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漂う嫌悪、彷徨う感情。  作者: 中め
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同志になれない同士。

 

 勇太くんのことは、見ない様に。気にしない様に。


 こんなにも気を遣っているのに、どうして私の黒目は勇太くんの姿を探したがってしまうのだろう。


 困っている勇太くんのお手伝いをしたいと思った。 


 小田ちゃんは、入社した頃からパソコン嫌いだった。タイピングは問題なかった為、フォーマットさえあれば仕事に支障がなかった小田ちゃん。ただ、全部の仕事にフォームがあるわけではないので、出来る限りはフォーム作成するけれど、『これだけは覚えて』と無理矢理四則演算だけは出来る様にしつこく教えた。


 が、勇太くんが必要としているプレゼン資料は、SUM関数だけでは到底作れないものだった。


 前回私が作った資料のEXCELが、使えないわけではないが、加工しなければいけない。


 私の仕事はSEではない。営業事務だ。


 だから、自分よりパソコンに詳しくない小田ちゃんを見下したことなどないし、自分のパソコンスキルを見せびらかしたいと思ったこともない。そもそも、仕事に不便なくパソコンを使えると言った程度で、専門的な事は分からないし。


 勇太くんも、基本的なことは出来るが、応用したり加工したりするのが苦手だった。


 小田ちゃんが『自分がやる』と申し出た時、『じゃあ、お願い』と言いながらも、小田ちゃんと勇太くんとで資料を作るのは、正直無理があると思っていた。


 それでも、『私の仕事ではない。余計な手出しをして小田ちゃんの気を悪くしてはいけない』と自分の仕事に集中しようとした。


 でもやっぱり、気になって気になって仕方がない。


 仕事の進捗もそうだけど、勇太くんが小田ちゃんに慰められたという話を聞いたから、2人の様子を気にしてしまう。


 どうして勇太くんの隣にいるのが、私じゃなくて小田ちゃんなのだろう。などと、【自分が勇太くんを避けているから】という分かり切った答えがありながら考えてしまう。


 差し出がましいと思いながらも、作ったEXCELを勇太くんに送ったのは、早くプレゼン資料作りを終えさせて、小田ちゃんに勇太くんの隣からいなくなって欲しかったから。勇太くんに『やっぱり美紗は頼りになるな』と思われたかったから。これ以上勇太くんの気持ちを、小田ちゃんの方に傾けさせたくなったからだ。


 そんな浅ましさを岡本さんに見抜かれてしまった。勇太くんは庇ってくれたけど、岡本さんの読みが正しい。


 結婚出来ないくせに、どうして勇太くんの気を惹きたがってしまうのだろう。こんなに好きなのに、なんで結婚出来ないのだろう。どうして勇太くんは真琴ちゃんのお兄さんなのだろう。


 どうにもならないことも、明白な答えも分かっているのに、受け入れがたい解答に、いつまで経っても『どうして』と疑問を巡らせてしまう。


 自分を納得させられる答えがないことも、諦めるしかない事実も、全部分かっているのに。


 だから今度こそ、勇太くんのことには首を突っ込まない。余計な揉め事も起こさない。


 勇太くんを視界に入れない様に、パーテーションから自分の頭がスッポリ隠れるくらいまで椅子を低く下げた。


 ちょっと仕事し辛いけれど仕方がない。


 こんなに努力しているのに、勇太くんは毎日LINEを送ってくる。


 同じ職場にいる限り、ギスギスしたくはない為、スルーはせずに当たり障りのない返事をする。


 挨拶は普通に返す。でも『?』で終わる文章には『すみません』で返していた。


『今何してる?』の返信に『すみません』。全く会話になっていない。でも、どう返して良いのか分からない。だって、楽しい会話をしてしまったら、どんどん諦められなくなるに決まっているから。


 日下さんも頻繁にLINEをくれる。


 何の心配も、気を遣う事もなく喋れる日下さんとは、最早仲良しの女子同士みたいになってしまった。


 日下さんを、男として意識していないわけではない。


 ふと、『もし日下さんが自分を好きでいてくれたなら』と考えたこともある。


 真琴ちゃんの大好きな人と付き合う優越感に浸りたいと思ったことも、確かにあった。


 だけど、かつて私を虐めていた真琴ちゃんを好きになり、付き合っていた日下さんに、信頼の全てを預けることに抵抗を感じた。


 それ以上に、勇太くんへの気持ちが全然冷めてもくれなくて。


 最終的に、日下さんから告られてもいないのに変な妄想を繰り広げる自分に呆れ返ったのだけど。


 勇太くんへの想いの鎮静化を試み、日下さんと友情を育み、会社では相変わらずの周りからの冷たい視線に耐えながら毎日を過ごし、日下さんとの至れり尽くせり上げ膳据え膳豪華海鮮料理三昧の温泉旅行の日を迎えた。


