤さんが好きなんです」


 ぎゅうっと胸の辺りを掴み、泣きながら必死に言葉を紡ぐ美紗。


 美紗からこんな言葉を聞けるなんて予想もしていなくて、今度こそ突き放されるんだと思っていたから、気持ちに頭がついていかなくて混乱する。しかも、


「……俺の中で小田さんの存在?」


 何のことを言っているのかさっぱり分からない事柄も出てきているから。


「慰めてもらったんですよね。小田ちゃんに」


 美紗が、肩で呼吸をしながら泣く。


「は? え⁉ 何もない‼ それこそ何っにもない‼ 頭を撫でてはもらったけど、それだけだし‼」


 いつの間にか、立場が逆転。何故か俺の方が疑いの目を向けられている。


「正直に言っても大丈夫ですよ。私、大丈夫ですから」


 美紗が心を決めたかの様に、胸に置いた手に更に力を入れた。


「イヤ、本当に‼」


 美紗の目の前で両手の平を左右に振って「違う違う」と打ち消す。


「……そうですか」


 と言う美紗が、納得している様には見えなかった。


「美紗、全然信じてないじゃん‼ 俺、まじで潔白なのに‼」


「……大人なのに、頭撫でてもらって終わり?」


 さっきの俺の乾いた笑いを完コピしたかの様に、美紗が泣きながら「ふっ」と息を漏らした。


「ちょっと待ってよ‼ それを言うなら、美紗は和馬くんと一緒に寝ないで何してたって言うんだよ、大人なの‼」


「トランプとUNOと花札です」


「そっちの方が無理あるわ‼」


 美紗に突っ込みを入れたところで、


『くくくくくくっ』


 2人で吹き出してしまった。


 涙も笑いも止まらない美紗をそっと抱き寄せる。


「俺も無理だよ。美紗のことが大好きなんだもん。諦めきれないよ。……和馬くんとのこと、引っかかりまくってるけど、今回だけはお互い様ってことで無理矢理流さない? 俺、そんなことより美紗と居たい。美紗が結婚したくないならしなくていいよ、俺。形に拘る必要ないと思う。色んな形があっていいと思う。美紗と居られれば、何でもいいんだ。俺は」


 美紗の首元に顔を埋め、久々の美紗の匂いを感じる。


「……本当にそれでいいの?」


 美紗が俺の肩を掴み、自分から引き離した。


「私も色んな形があっていいと思います。だけど、私の夢は小さい頃から【好きな人のお嫁さん】になることでした。結婚は私の夢です。佐藤さんは結婚したくて私にプロポーズしてくれたんですよね? 私、佐藤さんから結婚の制度を奪う様なことはしたくないんです。だから……」


「嫌だ‼ 絶対に嫌。そんな理由で別れないよ、俺。美紗も俺の事が好きだって言ってくれたじゃん。なんでそういうこと言うの?」


 美紗の言わんとする事が分かって、先を言わせない様に遮る。


「最後まで聞いてください。日下さんに言われたんですけど……」


「今、和馬くんの話を聞かされるの?」


 困った顔で話を続けようとする美紗の発する【日下さん】に拒絶反応が起こり、再度話の腰を折る。


「美紗の話も聞くって言ってたのに……」


 美紗の眉間に皺が寄った。


「ゴメン。聞きます。すみません。どうぞ」


 出来れば短めに話して欲しいと思いながら、しぶしぶ耳を傾ける。


「日下さんに、『真琴にも良いところはあるんだよ。だから俺は真琴のことが好きだったんだよ。美紗ちゃんには見えていない良いところがあるんだよ』って言われました。それが見つかれば、結婚の糸口が見えるかもしれないって。探そうと思いました。だから教えて欲しいんです。真琴ちゃんの良いところを。私、佐藤さんと結婚したいです。佐藤さんはまだ、私と結婚する気はありますか?」


 美紗の話は、全然しぶしぶ聞いて良い話ではなかった。


「……和馬くんのこと、忌み嫌いすぎた。めちゃめちゃイイヤツだったんだ。俺、心の中では【くん】なしで呼んでたのに」


 自分の悪態を反省しつつ、美紗と和馬くんの間には本当に何も無かったのかもしれないと思った。


「めちゃめちゃいい人ですよ、日下さんは。……それで、真琴ちゃんの良いところは教えてもらえますか? 佐藤さんにはまだ結婚の意志がありますか?」


 美紗が答えを急かすように同じ質問を繰り返した。


「あるに決まってるでしょ‼ だから敬語と【佐藤さん】呼びもうやめてよ、美紗」


 今度は強く美紗を抱きしめる。もう2度と何処へも行かせない様に。


「……ほっとした。良かった。勇太くんは優しいから、私がちゃんと反省して謝れば今までのことを赦してくれるんじゃないかって思ってたんだけどね、結婚する気はもうなくなってしまったかもしれないって不安だった。勇太くんに『結婚しなくてもいい』って言われて、当然だって理解はしているのに、しつこく粘っちゃった。勇太くんと結婚したくて、でもしたくなくて、だけどうしてもやっぱりしたかった。……勝手なこと言ってるよね、私。ごめんなさい」


 美紗が敬語をやめて、俺を【勇太くん】と呼びながら俺の背中に手を回した。


「本当に勝手。勝手すぎ。今度からは何かあったら絶対俺に相談して。何でも聞くから。自分ひとりで決めないで。俺、頼りないかもしれないけど、頼ってよ。美紗のことは全力で守るから。いつでも盾になるから」


 ちゃんと聞こえる様に美紗の耳元に顔を寄せると、


「……盾になってくれるんだ」


美紗が俺の顔を見て「ふふっ」と笑った。


「……何。クサい? キザすぎ? 今くらい良くない?」


 恥ずかしくて少しむくれて見せると、


「クサいしキザだけど、盾、ずっと欲しかったんだ。ありがとうね、勇太くん」


 美紗が俺の頬を撫でた。


 頬を撫でる美紗の手が心地良くて目を閉じていると、


「……ねぇ、勇太くん。真琴ちゃんのことが知りたい。教えて?」


 美紗が、真琴の事などすっかり忘れ、幸せ気分に浸る俺の目を覚ました。


 そう、問題は解決していない。


「……ちょっと待って。考える。何せ、ついさっきまで真琴のこと、憎んでしかいなかったから」


 顎を親指と人差し指で挟み、盛大に悩む。


「考えるって……。パッと出てこないの?」


 ひたすら斜め上を見ながら真琴の良いところを思い出そうとしている俺に、美紗が不安そうな表情を見せた。


「待って待って。大丈夫‼ 今までアイツの悪い所ばっかり目に付いてたからさ。……うーん。あ‼ 美紗と和馬くんの旅行の情報流して来たの、真琴なんだよね」


 ひらめいた様に答える俺に、


「……でしょうね」


 苦笑いの美紗。


「真琴からしてみたら、美紗と和馬くんの旅行をぶち壊して欲しいからだったんだと思うけど、俺もそうだったから利害が一致しただけなんだけど、結果的にナイスアシストだったんだよね、俺にとっては。正直、何も出来なかったから、無駄な旅行だったなって思ってたんだけど、無駄じゃなかったみたいだし。美紗が俺のことを気にしてくれたから」


「……うん」


 俺の説明に納得していない様子の美紗の『うん』はきっと、『そうですね』の意味ではなくただの相槌だ。


「真琴にあの旅館を予約してもらった時にさ、真琴が『美紗を取り戻すことが出来たら、ハネムーン代出してあげるよ』ってさ。『行きたいところも泊まりたいホテルも好きなの選べばいい』って言い出してさ。まぁ、何割かは社割利くし、自分の営業ポイントになるからってこともあるんだろうけど」


 それでも尚、話し続ける俺に、


「自腹で営業成績上げても、結果損するじゃん。海外旅行しようものなら、お給料2か月分飛んじゃうよ」


 美紗が首を傾げた。


「俺もそう思う。真琴ってさ、昔から人に謝るってことが出来ない奴でさ。『謝罪=負け』だと思ってる節があるって言うか……。アイツ、小さい頃から俺に劣等感があったみたいでさ。いつも『どうせお兄ちゃんには敵わない』って言ってた。家での鬱憤を学校で……美紗で晴らしてたんだと思う。誰かを虐めて人の上に立った気でいたんだと思う。馬鹿丸出しだよな。今も素直に謝れないでいるんだよ。真琴も大人になって、自分の過ちが分かって、アイツなりに反省してるんだと思う。謝れないから、わざと自分に荷重をかける様なことを自ら提案したんじゃないかな。だからって、赦さないけどね。絶対謝らせるけどね。このまま謝罪も出来ない人間でいられるのは、兄として恥ずかしいから。更に遠慮もしないからね。新婚旅行代、真琴に出させるから。美紗、たしかフィレンツェに行きたいって言ってたよね?」


 前に2人でテレビを見ていた時に、旅番組で放送されたフィレンツェの景色を見て美紗が『行ってみたいな』と言っていたのをふと思い出した。


「イヤイヤイヤイヤ。さすがにそれはやり過ぎ。新婚旅行は2人でお金を貯めて行こうよ」


 美紗が顔を左右にブンブンと降った。


「美紗ならそう言うと思った。俺も反省をお金や物で返すのってどうなのかな? って思うこともあるけどさ、人の気持ちって目に見えないから、良く分かんないじゃん。例えば、結婚だってそうでしょ? 俺さっき、『美紗が居てくれるなら形に拘らない』的なことを言ったけどさ、それは全然嘘じゃないけどさ、やっぱり『美紗は俺の妻です』『俺は美紗の夫です』って証明が欲しいと思ったもん。美紗の3年間の苦しみが、真琴の給料2ヶ月分ぽっちなわけないと思う。だけど、真琴ってまじで貯金ないんだよ。ボーナス当てにしてボーナス払いで鞄買っちゃうくらいに計画性がないし。だから、これが真琴の目に見える精一杯の反省なんだと思う。金持ちの【金で解決】とは違うんだよ。そこは汲んで欲しい」


 何とか真琴の反省が美紗に届けたくて、懇願する様に話す。


「……じゃあ、熱海にしよっか?」


 美紗は真琴の気持ちを受け取ってくれたのだろう。優しい美紗は、真琴の負担を軽くしようと行き先の変更を提案した。


「熱海にフィレンツェないじゃん。熱海は行こうと思えばいつでも行けるじゃん。フィレンツェ行くの‼」


 しかし、折角の新婚旅行。言葉も違う異国で2人きりの世界に浸りたい。


「じゃあ、実際いくらかかるのか調べてから決めよう。別にフィレンツェ一択にしなくても…ね?」


 美紗が俺を諭しながら困った様に笑った。


「そうだね。家に帰ってゆっくり決めよう。どこがいいかなぁ?」


『家で考える』と言いながら、既に考え始めている俺に、


「……ねぇ、勇太くん。真琴ちゃんって、きっと今も日下さんを好きなんだよね? 日下さんと私の旅行を邪魔したかったわけだから」


 美紗が、もうなかったことにしてしまいたい美紗と和馬くんの旅行話を蒸し返した。


「だと思うけど」


 だから素っ気なく答えると、


「じゃあ、日下さんに『真琴ちゃんが新婚旅行をプレゼントしてくれるんだって』って報告しておこうと思う。真琴ちゃんへのお礼として、ちょっとでも真琴ちゃんのアシストになればいいなと思って。それで、日下さんとの連絡は辞める。私には盾があるから砦ははなくても大丈夫」


 美紗は、和馬くんが抱いているだろう真琴のあまり良くない印象の改善を図ると、訳の分からない事も言い出した。


「あの2人、より戻せる可能性あるの? てか、何? 砦って」


「……うーん。難しいかもだけど……でも、ウチラだって復活したんだし、どうなるか分かんないでしょ? 砦は……勇太くんさえいてくれればそれでいいってこと‼」


 普段、割とゆっくり話す美紗の口調が、後半早口になった。


 自分が言った事に、顔を真っ赤にして照れる美紗があまりにも可愛くて、


「あぁー‼ 帰りたい‼ 今すぐ美紗と一緒に家に帰りたいー‼」


 美紗とこうして話すのが久々で、嬉し過ぎて楽し過ぎて、もう今日は仕事したくない。


「帰っちゃだめでしょ。勇太くん、午後から戦略会議入ってるでしょ? 私も今日は、帰りに実家に寄ってお母さんに温泉まんじゅう渡す約束してるから、家に帰ってる場合じゃない。残業しない様に午後はきっちり働かないと」


 今日もしっかり俺の予定まで頭に入れている美紗が、完全にやる気をなくした俺の髪を撫でながら宥めた。


 お母さんに、温泉まんじゅう……かぁ。


「今日、俺も美紗の実家に行ってもいい?」


「別にいいけど、おまんじゅう渡すだけだよ?」


 突然の俺の申し出に不思議そうな顔をする美紗。


「……あのね、美紗。実は俺、美紗との約束破ってるんだ。ごめん」


「え?」


 俺の髪を触っていた美紗の手が止まった。


「美紗との結婚がだめになりそうになった時、美紗のお母さんに会いに行ったんだ。ちゃんと謝りたかったし、もし美紗がお母さんにまで嘘を吐いていたとしたら、『違う』って全力で否定しようと思ってさ。美紗に口止めされてたのに、美紗のお母さんに美紗が過去に受けていた苛めのこと、話した。勝手にごめん。美紗のお母さん、泣いてたよ。美紗のお母さんも後悔してた。『なんで気付かなかったんだろう』って。美紗、お母さんを泣かせたくなくて黙ってたのにな。俺、泣かせちゃった。本当にごめん」


 謝りながら頭を下げると、


「勇太くんの優しさを侮ってたな。勇太くんがお母さんに会いに行くこと、想定してなかった。勇太くん、そういう人だもんね。私のお母さんのことも大事に思ってくれる人だもんね。だから好きになったのに。謝らなくていいよ、勇太くん。お母さんを泣かせたのは勇太くんじゃない。お母さんはきっと、自分にまで嘘を吐いて婚約破棄をしようとした私に悲しくなって泣いたんだよ。私今日、お母さんに謝る」


 美紗が俺の顔を覗き込んで微笑んだ。


「俺も美紗のお母さんに心配かけた事を謝りたいし、お礼もしたいから、今日は俺も絶対残業しない‼ 定時で帰る‼」


 美紗に笑い返すと、


「お礼って何の?」


 微笑んでいた美紗の顔が、右側に少し傾いた。


「俺さ、美紗の事が好きな気持ちは変わらないのに、どうしたら良いのか分かんなくなっちゃったんだよね。俺との結婚が美紗を苦しめているのなら、手放して自由にさせてあげた方が美紗は幸せなのかもしれないって。でも、やっぱり美紗のことが好きだから、どうしてもそれは出来なくて……って時に、美紗のお母さんが背中押してくれたんだ。自分の大事な娘を酷い目に遭わせた人間の兄にそんなこと、なかなか出来ないよ、普通。凄く嬉しかった。有難かった。物凄く感謝してるんだ」


 傾いた美紗と視線を合わせようと、自分の頭も左に傾けると、


「……嬉しいね。自分の家族を褒められるって。なのに私は、勇太くんの家族を悪く言ってばっかりだった。最低だ。本当にごめんなさい」


 美紗は俺と目を合わす事なく、両手で顔を覆って泣き出してしまった。


「最低なんかじゃないよ。自分のこと、そんな風に言わないで。美紗、真琴に酷いことをされたのに、真琴の良いところ探そうとしてくれたじゃん。真琴をアシストしようとしてるじゃん。優しい気持ちがなきゃ、そんなこと出来ないよ。美紗が最低なわけがないよ。……って、話逸らして、真琴の良いところ1つも言ってなくね? 俺」


 顔を隠したままの美紗の手を剥がして、情けなく笑ってみせると、美紗も鼻を啜って笑った。


「ありがとうね、勇太くん。ゆっくりでいいよ。真琴ちゃんが反省してくれてるって教えてもらえただけで、なんかちょっと救われた。勇太くんが思いついた時に聞かせて」


「うん」


 俺と美紗は結婚する。焦らなくても、2人の時間はたくさん作れるんだ。


「もうすぐお昼休み終わっちゃうね」


 美紗が壁掛け時計を見上げた。


「日本の昼休み、短すぎだよな。スペインは3時間休めるのにな。日本にもシエスタが必要だと思う」


 美紗ともっと一緒にいたくて、美紗に抱きつく。


「休んだ分帰りが遅くなるんだから、お昼休みは1時間で充分だよー。早く勇太くんと一緒に帰りたいもん。……てゆーか、仕事どうしよう。今更退職願取り下げられないし、就活しなきゃだー」


 美紗が可愛い事を言って、嘆きながら俺に抱きつき返した。


「しなくていいよ、就活。だって美紗の退職願、部長に揉み消してもらったし。『後任が見つからない』って、俺が部長に頼んで吐いてもらった嘘だし。あ、部長にこのこと報告しないと。部長、詮索するタイプじゃないから、俺もサラっとしか説明しなかったんだけど、部長も俺たちのこと、心配して応援してくれたんだよ。美紗のこと、大好きだけど、美紗の好き勝手にはさせませーん」


 ふふーんと美紗に笑ってみせると、


「私も大概だけど、勇太くんも知らないところで色々動いてたんだね。おそるべし。でも、ありがとう。もう少し勇太くんと働きたかったから、本当に良かった。部長にもちゃんとお詫びして来なきゃ」


 美紗が驚きながらも嬉しそうに目尻を下げた。


「じゃあ、折りを見て2人で部長のところに行こっか」


 俺にぴったり抱き着く美紗の髪を撫でると、


「うん」


 美紗が気持ち良さそうに俺の胸に顔を埋めた。


 そんな顔でそんなに密着されると……、


「……美紗ー。そんな風にくっつかれると離れられなくなるでしょ。仕事、したくなくなるでしょうが。さっきから俺、帰りたくてしょうがないのに」


 仕事に戻る気力を根こそぎ吸い取られる。


「じゃあ離れる。デスクに戻ろう。本当にお昼休み終わりだから」


 離れがたくて仕方ない俺とは逆に、美紗はアッサリと俺から身体を離した。


「そんなにスッと離れて行かないでよ。淋しい気分になるでしょうが‼ 『私も離れたくない』くらい言ってよ‼」


 ずっとこうしていられないことは分かっていても、ちょっとくらい美紗にも寂しがって欲しかったんですけど。


「私は早く戻ってサクっと仕事を終わらせて、勇太くんとゆっくりしたいんだもん。仕事が残ってると思うと、落ち着いて勇太くんと過ごせない」


 ごもっともな美紗の意見。美紗の意見には完全に同意。


 こういう時、美紗は案外男前で俺の方が若干女々しくなってしまう。恥ずかしい。


「その通りだね。仕事、頑張る‼」


 もう、仕事やるしかない‼ さっさと終わらせるしかない‼ と椅子から重い腰を上げると、


「私も頑張る‼」


 美紗も一緒に立ち上がった。


 食べ切れなかったおまんじゅうの入った箱を持ち上げ、会議室を出ようとドアを開けると、


「……え? 何で2人が一緒にいるの?」


 ちょうど扉の先にいた小田さんが、こっちを見て眉を顰めた。


「……あのね、小田ちゃん」


「普通でしょ? 付き合ってるんだし。もうすぐ結婚するんだし」


 言い辛そうに口を開いた美紗を遮る。


 美紗が困惑気味に黒目を揺らしながら俺を見上げた。


「……どういうこと?」


 小田さんの視線は俺ではなく美紗に向いていて、明らかに美紗に問いかけていた。


「……それは…」


「昼休み、終わりだよ。美紗も小田さんもデスクに戻らなきゃ」


 それでも美紗の話を切断し、代わりに小田さんに答えながら美紗の背中をそっと押して、「俺に任せて。しっかり盾の役割を果たさせて頂きます。だから心配しないで」と耳打ちをすると、「後でメールするから見て」と美紗が俺のスーツの裾をツンツンと引っ張った。


 美紗に頷くと、美紗が小田さんに何か言われない様に、美紗のデスク経由で自分の席に戻った。


 俺がピッタリ美紗に貼り付いていたせいで何も聞くことの出来なかった小田さんは、不審と言うよりは不快の眼差しを美紗に向け、何か納得のいっていない様な表情をしながら自分の席に着いた。


 俺の席は美紗と小田さんの席からは離れているが、2人の様子は見える位置にある。


 誤解を解くなら、戦略会議が始まる前。会議に入ってしまえば、2人の動きが分からない。


 どう説明すれば波風が立ち辛いだろうと、頭の中で話す段取りを考えていると、パソコン画面に新着メールの知らせが表示された。


 差出人は美紗。


 マウスを動かしメールを開くと、【私たちのことを説明するのに私の過去を話す必要があるなら、私はもう隠しておこうとは思っていないから別にいいよ。でも、勇太くんの家族が絡む問題だし、何も悪いことをしていない勇太くんが偏見を持たれる可能性がある。勇太くんが嫌な思いをするのは嫌だ。勇太くんは、みんなにどう話そうと思っているの?】と書かれていた。