 日下さんが私のアパートの前まで車で迎えに来てくれ、日下さんの運転で温泉に向かう。


 温泉まで車で2時間。


 途中で運転を交代したい気持ちはあるのだが…。


「すみません。完全にペーパーなので、日下さんにばかり負担が掛かってしまいまして……」


 教習所で運転して以来1度もハンドルを握っていない為、『免許証、返還した方が良いんじゃないの?』くらいの腕前に違いなく、頭を下げながらも、しっかりとちゃっかりと助手席のシートベルトを締めた。


「別にいいよ。俺、運転好きだし。温泉入る前に死にたくないし」


 日下さんが笑いながら私の頭をポンポンと撫で、「では、行きますか」とエンジンをかけた。


「あ‼ 待って下さい。先に私の分の旅館代をお渡しします」


 ハンドルを切ろうとする日下さんの手を止め、予め封筒に入れていたお金を鞄から取り出し、日下さんに渡そうするが、


「いいよ。いらないよ。美紗ちゃんは、俺の突然の思い付きに付き合ってくれたわけだから、美紗ちゃんに支払わせるわけにはいかない」


 日下さんは受け取ろうとしない。


「そんなの困りますよ‼ 奢ってもらうわけにいかないですよ‼ 千円二千円じゃないんですから‼」


 それでも日下さんに無理矢理封筒を突き出すと、


「もー‼ 美紗ちゃん、手、邪魔‼ 運転出来ないでしょうが‼ おとなしくしててよ。美紗ちゃん、運転出来ないんだから」


 日下さんが嫌味を言いながら、私の手を押し戻した。


「イヤ、でも‼」


「うるさーい‼ 手、縛り付けるよ‼」


 一向に引き下がらない私に、日下さんが駄々を捏ねる子どもを叱る母親のように大きな声を出すと、「本当にもう出発しないと、予定時刻に着かないから‼」と車を発進させた。


 運転を出来もしない私が言うのもなんだが、事故でも起こされたら大変なので、『旅館に到着したら必ず渡そう』と押し返された封筒を鞄の中に片した。


 旅館までの道中は、滅茶苦茶楽しかった。


 旅館で豪華海鮮料理が待っているというのに、道の駅に立ち寄ってコロッケ食べてみたり、偶然目に入った神社にお参りに行ったり、車内で似ても似つかないモノマネをしながら歌を熱唱してみたり。