【俺、偏見持たれたくないなんて言った事あった? 俺、美紗が変な嘘吐いて俺を守ろうとしてくれたの、正直嫌だったんだ。自分が白い目を向けられることより何倍も嫌だっだ。だから俺は平気。美紗が平気なら、俺は平気。だから正直に話す。もう嘘は懲り懲り】


 美紗に返信文を打ち、送信すると、


【勇太くんに任せる。勇太くんに従う。自分で掻き回しておいて人任せにしてごめんね。だけど、勇太くんの思うところを私がニュアンスを間違えて伝えたくない。甘えさせてください】


 美紗からすぐに返信が来た。


 チラっと美紗の方を見ると、美紗も俺を見ていて、俺に伺いを立てるかの様に首を傾げた。


 そんな美紗に、


【だから頼ってって。盾になるって言ったじゃん】


 メールを返すと、短い文章の返事がきた。


【私は勇太くんが大好きです】


 パソコンの文字を見た瞬間、本当に『きゅん』という音がしたんじゃないか? と思うくらいに胸がきゅんきゅんした。


 これは永久保存。と自分の携帯に転送し、保護。


 また美紗の方に目をやると、赤面した美紗が照れを誤魔化そうと猛烈にキーボードを打っていた。


 照れを隠すどころか、悪目立ちしてしまっている美紗に、


【そんなに照れるならさっきのメール打たなきゃ良かったのに。でも、すっごく嬉しかった。そんな美紗もどんな美紗も大好き】


 怪しい動きを指摘しつつ、『大好き』を言い返してまた美紗を見ると、美紗は更に顔を赤くしながら両手で自分の顔を仰いでいた。


 可愛いなと思った。こんなに可愛い人が自分のお嫁さんになってくれるのだから、絶対に守り通そうと思った。


 決意を固め、自分も仕事に取り組もうと稟議書の見直しをしていると、


「これ、どういうこと?」


 隣のデスクの岡本が俺の椅子の肘置きを掴み、自分の席に引きずり込んだ。


 岡本に見せられたパソコン画面には、差出人が小田さんのメールが開かれていた。


 件名のないメール。本文には【佐藤さんと美紗、結婚するって】と書かれていた。


「結婚、しないんだろ? 木原さん、新しい彼氏に振られたからって調子良く戻って来たとか? お前、あんな酷い裏切られ方をしたのに、木原さんの事を受け入れたわけじゃないよな?」


『違います』と言う答えしか受け付けていないだろう質問の仕方をする岡本。


『違う』ことには間違いないが、俺の『違う』は岡本が期待している『違う』とは違う。


 そもそも全部が違う。


「するよ、結婚。当然だろ。美紗の彼氏は俺なんだから」


「は?」


 俺の返答に苛立つ岡本。


 パソコン画面の右下のデジタル時計を確認すると、戦略会議の10分前。喫煙ルームを横目で見ると、誰もいない。


「岡本、場所変えよう。5分だけ話せる?」


「いいよ。行こうぜ」


 俺の誘いに乗る岡本。さっきの俺の返事に対して言いたいことがあるのだろう。


 岡本と一緒に喫煙ルームへ。


 2人共煙草を吸わない為、そんな俺らが喫煙ルームにいる事を周りに怪しまれない様に、窓の外から中を確認出来ない高さまでしゃがみ込み、田舎のヤンキーの様な佇まいで話すことに。


「手短に話すと、結論として結婚はする。絶対にする。美紗が浮気したって話、美紗が言いふらした嘘だから」


「何それ。何の為にだよ」


 短すぎて不可解な俺の発言は、岡本を納得させられるわけもなく、疑問しか生まなかった。


「美紗、中学の時に酷い苛めに遭ってたんだよ。本当に耳を疑う程の壮絶な内容の苛めだった。結婚の挨拶をしに俺の実家に行った時、美紗を苛めていた人間が俺の妹だったことが分かってさ。美紗、妹を見た途端に顔色悪くして、呼吸困難になるほどの過呼吸になってた。で、『結婚出来ない。ごめんなさい』って。美紗、『自分から婚約破棄を申し出たから、責任は全部負う』って悪者を買って出て、あんな嘘を吐いたんだ。美紗の嘘、すぐに辞めさせようと思ったけど、美紗に『過去に苛めを受けていたことは誰にも言わないで欲しい。自分にもプライドがある』って言われて出来なかった。本当は美紗、自分のプライドより俺の体裁を守りたかっただけなんだよ。俺が周りから『苛めを行う人間の兄』という目で見られないように。実を言うと、さっきのさっきまでそんな状態だった。だけど、美紗が考え直してくれてさ。多分、美紗にとって全部を納得した結婚ではないと思うんだ。それでも美紗は俺を選んでくれたから、俺も美紗の為に動く。俺、美紗がでっち上げた嘘、全部消すから」


 詳しく補足をすると、


「……佐藤が前に言ってた『美紗は何も悪くない』って、そういうことだったんだ。……木原さんに悪い事しちゃったな。結構キツく当たったもんな、俺」


 岡本が「何だよ、それ。まじかー」と言いながら頭を垂れ、項垂れた。


 が、ムクっと顔を上げる岡本。


「だとしても、木原さんの嘘はやっぱエグイわ」


「え?」


「佐藤は木原さんとのゴタゴタで周りの様子に気付かなかったかもしれないけどさ、みんな見事に木原さんの嘘に騙されて、『小田さん、頑張って今度こそ佐藤と付き合え‼』っていう応援ムードになってたんだよ。俺も本人に『攻めろ‼ 押せ押せ‼』的なこと言っちゃたしさ。木原さんが吐いた嘘をそのまま訂正してみんなに話すのは、ちょっと小田さんが可哀想。部署のみんなだって、どうしていいか分かんないだろ。小田さんに何て声掛けて、どう接しろって言うんだよ。その真実は小田さんを傷つけるよ。小田さんがあまりにも不憫」


 岡本が難しい顔をしながら俺を見た。


 岡本の話に、俺の顔も険しくなる。


 自分のことで精いっぱいで、周辺がそんな動きをしているなんて微塵も気付かなかった。


 真実は小田さんを傷つける。どうすれば美紗の嘘は覆るのだろう。


「……」


 人差指で眉間を擦りながら悩んでいると、


「佐藤、会議の時間だぞ。取り敢えず、小田さんには俺から本当のことを話しておく。今の話を木原さんの味方である佐藤から伝えられるのは、相当辛いし残酷だと思う。自分の好きな人が、騙された自分ではなく、騙した側を擁護するって、ショック大きいよ。絶対。だって小田さん、佐藤のことが凄く好きだったからさ。佐藤の結婚が決まって、小田さんがどんな思いで諦めたと思う? そんな想いをもう1度掘り起こしておいて『嘘でした』はないよ。木原さんの嘘はだめだよ。佐藤を守りたくて吐いた嘘だからって、他の誰かを傷付けていいはずがないよ。みんなにどう話すかは佐藤が考えろよ。話し方を間違えると大変なことになる。みんなに『木原さんの嘘に踊らされてた』って捉えられ兼ねないから」


 岡本が先に立ち上がり『行くぞ』と俺の頭をポンポンと撫でた。


「ありがとな、岡本。小田さんの事、頼むわ。俺、ちょっと考えるわ。どうにかするから」


 遅れて自分も立ち上がり、2人で喫煙ルームを出た。



 ----------淡々と戦略会議を終え、着々と今日の仕事を片付け、美紗と一緒に退社。


 2人で仲良く電車に乗り、美紗の実家に向かっている最中に、今日岡本と話した内容を美紗に話した。


「美紗に小田さんを傷付けるつもりはなかったってことは分かってるから」


 と最後に付け加え、気分を悪くしただだろう美紗に気遣うと、視線を落としながら黙って俺の話を聞いていた美紗が、


「最初はそうだった。勇太くんのことしか考えてなくて、自分の吐く嘘によって小田ちゃんがどんな気持ちになるかまでは、気が回ってなかった。でも小田ちゃんが勇太くんに近付き出した時に、焦って私、小田ちゃんにちょっと意地の悪いことをしたんだ。勇太くんと結婚出来ないって言ってたくせに、小田ちゃんに勇太くんを取られたくなくて、勇太くんに【私の方が仕事出来ますアピール】してみたりした。今日もそう。勇太くんがこんな私とそれでも結婚するって言ってくれた時、ただただ嬉しくて、小田ちゃんのことを気にもしなかった。酷いよね。嫌な思いをしている人がいるのに、自分の幸せに酔ってるなんて。真琴ちゃんが私を嫌った理由は、私のこういうところにあったんだと思う」


 後悔を口にしながら俯いた。


 美紗はこういう時、素直すぎるくらいに正直者だ。自分の汚い部分を隠そうとしない。


「反省してるなら、もう嘘はだめだよ」


 よしよしと美紗の頭を撫でると、


「……私のこと、嫌になってない?」


 美紗が顔を上げて、不安そうに俺を見た。


「なってないよ。こんなことで美紗を嫌いになるくらいなら、嘘吐かれた時点で終わってたでしょ、ウチら。むしろ嬉しかった。美紗、小田さんに嫉妬するくらい俺を好きでいてくれたんだなーって。それと、反省しすぎて真琴に虐められた原因を変に解釈するのは良くないよ。俺、【虐められる側にも悪い部分はある】っていう理屈、大嫌いだから。そんなのは虐めていい理由になるはずがない。今回の件に真琴のことは関係ない。虐められた理由の反省はしなくていい。反省しなきゃいけないのは、嘘を吐いて小田さんを傷付けたことについてだよ。つか、それに関しては俺にも責任かまあるし。美紗のことで気持ちが参ってて、つい小田さんに甘えてしまったから。小田さんの気持ち、知っていてやったから」


 自分が情けなくて、無意識に出た溜息が美紗の髪の毛を揺らした。


「……どうしたら、勇太くんと私の反省を、小田ちゃんを傷付けずに伝えられるかな」


 これからお母さんに会いに行くというのに、泣きそうに声を震わす美紗。


「ゆっくり2人で考えよう。大丈夫。俺もいるから。美紗がひとりで悩むことじゃない。月曜日まであと2日あるんだよ。考える時間はちゃんとある。だから、そんな顔しないで、美紗。お母さんが心配するよ」


 そっと美紗の背中を擦ると、美紗が自分の身体を預けるように、俺の肩に頭を乗せた。


 美紗が俺を頼っている。


 どうにかして解決策を見付けたい。


 美紗と小田さんが笑い合う姿が見たい。


 移り変わる車窓の景色を眺めながら、どうすべきなのかを考えていると、美紗の実家の最寄り駅に到着した。


 電車の中で良い案を捻り出すことは出来ず、一旦この事は頭の隅に置いて置くことにして、2人で美紗の実家まで歩く。


 この近くを会社の人間が歩いている可能性は低い。


 手、繋ぎたいな。と、そっと美紗の右手に自分の左手を触れさせると、


「……繋いでもいい?」


 と、質問をしておきながら俺の返事も待たずに、美紗から指を絡めてきた。


「もう繋いじゃってるし」


『ははは』と笑いながら美紗の手を握り返すと、


「待てなかった」


『へへへ』と美紗も笑い返した。


 幸せだなと思った。


 幸せは確かに今、俺の手の中にある。


 今日はこの幸せをお義母さんに見せて、安心させたい。たくさん心配かけたから。


 美紗の実家に着き、ベルを鳴らすと、


「はーい。いらっしゃーい」


 お義母さんが元気に玄関のドアを開けた。


「急に俺まで付いてきてしまってすみません」


 ぺこっと頭を下げて挨拶をすると、


「美紗から突然『2人で行く』ってLINE来たから、たいした料理作れなかったー。もうちょっと早く言ってくれれば良かったのにー。お買い物に行く時間もなかったから、勇太くんの好きな料理はからあげくらいしかないわよ。あとはみんな美紗の好きなものばっかりになっちゃった」


 頭の上からお義母さんのチョップが下りてきた。


 頭を摩りながら顔を上げると、お義母さんが俺に「グッジョブ」と口パクしながら笑った。


「お気遣いありがとうございます。……あのー、お義母さん。『美紗の話をしたことは美紗には黙っていてください』と自分からお願いしておいて何なのですが……俺、話しちゃいました。すみません。美紗、全部知ってます。口パクじゃなくて、声にしちゃって大丈夫です」


 俺との約束をしっかり守っていてくれただろうお義母さんに、更なる謝罪をすると、


「えぇー‼ 約束させた側が破るって何⁉ まぁいいけど‼ だって2人揃って来たってことは、仲直りしたってことでしょ?」


 お義母さんは、一瞬頬を膨らませて怒った仕草をしたけれど、すぐに笑顔で俺の顔を覗き込んだ。


「結婚しますってことですよ。先回来た時は気が引けて【お義母さん】って呼べなかったんですけど、今日からは気兼ねなしに呼ばせて頂きます」


「それ、実はこの前気になってて、結構淋しかったのよ。でも良かったわー。本当にー」


 涙ぐみながら、何故か俺にハイタッチを求めるお義理母さん。


 美紗はきっと、お義母さんのこういう明るさと優しさに救われていたから、真琴の酷い虐めに耐える事が出来たのだろうと思った。


「すみませんでした。お義母さん」


 お義母さんの手に自分の手を重ねると、


「良くやった‼ 義息子ー‼」


 と、お義母さんが何度もパチパチと音を鳴らせながら、ハイタッチを繰り返した。


 玄関ではしゃぐ俺らに、美紗がクスクスと笑った。


 美紗の笑顔に、お義母さんも俺も嬉しくなって、必要以上に大騒ぎをしてみせると、


「ねぇねぇ。そろそろお家の中に入ろうよ」


 さすがにやりすぎてしまったのか、美紗の笑顔が困り顔になり、口の前に人差指を立てた美紗に「ご近所さんの迷惑になっちゃうよ」と注意をされてしまった。


「怒られちゃったー。さぁさぁ、2人共靴脱いであがってー」


 てへッとおどけたお義母さんが俺たちに手招きをした。


「おじゃましまーす」


 美紗と一緒に中に入ると、美紗は早速鞄を床に置き、コートを脱いでキッチンへと向かった。


 基本、美紗は働き者だ。会社でもそう。家でもよく動く。


 先にキッチンに入り、出来上がった料理を盛り付けていたお義母さんの隣に立ち、美紗もしゃもじを片手にご飯をよそい出した。


 自分だけじっとしているのも申し訳なくて、


「俺は何をしましょうか?」


 と2人に尋ねると、


「ありがとうね、勇太くん。でも、勇太くんは椅子に座ってテレビでも見てて。大人3人が動ける程、この家大きくない。身動きが取れなくなっちゃう」


 美紗が笑いながらお義母さんに意地悪な顔をした。


「悪かったわねー、狭い家で‼」


 そんな美紗の腕を肘で突くお義母さん。


「悪くないよ。掃除しやすかったもん」


 それでも意地悪し続ける美紗。


「嫌味言うしー‼ もーう‼」


 手に持っていた料理にかからない様に、そっぽを向いて鼻息を荒くするお義母さん。面白い。美紗が意地悪したくなる気持ちが分かる。


 美紗に言われた通り、椅子に座って料理が並べ終わるのを待つ事に。


 じゃれ合いながらキッチンに立つ美紗とお義母さんの姿が可愛くて、微笑ましくて、勝手に頬の筋肉が緩んだ。


 そんな2人が目の前に次々料理を運ぶ。


 美紗の好きなかぼちゃの煮物。きんぴらごぼう。美紗は基本、素朴な料理を好んで食べる。そこに突然の俺の好物・から揚げが登場。お義母さん、ありがとう。俺は基本、肉を食わせておけばご機嫌な人間だ。 


 お義母さんの手料理がテーブルの上に全て並び、やっと美紗とお義母さんが椅子に座った。


「いただきまーす」


 3人で手を合わせて唱和すると、早速からあげから口に入れる。


「美味ーい。肉々しい」


 口の中にまだ肉が入っていると言うのに、箸には次に口に入れる肉を挟んでスタンバイ。そんな幸せいっぱいの俺に、


「勇太くんっていっつも美味しそうに食べてくれるから、作り甲斐があるのよねー。美紗と私の料理、どっちが美味しい?」


 お義母さんが、結構難しい質問をしてきた。


 答え辛いなーと思いながら、チラっと美紗の方を見ると、美紗が興味津々な目で俺の答えを待っていた。助けてくれないのか、美紗さんよ。


「……そりゃあ、美紗ですよ。嫁の料理の方が美味いと感じるのは当然でしょ」


 ちょっと照れくさくて、ボソボソっと答えると、


「『嫁』-‼」


 と言いながら、お義母さんが大笑い。


 美紗は顔を真っ赤にして、俺の二の腕をバシバシ叩いた。そこそこ痛い。でも照れる美紗は可愛い。


 いっぱい笑って、たらふく食ったというのに、食後には美紗が買った温泉まんじゅうを食べることに。


 美紗が俺らの為にお茶を注いでいると、


「ねぇ美紗。真面目な話をしてもいい?」


 さっきまでケラケラ笑っていたお義母さんが、真剣な顔で美紗に話しかけた。


「何?」


 不安そうに返事をすると、お茶を俺らの前に置き、椅子に座る美紗。


「私ね、美紗が自分の子として産まれてきてくれて、本当に良かったなって思ってるの。美紗との生活、毎日楽しくて……。でも、美紗は違ったんだよね。ずっと苦しかったんだよね。なのに、全然気付かなかった。本当にごめんね。ごめんなさい。助けてあげられなくてごめんなさい」


 お義母さんが、美紗に向かってゆっくり頭を下げた。 


「頭なんか下げないでよ、お母さん。謝らないで。お母さんは何も悪くないでしょ? 私、お母さんに気付かれたくなかったの。助けて欲しいとも思っていなかったの。気付いて欲しかったら、厭らしく仄めかして匂わせてただろうし、助けて欲しかったら声を出していたはずだもん。私もね、お母さんが私のお母さんで良かったと思ってる。お母さん、私のことを大事に大事に育ててくれたから。凄く感謝してるんだよ。でも……だからこそ辛かった。苛められていた時、毎日『死にたい。消えたい』って思ってた。でも、お母さんがいつも愛情いっぱいに接してくるから、『私が死んだら、お母さんはどうなってしまうんだろう?』って、どうしても出来なかった。終いにはね、『お母さんが私のお母さんじゃなければ良かったのに。そしたら、今すぐ死ねるのに』って考えたこともあった。だけどね、何だかんだ言って死を選ばなかったのは、やっぱりお母さんの笑顔が見たかったからなんだ。お母さんに心配かけたくなかった。仕事頑張ってるお母さんに、余計な負担をかけたくなかった。お母さんが喜んでくれるから、家事も勉強も頑張れた。死ななくて本当に良かった。あの時、間違った判断をしなかったから、私は素敵な人に出会う事が出来て、結婚が出来る。お母さん、ありがとうね。私を生かしてくれて、本当にありがとう」


 美紗が微笑みながらお義母さんの手を握った。


 そんな光景に、俺の目から涙が零れた。


「え⁉ 何故に⁉ 今泣くのって私の方じゃないの⁉ 勇太くんが先に泣くから、じわじわ来てた私の涙、引っこんじゃったじゃないの‼」


 うっかり泣いてしまった俺の肩を、お義母さんが半笑いになりながら叩いた。俺の隣で美紗も困った顔をしながら笑うと、近くにあったティッシュボックスからティッシュを数枚抜き取り、俺の頬を流れる涙を拭き取ってくれた。


「すみません。つい……。素敵な親子だなぁって。ぐっと来てしまいました」


 美紗の手からティッシュを奪い、鼻を押さえつけ、鼻水をせきとめる。もう、目も鼻も緩みまくり。


「美紗は本当に良い人に出会ったね。良かったね」


 泣き止まない俺を見て笑うお義母さんに、


「うん。おかげさまで」


 美紗も笑顔で頷いた。


「ねぇ美紗。勇太くんがひとりで私に会いに来た時にね、『将来、自分の親が痴呆になったり、介護が必要になった時、美紗に自分を虐めていた人間の親の面倒を看させる様なことをしてもいいのだろうか』みたいなことを言っていたの。充分に有り得る話だと思う。美紗はそういうこと、考えてる? どう思ってる?」


 泣いている俺を置き去りに、お義母さんがだいぶ重要な話を進める。


「今はそういう状況じゃないから何とでも言えちゃう。簡単に『頑張る』って言えてしまう。頑張る気持ちはもちろんある。だけど、そういうのって綺麗事で済まされないと思う。もう、やるしかないんだと思う。やってやれないことはないと思ってる」


 真剣に答える美紗。美紗の気持ちが嬉しくて、涙腺が更に崩壊。


「美紗らしい答えね。介護のことで困ったり分からないことがあったら、いつでも私を頼ってきなさい。私、この道のプロだから。介護の仕事で美紗を育て上げたんだから。私はもう充分すぎるくらいに美紗に親孝行をしてもらった。今度は私が美紗を助ける。あの時助けられなかった分、美紗の力になるから。だから心配なんていらないわ。介護って、精神的に追い込まれることがあるの。それは、どんなに円満な家族にも起こり有ることなの。何の問題もない家庭でも、私たちの様な介護職員の手を必要とするの。だから、苦しくなったら誰かの手を借りてもいいのよ。もう、ひとりで抱え込んじゃだめよ。【苦】は【悪】じゃない。助けを求めることは悪いことでも恥ずかしいことでもなんでもない。でも、介護職員へ依頼するにはお金がかかる。だから美紗も勇太くんもしっかり働くのよ‼ 人は誰でも老いる。【親の為】じゃなくて、【介護の時間を少なくしたい自分たちの為】に働くの。恩着せがましい考え方はだめよ。憎しみが生まれてしまうから」