 笑いに笑った。声を出して笑ったのはいつぶりだろう。


 自分が企て実行していることとはいえ、会社での日々は結構辛く、精神的に参っていた為、ずっと今日の日を楽しみに過ごしていた。


 だからだろうか。余計に楽しい。今日と明日だけは、現実から目を背け大いに満喫したい。旅行に来て良かった。


 2時間はあっと言う間に過ぎ、寄り道しすぎた私たちは、予定到着時間を少し過ぎてから旅館に着いた。


「ようこそお越しくださいました」


 そんな私たちを笑顔で迎えてくれる仲居さん。


「遅れてすみません」


 日下さんと一緒に頭を下げると、


「いえいえ。そんな事は気になさらないでください。お荷物、お持ちいたします」


 仲居さんは嫌な顔ひとつせず、私たちの荷物を持つと、予約した部屋に案内してくれた。


 仲居さんの後ろを歩きながら、何気なくロビーの方に目を向けた時、


「……え」


 ここにいるはずもない人物の姿が目に入った。その人もこっちを見ている。 


「美紗ちゃん?」


 思わず立ち止まってしまった私の視線の先を、日下さんが追った。


「すみません。荷物、先に部屋に持って行っておいて頂けますか? ちょっと……偶然知り合いに出くわしまして」


 仲居さんにそう言うと、顔を歪ませた日下さんが、ロビーに向かって歩き出した。


仲居さんに「すみません」と会釈をして、慌てて日下さんの後を追う。


「なんでここにいるんですか? 佐藤さん」


 少し苛立った日下さんが、ロビーにあったソファに座っている勇太くんに声を掛けた。


「旅行ですよ」


 勇太くんも不機嫌に返事をする。


「……真琴か。そうきたか。個人情報保護なんかあったもんじゃないな」


 勇太くんの返答に納得のいかない様子の日下さんは、更にイライラし出し、不満を零す。


 折角の楽しい旅行が、旅館に入った途端に暗雲が立ち込めてしまった。


 さっきの勇太くんの『旅行ですよ』に、私の気持ちも盛り下がり出してしまう。


 男の人が平日に1人で旅行などするだろうか。


 1人でないとすれば……。


「た……たまたま選んだ旅館が被っちゃっただけじゃないですか? 予約は真琴ちゃんにしてもらったかもしれないですけど、ここの旅館のリーフレット、結構目立つところに置いてあったじゃないですか。行きましょう、日下さん。佐藤さんにもお連れの方がいらっしゃるだろうし、お邪魔しちゃ良くないですよ」


 勇太くんはきっと、小田ちゃんと一緒に来たのだろう。


 勇太くんと小田ちゃんが一緒にいるところなんて見たくなくて、どこかにいるだろう小田ちゃんが来ないうちにこの場を去ろうと日下さんの腕を掴み、引っ張った。


「場所は兎も角、日にちまで被る?」


 私の言葉が腑に落ちない様子で、その場から動こうともしない日下さんを、


「何故か不運が重なる様に、偶然が被る事だってあるんじゃないですか⁉ 早くお部屋に行きましょうよ‼ 私、夕食の前に温泉に入っておきたいんですよ‼ 時間なくなっちゃうじゃないですか‼ ただでさえ遅れて来ちゃったんだから‼」


 力ずくで引きずり、勇太くんから遠ざけた。


「あの。今日は美紗ちゃんに楽しい時間を過ごしてもらう為の旅行なんです。それだけはご理解ください。お願いですから、台無しにしないでください。ぶち壊さないでください。お願いします」