 お義母さんは、あの日俺が話したことを覚えていてくれて、一緒に考えていてくれた。


 優しくて、力強くて、芯の通っている話。


 そうだった。お義母さんの職業は、ケアマネだった。


「ありがとう、お母さん。でも、親孝行はまだしたいから……」


「俺がする‼」


 お義母さんの話に感動しすぎて、話し出す美紗にカットイン。


『え?』


 美紗とお義母さんが『どうしちゃったの、勇太くん』とでも言いたげな表情で俺を見た。


「俺も美紗を助ける‼ お義母さんへの親孝行、俺がする‼ だって俺からの親孝行は不充分でしょ? 全然何もしてないし。いっぱい親孝行する‼ 美紗の事もいっぱい幸せにする‼ 2人共、俺が守る‼」


 何故かひとりで高ぶってしまい、思わず右手で美紗の手を、左手でお義母さんの手を握る。


「……あ、ありがとう。でも、何から守ろうとしてるのかしら」


 お義母さんが肩を揺らして笑った。


「外敵からじゃない?」


 美紗に至っては、話す言葉が震える程に笑っている。


「~~~俺、真剣に話したのに‼」


 2人にからかわれてやや憤慨していると、


「ゴメンゴメン。でも、嬉しい。ありがとう。だけど、親孝行は二の次でいいわ。最優先は美紗にして」


 お義母さんが「どうどう」と俺の腕を摩った。


「俺のポテンシャルを見縊らないでくださいよ‼ 全然いけます。余裕で2人を同時進行で幸せに出来ますけど‼」


 興奮が収まらない俺の腕に、


「ありがとうね、勇太くん。大好き。お母さんのことも私のことも、末永く宜しくお願いします」


 美紗が絡みついた。


 そんな俺らをお義母さんが目を細めて見ていて。


 2人のこの笑顔は何があっても死守しようと心に決めた。


 

 泣いて笑ってまんじゅう食って、美紗の実家を後にすることに。


 お義母さんに手を振って、最寄り駅まで歩く。


 美紗のアパートにお泊りしたいな。若しくは、美紗に俺のアパートに来て欲しいな。どっちがいいかな。と、最早1人で帰るという選択肢を除外しながら歩いていると、


「……勇太くん。今日はウチに泊まりませんか?」


 美紗が恥ずかしそうに俺の指を握った。


 俺が選ぶ前に、美紗が俺の頭の中の2択の答えを出してくれた。


「うん。泊まりたい」


 もちろんな即答。


「……それで明日、2人で勇太くんの実家に御挨拶に行けないかな? 私もちゃんと挨拶したいしお詫びもしたい。真琴ちゃん、何時だったら家にいる?」


 美紗が俺の指を握る手を、きゅうっと強く握った。多分、緊張しているのだろう。


「大丈夫? 焦らなくても大丈夫だよ。嫌だったら無理することないんだよ? 真琴は……休みじゃなければ、遅番でもお昼には家を出るはずだから、行くなら午後にしよっか」


 もう一度俺の実家に行く勇気を出してくれた美紗に無理をさせたくなくて、真琴のいない時間に行こうと提案する。


「じゃあ、午前中に行きたい。でも真琴ちゃん、ちょっとでも長く寝ていたいかな? 迷惑かな?」


 でも美紗は、むしろ真琴が家にいる時間に行きたいらしい。


「美紗、大丈夫なの? 美紗が真琴に会う気があるなら、真琴なんか叩き起こすけど……」


 戸惑う俺に、


「だって、新婚旅行のお礼言わなきゃ。正直怖いよ。やっぱりどうしても怖い。だけど、私には盾がある。家族になるのに、味方になるはずの人に盾を翳すのはおかしなことだとは分かってるけど、でもまだ私には勇太くんが必要。今はまだ、傍についていて欲しい」


 美紗は『大丈夫』とは言わずに、本音を返した。そんな美紗の言葉が引っかかる。


「『まだ』って。そのうち俺を必要としなくなるってこと?」


「この件に関してはだよ。勇太くんがいなきゃ、お義父さんやお義母さんや真琴ちゃんに会えない関係なんて嫌だから。勇太くんのことはずっと必要。勇太くんが私を必要としなくなっても、私には勇太くんが必要不可欠」


 顔の中央に全パーツを寄せて顰める俺に、美紗が大きく首を左右に振った。


「よく言うよ。結婚取りやめようとしたくせに」


 美紗に『必要』と言われて嬉しかったくせに、意地悪を言ったらもっと別な言葉で喜ばせてくれるんじゃないかと期待して捻くれてみせると、


「結局出来なかったじゃん。勇太くんのこと、やっぱり好きなんだもん。勝手なことをして困らせて嫌な思いさせて、本当にごめんなさい。これからは勇太くんのこと、大事にするから。だからずっと、私の傍にいてください。お願いします」


 俺の言葉は美紗にとってキツイ一言だったらしく、美紗が申し訳なさそうに俺に懇願した。


 ちょっとやりすぎてしまったかなと反省。


「もちろんだよ。美紗もずっと俺の傍にいてね。もう離れていかないでね。お願いだから」


 美紗を「意地悪してごめんね」と抱き寄せると、


「うん。約束」


 美紗が俺の背中に手を回した。


 幸せだな。ずっとこうしていたいな。と、思うけど、


「……美紗ー。取り敢えず歩こっか。この調子だと、一向に駅に辿り着かない」


 続きはゆっくり美紗の家で。


 美紗の肩をツンツンと突くと、


「確かに。よし‼ 早く帰ろう‼」


 美紗がパっと俺から身体を剥がした。


 美紗はこういう時、全然余韻を残さない。ちょっと寂しいけど、『早く帰って一緒に過ごしたい』と思ってくれているだろう美紗の性格を知っているから、淋しいのに楽しい。


「……本当はね、今日は勇太くんの部屋にお泊りしたいなって思っていたんだけど、明日勇太くんの実家に行くなら、ちゃんとした洋服選びたいし、パックもしたいなぁと思って。自分の部屋で、ちょっとでも良いコンディションにして、少しでも印象良く思われたいっていうか……。勇太くん、私の家より自分の部屋の方が良かった? 私の実家に行って、お母さんに気を遣ったりして何かと疲れただろうし、自分の部屋で寛ぎたかった? ごめんね、わがまま言って」


 再び歩き出した美紗が、俺に向かって可愛く両手を合わせた。


「女子って大変だねー。てか、俺は『今日はずっと美紗と居たいなー』って思ってただけで、どっちの家でも構わなかったから別にいいよ。それに俺、お義母さんのこと超好きだから、全然疲れてないよ。気を遣うどころか楽しみすぎて、逆に迷惑掛けちゃったかなって思う」


 美紗の頭をポンポンと撫でる。


「大丈夫だよ。お母さん、勇太くんのことが大好きだから、迷惑になんか絶対に思ってないよ。めちゃめちゃ楽しそうにしてたじゃん。私も明日……」


『明日』の次の言葉が続かず、下を向いてしまった美紗。


 俺の家族と良い関係を築きたいと思ってくれている美紗。でも、不安が拭えないのは当然だ。


「焦らない焦らない。ゆっくり行こうよ」


 腰を屈めて美紗の顔を覗くと、


「そうだね。焦ってどうにかなることじゃないもんね。焦らないしゆっくり行くけど、さっさと帰ろう。早く勇太くんと部屋でまったりしたい」


 美紗がオレに笑顔で頷いた。


「俺もー。美紗とゴロゴロしたい。よし‼ しゃきしゃき歩こう、美紗‼」


 美紗の手を取り、2人で若干早歩きになりながら駅に向かった。




 ---------翌朝、AM9:00。


 昨日の夜にパックをしたおかげで、(本人曰く)お肌ツルツルになり(男の俺から見ると、どこがどう違うのかさっぱり分からないが)、俺チョイスのシンプルワンピを着た美紗と一緒に俺の実家に行くべく、2人で美紗の部屋を出た。


 俺の隣で、


「美容室に行けば良かった」


 と毛先を摘まみながら呟く美紗。 


「イヤイヤイヤ。そんなに張り切らなくていいから。美紗が気張ると、ウチの親も変に取り繕わなくちゃいけなくなるじゃん。気楽に行こうよ、美紗。大丈夫。美紗は、【お義母さんが立派に育て上げた、ちゃんとしたお嬢さん】だよ」


 毛先を弄る美紗の手を取り、繋ぐ。


「気楽に……。無理だよ。緊張するよ。勇太くん、私の実家に行くのに全然緊張しなかったよね。なんで? 営業職だから? 職業病? 心臓に毛が生えているの?」


 家を出てから終始そわそわしっぱなしの美紗が、ナチュラルに失礼なことを口にした。


「オイ、コラ」


「だって落ち着かないんだもん」


 美紗が「変じゃないよね? どこもおかしくないよね?」と自分の身体のあらゆる所を見回した。


「大丈夫‼ 可愛いよ」


 美紗の肩を「落ち着いて」掴むと、『可愛い』と言われたことに照れる美紗が、


「……普通でしょ」


 と顔を赤くした。やっぱり美紗は可愛い。


 美紗の緊張を解す為、電車移動中も降りてからも他愛のない話をして、途中で焼き菓子の手土産をお購入し、俺の実家に到着。


 美紗が、インターホンの前で大きく深呼吸をした。


 平気だろうか。真琴に会って、また美紗の呼吸はおかしくなったりしないだろうか。


 万が一、美紗が過呼吸を起こしてしまった場合のことを考えて、昨日の夜に土曜診療をしている最寄の内科は調べた。


 大丈夫。何があっても美紗を助けられる。


「押すよ?」


 インターホンのボタンに人差指を乗せると、


「うん」


 覚悟を決めた美紗が、力強く返事をした。


 ボタンを押すとすぐに、


「すぐに玄関開けるね」


 オカンが返事をして玄関の鍵を開けた。


 ドアを開けるとオカンが駆け寄ってきて、


「良く来てくれたね、美紗ちゃん。もう会ってもらえないかと思ってた。ずっと美紗ちゃんに謝りたいと思ってたの。本当にごめんなさい。私の躾が至らなかったばっかりに、美紗ちゃんに辛い思いをさせてしまった。謝ったところで簡単に赦されるなんて思ってないけど……。ごめんなさい。ごめんなさい」


 美紗に頭を下げながら泣き出した。


「私の方こそ、先日は挨拶もなしに突然帰ってしまって、失礼なことをしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。あの、お義母さん。どうか顔を上げて頂けませんか?」


 美紗がそう言っても、オカンは「ごめんなさいごめんなさい」と何度も謝りながら頭を下げ続ける。


「勇太くん、どうしよう。私、そんなつもりじゃないのに……。お義母さんに謝って欲しかったわけじゃないのに」


 泣きながら謝り続けるオカンに、美紗がオロオロしながら早速俺に助けを求めた。


「オカン、とりあえず中に入ろう」


 オカンの肩を摩り、「大丈夫。オカンの気持ち、美紗はちゃんと分かってるから」と家の中に入る様促すと、


「玄関で何をやってるんだ。早く美紗ちゃんを中に入れてさしあげなさい」


 リビングからオトンがやって来て、オカンの二の腕を掴み、オカンを玄関から中に引き上げた。


「お父さんごめんなさい。美紗ちゃんもごめんなさい。勇太もごめんなさい」


 泣きすぎてわけが分からなくなってしまったオカンが全員に頭を下げる。


「すまないねぇ、美紗ちゃん。来た早々に騒々しくて。どうぞ、中に入って」


 オトンがオカンの手を引きながら苦笑いした。


「いえいえ、そんな……。あの……お邪魔します」


 戸惑いながら美紗が靴を脱いだ。


 泣きじゃくるオカンを支えながら4人でリビングへ。


 中に入ると、ソファーに座っていた真琴がこっちを見た。


 美紗の顔が一気に強張る。 ¥オカンの事はオトンに任せ、俺は美紗を支えようと美紗の背中にそっと手を置いた。


「居たんだ、真琴」


 緊張で硬直する美紗の代わりに、俺が真琴へ声を掛ける。


「居るでしょ。自分の家なんだから」


 美紗が勇気を出して来てくれたというのに、ふてぶてしい態度の真琴にイラっとする。


「逃げて居ないもんだと思ってたわ」


 美紗の為に話し易い環境を作るべきなのに、真琴に苛立って、言葉に棘が立ってしまう。


「何で私が美紗から逃げなきゃいけないのよ」


 真琴にとって『美紗を避ける』という選択肢はプライドが許さなかったらしい。


「い……今、お茶用意しますね」


 不穏な空気を感じ取ったオカンが、泣くのをやめてキッチンに向かった。


 そんなオカンに買ってきた手土産を渡し、美紗に寄り添い、テーブルを挟んで真琴と向かい合う形でソファに座る。


 小刻みに震える美紗の肩が、俺の二の腕に当たった。


 美紗を初めて実家に連れて来た、あの日の光景が脳裏を過る。


「美紗、やっぱり……」


「あの、真琴ちゃん。新婚旅行のこと……本当にいいの?」


 美紗の様子が心配になって、美紗に『出直そう』と言いかけた時、美紗の震える唇が動いた。


「お兄ちゃんに約束しちゃったしね。行きたいところを好きに選べばいいよ」


 遠慮がちに話す美紗に、居丈高な態度を取る真琴。


 真琴は、自分が言ったことを撤回するのもプライドが許さないらしい。


 隣に座ったオトンに「何なんだ、その態度は」と叱られても、真琴はその振る舞いを変えようとしない。


「なんでそんな約束をしたの? 中学時代の苛めの代償?」


 それでも美紗は、真琴の口から反省の言葉を引き出そうとしていた。


「美紗、中学時代に私に『どうして私を虐めるの?』って聞いたことがあったよね? 覚えてる?」


 真琴は美紗の質問に答えず、逆に質問を返した。


「……うん」


 美紗が、ぎゅうっとスカートを握りしめた。過去の記憶が蘇ってきたのかもしれない。美紗が恐怖に耐えていた。


 大丈夫。今は俺がいる。美紗の恐怖を和らげたくて、美紗の手の上から自分の手を重ねた。


「目障りだった。美紗が。みんながどこかしらのグループに属して、自分より冴えないグループを蔑んで、イケてるグループから洩れない様に神経尖らせて立ち振る舞ってる時に、どこのグループにも入らずに、みんながしている苦労を味わうことなく本を読んでた美紗を卑怯だと思った。仲間はずれにならない様に、周りに合わせて無理矢理足並みそろえる私たちを冷めた目で見て、自分はみんなの日常とは関わらずに淡々と勉強して、成績を上げていた美紗を、セコイと思った。自分が上に居続けるには、ハブられない為には、常に自分の下に誰かが必要だった。だから美紗を選んだ。それが、苛めの理由。周りに自分の強さを誇示する為に、次第に苛めに歯止めが効かなくなっていった」


 真琴によって、美紗が知りたかっただろうイジメの真相が明かされた。


「……なんだその、クソしょうもない理由」


 怒りで今度は俺の手が震え出す。


「お兄ちゃんには分からないだろうね。下に誰もいない怖さは。お兄ちゃんの下には常に出来の悪い私がいたから、そんな気持ちになったことがないのよ。誰かの上にいるってことが、誰かが下にいるってことが、安心になるのよ。自分より下の存在がいれば、馬鹿にされることもないし、イジメの標的になることもない。家の中で、ずっとお兄ちゃんの下で不当に扱われてたのに、学校でまで下にいようなんて思えなかった」


 日本語のはずなのに、全く理解が出来ない真琴の主張。


「不当? はぁ? オトンもオカンもちゃんと平等に俺たちを育ててくれただろうが。初めは塾だって同じ数習わせてくれてたし。途中で真琴は逃げ出したけど。被害妄想が甚だしいんだよ、真琴」


 俺には真琴が、卑劣な自分を正当化しようとしているようにしか見えない。


「そうね。確かにお兄ちゃんと同じ様に育てられたわ。私とお兄ちゃんは違うのに。お兄ちゃんを基準にお兄ちゃんのレベルのものを、私もさせられてたわ。2人に同じことをさせるのは平等であっても正当じゃないわよ。お兄ちゃん、私のことを『馬鹿だ馬鹿だと思ってた』って言ってたよね? そうだよ。私はお兄ちゃんみたいに頭が良くないんだよ。そんな私にお兄ちゃんと同じことをさせて、同じ様に出来るわけがないじゃない‼ お兄ちゃんのレベルについて行けなくて、落ちこぼれれば呆れられて、諦められて。やる気の出し方さえ分からなくなった人間に、それでも『反骨精神を持って頑張れよ』って言うのは無理があるのよ‼」


 真琴が、積もり積もった恨みを吐き出した。


 真琴の言うことに、心当たりはある。


 何をするにも俺より時間のかかっていた真琴に、『お兄ちゃんもしていたことだから』と言ってオトンもオカンも俺も、真琴のスピードに合わせようともせずに【平等】を押し付けていた。


 俺たちの【平等】が真琴にとっての【不公平】になるなんて、思いもしなかったから。


 真琴の性格を歪めてしまったのは、真琴を虐めに走らせてしまったのは、俺たち家族だったんだ。


 真琴が頑なに謝罪することを拒む様になったり、家族に悉く反抗していたのは、真琴なりの抗議だったのかもしれない。


「家族が真琴に嫌な思いをさせていたなら謝る。申し訳なかった。でも、それでも真琴のしたことは許されない。真琴の気持ちが分からなくはないけど、苛めは犯罪だ」


 真琴の気持ちを分かってあげられなかった俺らにも非はある。でも、だからと言って『じゃあ仕方がないな』などと言えるわけもない。


「……馬鹿な私にだって、苛めが悪いことくらい分かってた。今でも申し訳なかったなって思ってる。美紗に謝らずに中学を卒業してしまったこと、後悔した。だからあれ以来、あんな酷いことは誰にもしていない。私なりにちゃんと反省した。お兄ちゃんが婚約者として美紗を連れて来た時、ビックリしたけど、謝るチャンスだって思った。……だけど美紗、私を見るなり顔色変えて脅えて……。謝る隙さえくれなかったし、あんな風に一方的に悪者にされたら、謝る気さえなくなるわよ。その上、私が過去にしたことを和馬にまで話した。……赦せなかった。真剣に付き合ってたのに。和馬のこと、大切に思ってたのに……」


 真琴が目を真っ赤にしながら歯を食いしばった。


 真琴の話に美紗は両目を見開き、口に手を当てて驚くと、


「後悔してたの? 反省してたの? 真琴ちゃん。……私、知らなくて……。真琴ちゃんに酷いことをした。ごめんなさい。どうしよう。ごめんなさい。本当にごめんなさい」


 黒目を左右に泳がせながら上半身を折り畳み、真琴に謝り出した。


 真琴の気持ちを知るはずもない美紗は、反省し後悔していた真琴に仕返しをしてしまっていた。


「美紗ちゃんが謝る必要なんてない。反省も後悔も、相手に伝えなければしていないのと一緒だ。真琴は美紗ちゃんに1度も謝罪してないんだろう? 美紗ちゃんは何も悪くない。美紗ちゃんが真琴を怖がるのも無理もないことだ。真琴はそれだけのことをしたんだから。だから頭なんか下げないで」


 オトンが美紗の肩を叩き、顔を上げる様に促した。


「でも私は……」


「言わなくていい。美紗、それは言わなくていいことだ」


 おそらく和馬と温泉に行った事を懺悔しようとしただろう美紗の言葉を遮る様に、美紗に向かって左右に首を振ると、


「でも‼」


 美紗が俺を見つめ返した。


「俺も一緒にいただろ。何もなかったんだろ? 昨日も言ったよね? 反省しなくて良いことは反省しなくていいんだよ。悪いことも疚しいこともしていないなら、堂々としていればいい。変にオトンやオカンが不安がったり勘ぐったりしそうな話はしなくていいんだよ」


 美紗に余計なことを話させまいと、美紗に強い視線と強めの言葉を放つ。


 俺自身、美紗と和馬の間には本当に何もなかったのか、100%疑いを拭い去れてはいない。だけど、美紗を信じると決めたし、何より美紗を信じたいんだ。だって、美紗が勇気を出して俺の元に戻って来てくれたから。それは紛れもなく美紗の誠意だから。俺を好きでいてくれる気持ちは、間違いないと確信しているから。