 私に手を引かれながら、日下さんが勇太くんに向かって鋭い目をしながら『お願い』をした。


 しかし、日下さん眼光がどう見ても『お願い』をしている様には見えず、限りなく【牽制】に近かった。


 そんなご立腹の日下さんを連れ、予約していた部屋に向かう。


 ワクワクしながら部屋の扉を開くと、


「わぁー。凄い‼ 広い‼ 豪華‼」


 畳のいい香りのする、見晴しの良い綺麗な部屋が目の前にあった。


「気に入って頂けましたでしょうか?」


 先に私たちの荷物を運んでくれていた先程の仲居さんが、お茶を用意しながら私たちが来るのを待っていた。


「大満足です‼」


 仲居さんに興奮を伝えつつ、「ね?」と同意を求める様に日下さんを見上げると、さっきまで怖い顔をしていた日下さんが嬉しそうに笑った。


「では、ごゆっくりお寛ぎくださいませ」


 お茶を出し終え、夕食の時間を私たちに伝えると、仲居さんは下がって行った。


 仲居さんが作ってくれたお茶を美味しく頂くと、


「さて。私はお風呂に行きますが、日下さんはどうします?」


 早速クローゼットを開け、浴衣とタオルセットを手に取った。


「もう入るの? 美紗ちゃん、何回入るつもり?」


 運転疲れか、畳の上に寝転がって動こうとしない日下さん。おそらく日下さんは、まだ温泉に浸かる気分ではないのだろう。


「温泉に来たからには最低3回は入りますよ‼ 3回は必須です‼ 義務だと思います‼」


 そこまで温泉が大好きなわけではないが、頻繁に来れる所でもないので、入れるだけ入らないともったいない気がする。


 一瞬たりともハンドルに触っていない私は、日下さんと違って、体力が有り余っている。なんなら今日中に3回ノルマを達成出来そうだ。


「美肌を通り越してふやけるよ、美紗ちゃん」


 と言いながら座布団に顔を埋めた日下さんの目はトロンとしていて、今にも寝てしまいそうだった。


「別にふやけてもいいですもん。日下さんは、夕食まで寝てていいですよ。豪華海鮮料理の時間になったら叩き起こしますから」


 クローゼットの中に浴衣と一緒に入っていたブランケットを日下さんに掛けると、


「優しく起こしてー……」


 と願望を口にしながら、日下さんは夢の世界へ誘われて行った。


「すーすー」と寝息を立てる日下さんに、「運転、ありがとうございました」と呟き、大浴場へ向かう。


 歩いている途中、お土産コーナーが見えた。おいしそうな温泉まんじゅうやおせんべいが並んでいる。


「お風呂上りにちょっと寄ってみよう」と、それを横目に通り過ぎた。


 大浴場に辿り着くと、運良くお客さんは誰もいなかった。


「よし‼」と小さくガッツポーズをすると、服を脱ぎ捨て浴室の中へ。


 サウナに入ったり、肩に打たせ湯を浴びてみたり、温泉を大満喫。


 楽しみすぎて危うくのぼせかけた為、お風呂を上がることに。


 浴衣に着替え、ドライヤーで髪を乾かしながら壁に掛けられた時計を見上げる。


 ……夕食までまだ時間あるな。


 よし。さっきのお土産コーナーに行こう。


 後は自然乾燥にしてしまえ。と、半乾きのまま大浴場を後にした。


 お風呂でサッパリし、浴衣の袖を揺らせながら意気揚々とお土産コーナーの中に入る。


 なかなかの品揃えだった。


 おまんじゅう、おせんべい、クッキー、サブレ、おかき……。


 目移りしながらお土産コーナーをぐるっと一周。


 有給を取って旅行に行くと言ってしまった手前、明後日手ぶらで会社に行くわけにはいかない。


 ただでさえ相当に嫌われているのに、『木原さんは気が利かない』とか言われたくない。


 更に、変なお土産を買って行って『やること成すこと全てが余計』とか言われたら、出社拒否を起こしそう。


 このお土産選びで失敗したくない。


 取りあえず、温泉に来たからには温泉まんじゅうは必須。甘いものが苦手な人もいるから、やはりおせんべいも買おう。


 徐々に選択肢を狭めて行く。


 おまんじゅう、どれにしようかな。


 こしあん、つぶあん、白あん、うぐいすあん……。


 おせんべいはどうしよう。


 堅焼き? ソフト? ぬれせん?


 悩む……。試食してみようか。


 お土産の品が並ぶ箱の前には、それぞれの試食用のお菓子が置いてあった。


 ……が。なんて太っ腹なのでしょう。試食用に切られたお菓子、デカイ。


 全部試食していたら、豪華海鮮料理を詰め込む胃のスペースがなくなってしまう。


 選択の幅をもっと減らそう。


 おまんじゅうは、【私が1番好きだから】という理由でつぶあんに決定。おせんべいは、歯が弱い人も食べれるようにソフトタイプのものにしよう。


 …と、買うものは決まったのに、つぶあんのおまんじゅうにしろ、ソフトタイプのおせんべいにしても何種類もあった。


 お菓子の箱の近くには【当店№1】【おすすめ】【新商品】などと書かれたポップが貼られている。


 ……結局、どれが1番美味しいのよ。


 試食用のおまんじゅうは、おそらく4分の1カット大。


 当店№1とおすすめと新商品をそれぞれ食べると、おまんじゅうを4分の3を食すことになる。


 夕食前におまんじゅうをほぼ1個。


 大丈夫かな……。イヤでも、甘いものって別腹っていうし、イケるかもしれない。


 爪楊枝の刺さった試食用のおまんじゅうを1つ摘まみ、少し齧ってみた。


 美味しい……が、別腹の存在を感じることが出来ない。しっかりいつもの腹の中に入ってきた。


 結構お腹に貯まるな、おまんじゅう。


 爪楊枝の先にある、一口食べてしまったおまんじゅうを見つめる。


 試食のお皿に戻すわけにもいかないから食べるしかないのだけど、今キミにお腹を満たされては困るのだよ。と、心の中でおまんじゅうと会話。


『働け、胃酸‼ 今から入ってくるおまんじゅうは、すぐさま消化するんだぞ‼』と自分の胃にまで念を送り、残りのおまんじゅうを口に運ぼうとした時、誰かがおまんじゅうを持つ私の手を掴み、そのままおまんじゅうに喰らいついた。