 何の話をしているのか分からないオトンは、首を傾げてはいるが、空気は読めているのだろう。首を突っ込んではこなかった。


 一部始終を聞いていたオカンも、俺らの話に口を挟んでこようとはせず、用意したお茶を配り、オトンの隣に腰を掛けた。


 だけど、黙っていることに抵抗がある様子の美紗は、『真琴ちゃんはどう思う?』とばかりに真琴の方を見た。


「……お兄ちゃんと結婚するってことは、お兄ちゃんが上手くやってくれたんでしょ? あの日。そうじゃないなら、私は美紗を軽蔑するし、過去の苛めの反省も一切しない」


 言葉を選びながら探りを入れる真琴。美紗と和馬の温泉の件は、真琴だって引っ掛かるところだろう。だけど馬鹿なりに、怒り任せに全部を暴露してしまっては状況が悪化することは理解出来ているのだろう。 


「……勇太くんが上手くやったと言うか……でも、うん。結果的にはそうかも」


 和馬と何もなかった事は伝えたいが、俺の事をどう話せば良いのか悩んでいる様子の美紗は、真琴の質問の答えに四苦八苦。なぜなら俺は、特に何も上手くやっていなかったから。


「なるほど。つまり、どうこうはなっていないけど、お兄ちゃん自体はポンコツだったってこと?」


 今まで散々馬鹿にされた報復とばかりに、真琴が俺に呆れた笑顔を向けた。


「イヤ。そういうわけでは……。勇太くんの存在が大きかったっていうか……」


 そんな真琴に、美紗が変なフォローを入れる。


「要するに、お兄ちゃん自体は何もしてないけど、美紗的にお兄ちゃんのことが気になって戻る決意をしたってこと?」


 しかし、美紗の擁護の甲斐なく、真琴にバッサリ要約されてしまった。しかも、美紗が俺に話したことをズバリ的中させていた。真琴は勉強は出来ないが、結構鋭い。


「……もう少し違う言い回しにしてくれると頷き易いんだけど……うん。そんな感じです」


 俺に気を遣ってか、返事が吃る美紗。


「お兄ちゃんって昔からそうなのよね。勉強は出来るのに、他がしょぼいのよね」


 真琴が俺を見ながら嘲笑った。


「オイ、話が変わってるじゃねぇか。馬鹿の特徴だよな。話が逸れていることに気付かない。あ、真琴は性根が腐ってるから、わざと逸らしたのかもな。どっち?」


 真琴の態度が癇に障る為言い返すと、


「話を変えたのは私。ゴメンね、勇太くん」


 真琴ではなく美紗に謝られてしまった。


「そう。私ではない」


 そして真琴は勝ち誇ったかの様に笑った。


「美ー紗-。美紗が謝ると話が抉れる。どうでもいいけど、さっさと謝れよ、真琴‼ 当時の真琴の心情を加味しても、どう考えても真琴が悪い。和馬くんとのことだって、自業自得だろ。美紗を逆恨みするな。見当違いも甚だしいぞ」


 今日の目的は、ウチの家族への挨拶と、真琴からの謝罪。何故俺が馬鹿にされなければならないんだ。と、話を戻す。


「分かってるよ‼ ちゃんと謝るわよ‼ じゃないと和馬、私の話を聞いてくれないから。和馬、そういう人だから」


 俺が折角話の軌道修正をしたというのに、やっぱり馬鹿な真琴はおかしな方向へ向かってしまう。


「ちゃんと反省しろ‼ 和馬くんとよりを戻したいから謝るって何だよ‼ 美紗に失礼過ぎる‼ 馬鹿か。いい加減にしろ」


 と真琴を窘めると、


「馬鹿なのはお兄ちゃんでしょうが‼ 和馬がちゃんと反省しない人間を受け入れるわけないでしょうが‼」


 真琴が、和馬の事が前提とは言え、反省の意らしきものを見せた。そして、


「……美紗。あの時はゴメン。本当にごめんなさい。ごめんなさい」


 遂に真琴が美紗に頭を下げた。


 真琴の姿に、美紗は安堵したのか小さな息を吐いた。


「……真琴ちゃんはまだ、日下さんのことが好きなんだよね? 私、日下に話しておくよ。真琴ちゃんが謝ってくれた。反省してるって」


 涙目になりながらニッコリ笑う美紗。


「やめて。金輪際、和馬に関わらないで。美紗はお兄ちゃんのお嫁さんになるんでしょ。他の男に近付かないで」


 美紗の言葉に、真琴が下げていた頭を振り上げた。


「……え。あ、そうだよね。ごめんね。私なんかが出しゃばることじゃなかったね。ねぇ真琴ちゃん。私、今日真琴ちゃんに謝ってもらえて嬉しかった。だから、やっぱり新婚旅行のプレゼントはいらないよ。そこまでしなくていい」


 真琴への善意が余計なことだった事態にショックを受けながらも、真琴を赦す気になれただろう美紗は、真琴の善意だけを受け取り、真琴からのプレゼントを辞退した。


「いいよ。寛大な人ぶらなくて。赦せるわけないじゃない。私、美紗を3年間も苛め抜いたんだよ? 『ごめんなさい』の一言で済むわけないじゃない。今の私にはこれ以上のお詫びは考え付かない。他に何かして欲しいことがあるなら聞くけど、無いなら受け取って」


 しかし、真琴は引かなかった。真琴の謝罪の気持ちは本物なのだろう。


「他にって。急に言われても……」


『どうしよう』と美紗が俺の顔を見た。


「真琴がそう言ってるんだから、受け取ってやろうよ、ね?」


 と美紗の肩を摩るも、


「でも……」


 美紗はやはり、高額のプレゼントを貰うのに気が引けるのだろう。今度は俺のオトンとオカンに助けを求める様な視線を飛ばした。


 美紗の様子に気付いたオトンが、


「遠慮なんかしなくていいし、すべきでない。これで勘弁して下さいとは言わない。美紗ちゃんの苦痛はこんなものでチャラになる様なものじゃない。だけど、真琴の反省している気持ちはどうか認め欲しい。そして、私たちも謝りたい。真琴の親として、何も気付かず真琴を注意することさえせずに、美紗ちゃんを苦しめ続けてしまったこと、本当に申し訳ありませんでした」


 美紗に真琴のプレゼントを受け取る様に促すと、深々を頭を下げた。そんなオトンの隣でオカンも「ごめんなさいごめんなさい」と上半身を折り畳む。


「顔を上げてください‼ 今日は結婚のご挨拶をしにお邪魔したのに、何かおかしなことになってる‼ どうしよう、勇太くん‼」


 オトンとオカンの前で「やめてください‼ やめてください‼」と両手を振ると、『どうにかして』とばかりに俺の名前を呼ぶ美紗。


「だから、新婚旅行は真琴に奢ってもらおうって。それでこの場は収まるんだから」


『美紗が引けばいいの』と美紗の頭を撫でると、


「……じゃあ、プランは真琴ちゃんが練って。真琴ちゃん、プロでしょ? 真琴ちゃんにプランニングして欲しい」


 美紗が真琴に美紗らしい提案をした。


 美紗は、【おねだり】という行為をすることによって、『気を赦しています』ということを示したかったのだろう。


 こういう気遣いが出来る美紗を、愛おしいなと思う。


「いいよ。頭は悪いけど、旅行に関してだけは美紗より詳しいし、知識もあると思うから。……じゃあ私、そろそろ仕事に行くわ」


 美紗に笑い返し、オカンが用意したお茶を啜ると、ポーチからグロスを取出し唇をテカテカにする真琴。


「そのグロス、廃盤になっちゃったよね」


 入念にグロスを塗りたくる真琴を見ながら何の気なしに話した美紗の言葉に、


「嘘でしょ⁉ もう売ってないの⁉ 買い溜めしとけば良かった」


 真琴が身を乗り出し、美紗に顔を近付けて驚愕した。どうやら真琴のお気に入りのグロスだったらしい。


「私、まだ売ってるところ知ってるから、買い占めておくよ。色、3番だよね?」


 至近距離にある真琴の顔に驚きながらも、真琴に笑顔で答える美紗。


 こんなにも近くに真琴がいるというのに、美紗の呼吸は乱れなかった。


 美紗が少しずつ真琴に心を開いてくれている様で嬉しい。


「そう‼ 3番‼ でも、自分で買いに行くからいいよ。後で店の名前と住所、LINEしといて。私、まじでもう行かないと遅刻する」


 床に転がしていた鞄を掴み、立ち上がる真琴の腕を、


「私、真琴ちゃんのID知らない」


『待って』と美紗が掴んだ。


「お兄ちゃんに聞けばいいでしょうが。急いでるって言ってるでしょうが‼」


 と美紗の手を払う真琴。


「……いいの? 聞いても」


 真琴とID交換する展開になるとは思っていなかっただろう美紗は、ビックリしつつも嬉しそうに真琴に聞き返した。


「じゃあ、どうやって店の情報を得たらいいの? 念力? 無理だし。お兄ちゃん経由ってのもまどろっこしいし。お兄ちゃん、メイクについては無知だから、間違って伝えてきそうだし。ていうか、家族グループに美紗を招待しておいてよ、お兄ちゃん。ってことでもういいでしょ? 本当に遅れたらどうしてくれるのよ‼ 行ってきます‼」


 言うだけ言って勢いよくリビングを飛び出して行った真琴。


「い……行ってらっしゃい‼ お仕事頑張って‼」


 ドアが閉まる前に真琴に手を振った美紗が、「家族グループに招待してもらえるんだ」と呟きながら微笑んだ。


「普通にするよ。家族だし」


 ポケットから携帯を取出し、早速美紗を【佐藤家】のグループに招待すると、美紗も鞄から携帯を出し、


「宜しくお願いします」


 と言いながら、【佐藤家】のグループに自分のIDが加わった画面をオトンとオカンに見せた。


「こちらこそ。ようこそ美紗ちゃん。家族になってくれてありがとう」


 美紗の携帯を覗き込みながら涙するオカン。


 そんなオカンの隣で「美紗ちゃん用に可愛いスタンプ買おうかな」と言っているオトンが、じわじわ面白い。


 LINEの話や、結婚の話で盛り上がり、暫くして実家を後にすることに。


 時刻はAM11:00。


 お昼ご飯には早いし、これからどうしようかなと考えていると、


「今日、これから時間あるし、真琴ちゃんのグロス買いに行かない? 真琴ちゃんが買いに行った時に売り切れてたら可哀想だし。今のうちにあるだけ買っておこうよ」


 美紗が買い物デートの提案をした。


「優しいねー、美紗は。真琴なんかの為に。でも、予定もないし行こっか」


 美紗と街をブラブラするのもいいなと思い、美紗の手を取ると、


「うん‼」


 嬉しそう返事をした美紗が、俺の手を握り返した。


 電車に乗って、真琴愛用の廃盤になったグロスが売っているという化粧品店へ。


 店頭にあった5本全てを買い占める美紗。


 2番も3番も似た様な色に見える為、「2番も買っておけば?」と美紗に2番のグロスを手渡すが、「色が違うでしょ」と元の位置に戻された。「ほぼ同じ色じゃん」と言うと、「違うから番号が違うんだよ」と美紗に当たり前の返事をされた。男から見たら変わりのない色も、女の目から見たら『違う』らしい。女って難しい。そんな、苛めっ子と苛められっ子の女2人の仲が少し深まった今日は、きっとミラクルな日なのだろう。