「夕食、食べれなくなっちゃうよ。美紗」


 私の食べ差しのおまんじゅうを食べたのは、勇太くんだった。


 突然現れた勇太くんに、驚きと、しつこく残る恋心とで、心臓が激しく跳ねた。お風呂上りという事も相俟っているのかもしれない。


 それに被せてくるかの様に、切なさが押し寄せて、チクチク痛いのか締め付けられて痛いのかも分からないくらいに胸が苦しくなった。


「……私の胃はそんなに小さくないので」


 4分の1カットのおまんじゅうを食べ切ることさえ躊躇していたくせに、『余裕です』くらいの言い訳をして、少し勇太くんから離れると、黒目と首を動かし周りを見渡した。


「……和馬くんに、俺と一緒にいるとこを見られたら困る?」


 甘いものがあまり得意ではない勇太くんが、右頬におまんじゅうを頬張ったまま喋る。なんか、リスみたいで可愛い。飲み込めもしないなら食べなきゃいいのに。


 薄ら笑うのを堪え、


「小田ちゃんに見られたら困るんです‼ いい気しないでしょ」


 おまんじゅうの棚に身を隠しながら小田ちゃんの姿を探した。


「どうしてここに小田さんがいるの?」


 未だにおまんじゅうを口の中に入れたままモゴモゴ喋る勇太くん。


「小田ちゃんと一緒に来たんじゃないんですか?」


「なんで俺が小田さんと一緒に温泉に来るの?」


 勇太くんの質問を質問で返事をすると、更なる質問が返ってきた。


 勇太くんの口振りから、勇太くんは小田ちゃんと一緒に来たわけではないようだ。


 じゃあ、誰と? ……まさか。


「……家族旅行……ですか?」


 急に血の気が引き、湯冷めをしたかの様に寒気がしてきた。


 ここに真琴ちゃんもいるかもしれない。


 呑気にお土産を選んでいる場合じゃない。 


 真琴ちゃんと鉢合う前に部屋に戻ろうと、手に持っていた爪楊枝をゴミ箱に捨てようとするが、動揺の余り、至近距離から放ったにも関わらず外してしまい、爪楊枝は床の上に転がった。


 それを拾おうとすると、勇太くんがしゃがんで爪楊枝を拾ってくれ、ゴミ箱に捨ててくれた。


「違うよ。今、家族と旅行なんかしたくもない」


 私の質問に不快感を露わにしながら答える勇太くん。


 嫌悪感を隠しもしなかった私の態度がそうさせたのだろう。


「もし、その理由に私が関わっているなら、気にしなくて大丈夫ですよ」


「もう、自分には関係のないことだから?」


 口の中のおまんじゅうを飲み込んだ勇太くんが私を見た。


「そんな無責任なことを言いたいんじゃなくて……もし、佐藤さんの家に変な空気が流れているんだとしたら私のせいだと思うから、私なら大丈夫なので……というつもりで言ったのですが……」


 勇太くんの怒っている様な、悲しんでいる様な強い視線に、喋る言葉が震えてしまった。


「和馬くんがいるから大丈夫ってこと?」


 勇太くんの質問が、さっきから刺々しい。


 自分と結婚する約束までしていた女が、無神経に他の男と温泉に行っているんだ。当然だ。


「変な誤解で日下さんに迷惑を掛けたくないので、それは否定しておきます。日下さんと私はお付き合いしていません。なので、そういうことではありません。確かに今日、日下さんに縋って旅行に来ました。自分で招いた事態と分かっていても、やっぱりしんどくて、少しの間だけでも現実から逃げたかったんです。日下さんは優しいから、今後も頼れば手を差し伸べてくれると思います。でも、彼女でもない私が、しゃあしゃあとそんなことをしてはいけないと思っています。日下さんの困者にはなりたくない。私のことは、私で何とかしますという意味です」


 勘違いしているだろう勇太くんを訂正する様に話すと、


「言ってることが矛盾だらけだね。自分のことを自分で何とか出来なかったから、和馬くんに縋ったんだろ? 彼氏でもない男と何をしに温泉に来たんだよ」


 勇太くんが眉毛をピクつかせ、怒りを放ちながら鼻で嗤った。


「温泉と海鮮料理を堪能しに……」


「何それ。そんなこと、中学生でも言わないよ。中学生だって、男女が2人きりで温泉に行くってことがどういうことなのかくらい分かるわ」


 言い切る前に勇太くんが言葉を被せた。


「日下さん、言ってました。『傷ついている人の傷口を抉る様なことはしない』って。日下さんは……」


「言っちゃう? 『日下さんはそんな人じゃありません‼』って、純粋ぶった女子が使うお決まりの台詞、美紗も言っちゃう? それとも『私はそんなつもりじゃなかった』とか言う? いるよね、そういうことを言いながら男を自分の部屋に呼んだり、平気で男の家に上がったりする女。それって、仮に本当に男の方にその気がなくて、一切手出しされなかった時に、女側が自分の体裁を守る為の保険だろ? もしくは、奥手な清純派を装いたいのかもしれないけど、そもそもそういう子はそんなことしないからね。俺、美紗はそういうタイプじゃないと思ってたのにな」