 無事、真琴のグロスを確保すると、12:00を過ぎていた。


 ランチをすべく、近くにあったカフェに入る事に。


 オーダーを済ませ、料理が来るまでの間、美紗はさっき買ったグロスを取り出しながら「真琴ちゃん、喜んでくれるかな」と顔を綻ばせていた。


 優しい美紗の笑顔を、ずっと見ていたいなと思った。


 

「……真琴のことも一段落したし、あとは小田さんだね」


 頬杖をつき、何か良案はないものかと思考を巡らせる。


「……私、思うんだけどさ。岡本さんって小田ちゃんのことが好きなんじゃないかと思うの」


 美紗が、頭を捻る俺に突拍子もない事を言い出した。


「それはない。だってアイツ、俺と小田さんをくっつけようとしてたし」


「私、今まで漫画の中だけの話だと思ってたんだけど、少女マンガ男子って実在するのかもと思って」


 美紗の話はもう、突拍子どころかわけが分からない。


「ごめん美紗。ちょっと何言ってるか分からない」


「少女マンガに出てくる当て馬男子って、相手が自分に気がないと分かるとスーッと引いて、逆に相手の恋を応援し出したりするんだよ。日下さんもそうだったんだけど。だって岡本さん、タイミング良すぎると思わない? 小田ちゃんが困った時は必ず岡本さんが登場するでしょ?」


 人差し指を突き立て『少女マンガ男子とは』の説明をする美紗。


 美紗の言うことには思い当たる節がある。


 そう言われてみれば、岡本はいつも小田さんの味方をしていた。小田さんの為に怒ったり、小田さんの為に美紗を悪く言ってみたり。確かに岡本は、小田さんの置かれている状態を逸早く察知していた。


「岡本が……小田さんを……」


 だとしたら……。


「美紗、ランチ食い終わったら、真琴の店にそのグロス届けに行こっか。ちょっと思いついたことがあってさ。俺、『嘘は懲り懲り』って言ったけどさ、岡本を巻き込んで、真琴に協力させつつ、大ホラかましたいんだけど」


 ふいに思いついた大嘘計画。


「真琴ちゃんにグロスを届けるのはもちろんいいけど……何する気なの? 勇太くん」


 美紗が眉間に深い皺を作った。


 美紗に俺が考えた計画を話すと、


「大丈夫? 勇太くん。上手に嘘吐ける?」


 美紗が不安を露わにした。


「そこは美紗がこの土日で指南してよ。美紗、嘘吐くの上手いじゃん」


 美紗に「ね、お願い」両手を合わせると、


「言い方が酷い。とりあえず今日帰ったら練習しようか」


 美紗が唇を尖らせながらも頷いた。


「よし‼ そうと決まればさっさと食って真琴の店に行こう‼」


「うん‼」




 月曜日、俺らの企てた嘘八百計画は成功するのだろうか。




 ---------週が明けて、月曜日。


 出社直後に美紗と2人で部長のデスクに向かう。


「おはようございます、部長。あの、部長。私と美紗、予定通り結婚します」


 社内で1番に報告したかったのは、俺の味方をしてくれ、応援をしてくれた部長だった。


「おはよう、佐藤くん。そっかー。良かった良かったー‼ って俺、同じ人間から同じ人と結婚する報告を2回受けたの、人生で初めてだわ。再婚報告は前に1回あったけど」


 わはははと豪快に笑いながら、「良かったな」と、もみじのような手で俺の二の腕を揺する部長。


「お騒がせして申し訳ありませんでした」


 そんな部長に気まずそうに頭を下げる美紗。


「まぁ、色々あるよね。幸せにしてもらうんだよ、木原さん。これからもこの会社で働いてくれるんだよね? 引き続きよろしくね」


 身長が美紗と同じくらいの部長は、美紗と視線を合わせて笑いかけた。


「はい‼ これからもご指導よろしくお願いします」


 美紗が、少し涙目になりながら部長に元気よく返事をした。


「その、『色々』なんですけど……。朝会の時にちょっとお時間頂けないかと……」


 これから大嘘を繰り出さなければならない俺は、目に涙を溜めた美紗の頭を撫でてあげる余裕もなく、部長に話を切り出す。


「あぁ。みんなにも2回目の結婚報告をしたいわけね。手短にね。何せ、2回目だから」


 部長が【2】を強調させながら、俺の顔の前に人差し指と中指を突き立てた。


「はーい。あ、部長。部長がめっさ嫌ってた、『哲学好きの名言吐きたがり』な奴なんですけど、一概にいけ好かない人間ばっかりじゃないですよ。私がお話した人間は、めちゃめちゃ良い奴だったので」


 そんな部長に、和馬くんの誤解を解く。何となく、部長の中で和馬くんのイメージが悪いままなのが嫌だったから。


「えー。そうなの? じゃあ、謝っておいてね。会社のハゲた小人が陳謝してたって」


 部長が「申し訳なーい」とオデコ……と思われる部分をパチーンと叩いた。


「いえ、本人には部長の悪口は伝えてませんので。営業なので、利益にならない余計なことは言いません」


 というか、和馬くんと俺は、そんな話をするほど仲が良いわけでもない。


「さすが営業部期待の星だねー。そっかー」


 部長に『期待の星』と言われるのは嬉しいが、部長にとっての期待の星は部下全員だったりする。


「何の話?」


 部長と俺の会話の内容が分からない美紗は、首を傾げながら俺を見上げた。


「昼休みに話すよ。今、それどころじゃない。昨日の練習の成果をこれから発揮しなきゃだから」


 たいした話じゃないから、そんな話は後回し。


 余計な話をすると、昨日覚えた大嘘の台詞を忘れてしまいそうだ。


「頑張ってね、勇太くん」


 美紗が俺の手を握った。


「任せとけ」


 余裕はないが、俺は必ず美紗の盾になる。




 そして朝会の時間に。


「周知連絡事項はありますか?」の課長の声に、「少し宜しいでしょうか」と右手を挙げ、美紗と一緒に前に出た。


 緊張気味の俺を、美紗が心配そうに覗き込む。


「大丈夫」と美紗に口パクし、大きく息を吸い込んだ。


「……えー。色々な噂が飛び交い、皆さんにご迷惑をお掛けしましたが、私と木原さんは当初の予定通り、結婚致します」


 俺の発言に、当然所内はざわついた。


「仕事とは関係のない話ですので、話す必要もないのかもしれませんが、皆さんに気持ち良く結婚式に出席して頂きたく、この場を拝借し、弁解させてください。今回の件は、全て私の不徳の致すところでありました。木原さんが浮気をしたというのも誤解で、むしろ私の方にこそ問題がありました。結婚にビビって、男のくせにマリッジブルーになってしまい、小田さんに甘えてしまいました。木原さんが怒るのも当然です。皆さんが見た、木原さんの浮気相手と思われる人物は、私の妹も知る、ただの友人です。私の妹と木原さんは中学のクラスメイトです。古くからの付き合いなので、異常に仲良く見えただけで、木原さんは浮気などしていません。私自身も小田さんの優しさに寄りかかり、木原さんや皆さんに誤解を招く行動をしてしまったこと、深く反省しております。ただ、小田さんに救われたことは確かです。小田さん、迷惑を掛けてしまってすみませんでした。感謝しています。ありがとう」


 少々の事実を織り交ぜながら、つらつらと嘘を並べ続ける。


 だけど最後の小田さんへの気持ちは偽りのない真実。


 昨日一昨日で一生懸命に考えた、小田さんへ向けた言葉。小田さんの気持ちを傷めつけたくない。嘘を吐いてでも、小田さんが俺に失恋したかの様な、周りからの憐みの視線を浴びせたくない。小田さんを辱めることなど、決してしてはいけない。俺を好きになってくれたと言う話が本当だったとしたら、尚更に。


 小田さんの方を見ると、小田さんが目を真っ赤にしながら涙を堪えていた。きっと、最後の気持ちは嘘ではないことは伝わっているのだろう。


「……で、そんなこんなで結婚式準備に忙しくなってまいりまして……。今週末、木原さんと行く予定だった苺狩りツアーに行くことが出来なくなってしまいました。お詫びの印というわけではありませんが、良かったら小田さん、行きませんか? 苺、好きって言ってましたよね? もう1枚は、岡本‼ お前、いつもいつも毎日毎日暇を持て余してるんだろ?」


 そしてここで、真琴に取らせた苺狩りツアーのチケットをスーツのポケットから取り出す。


「はぁ⁉ 何俺を暇人扱いしてるんだよ、佐藤‼」


 わざとらしい俺の煽りに、見事に引っかかる岡本。


「え? 行かないの? じゃあ誰か……」


「行かないとは言ってないだろうが‼ 暇人じゃねぇってだけだわ‼ 今週末はたまたま時間があるだけだわ‼」


 俺の話を遮った岡本が前に出てきて、俺の手からチケットを抜き取った。


 そのまま自分のデスクに戻ろうとする岡本に「後は頼む」と耳打ちすると、岡本は「これがお前らが小田さんに出来る限界だろうしな」と俺を鼻で笑い、「おめでとさん」と言いながら俺の前を横切った。


「……というわけで、未熟者の私たちですが、これからもどうそ宜しくお願いします‼ 結婚式にも是非お越しください‼」


 美紗と一緒に頭を下げると、


「おめでとう、美紗‼ 佐藤さん‼」


 小田さんが1番最初に言葉を掛けてくれた。


 顔を上げると、何とも言えない顔で拍手をする小田さんと目が合った。


 本当は祝福などしていないのかもしれない。


 だけど、それでも『おめでとう』と言ってくれた小田さんに感謝しかない。


 小田さんにつられて周りも次々に『おめでとう』の言葉を口にする。


「ありがとうございます‼」


 美紗と何度もお辞儀する。


 上半身を倒した状態で美紗の方を見ると、美紗もこっちを見ていて、


「すっごく嬉しいね。幸せだね。勇太くん」


 感極まった笑顔を見せた。


「うん。本当に幸せ」




 また、過去の憎悪や嫌悪がふいに顔を出して、俺らを惑わしに来たとしても、俺は揺らぐことなくこの幸せを守る。






 漂う嫌悪、彷徨う感情。


 おしまい。

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