 反論する私の言葉を、悉く遮る勇太くん。


 もう、何を言っても伝わらない気がした。どんな言葉を使っても、勇太くんには嘘にしか聞こえないのだろう。


「……私、部屋に戻ります」


 勇太くんに軽く頭を下げ、お土産コーナーから立去ろうとすると、


「待って。まだお土産決めてないんだろ?」


 勇太くんがワークの手首を掴んだ。


「また後で見に来ますから」


 勇太くんの手を振り解こうと、手に力を入れて引っ張ってみるが、勇太くんの手は離れない。


「……ふざけんなよ。なんで他の男と温泉に来てるんだよ」


 勇太くんが、痛いくらいに強く私の手を握る。


「……美紗に嫌味を言いたくてここに来たわけじゃないのに。俺とのこと、美紗の中では終わったことかもしれないけど、俺は全然諦められない。終わらせられない。和馬くんの言ってた通りだよ。真琴に聞いたんだ。美紗と和馬くんが今日、この旅館に泊まること。真琴に頼んで、美紗たちの隣の部屋を取ってもらったんだ。大丈夫。本当に真琴はいない。俺ひとりだけ。俺、ひとりで来たんだ。そんなことをしたって何も出来ないし、どうにもならないって分かってたんだけど、居てもたってもいられなかった。どうにかして美紗と話したかった。和馬くんに美紗を取られたくなかった。美紗と話すチャンスが欲しくて、美紗が1人でここを通るの、ずっと待ってたんだ。……今、めっさ後悔してる。旅館なんか来なきゃ良かった。隣の部屋で美紗と和馬くんが2人で寝るかと思うと、気が狂いそう。……何やってるんだろうな、俺。まじしょうもない。美紗の嫌がることしかしてないな、俺。お土産選び、邪魔してごめん。試食するくらいだから、他のおまんじゅうと迷ってたんだろ? どれ? 美紗、つぶあん好きだから、コレ? 1口食べな。残りは俺が食うから」


 勇太くんが右手で私の手を掴んだまま、左手で【新商品】の試食用のおまんじゅうが刺さった爪楊枝を取り、私に手渡した。


「……佐藤さん、甘いもの食べられないじゃないですか」


 戸惑いながらおまんじゅうを受け取ると、


「でも、全部試食してたら夕食の時にお腹いっぱいになっちゃうじゃん。美紗、海鮮楽しみにしてたんだろ?」


 怒っていたはずの勇太くんの表情が一気に陰った。切なげに笑う勇太くんの顔が、私の涙を誘う。


 勇太くんの気持ちに応えたいのに、出来ない。大好きなのに。私だって、この気持ちを伝えたいのに。


 悔しい。悲しい。


「1人で決められますよ。子どもじゃないんですから」


 歯を食いしばり、私も笑って見せた。


「でも、いっぱいは食えないでしょ? フードファイターじゃないんだから」


 勇太くんが、おまんじゅうを持つ私の手にそっと触れると、そのまま私の口元におまんじゅうを近付けた。


「ホラ、食べな。俺は別に海鮮料理を楽しみたかったわけじゃないから、まんじゅうで腹が膨れても構わないし」


 と勇太くんに促され、一口齧ると、勇太くんが残ったおまんじゅうを食べてくれた。


 勇太くんの優しさに、涙を堪えるのに精一杯で、なかなかおまんじゅうが喉を通らない。


 しかし、執拗に咀嚼をし、口の中で味わい続けたおかげで、今食べたおまんじゅうは、さっきのに比べて甘さが強いことは分かった。


 粉々に噛み砕いたおまんじゅうを無理矢理飲み込み、


「さっきの方がおいしかったですね。さっきのにしましょう」


 と、さっきのおまんじゅうの箱を手に取った。


 本当は【おすすめ】の品も食べてみたかったけど、勇太くんにおまんじゅうを食べさせることも、勇太くんと一緒にいることも気まずい。


「嘘吐き。ここは会社じゃないんだから嘘なんか吐かなくていいよ。さっきの甘さ控えめだったじゃん。美紗、甘ったるいのが好きじゃん。俺に気遣った?」


 勇太くんが、私の手に持たれたおまんじゅうの箱を、今食べたおまんじゅうが詰められた箱と取り替えた。


 勇太くんに気を遣ったわけじゃない。性懲りもなく、諦め悪く勇太くんのことが好きだから、勇太くんが食べられそうな方を選んだんだ。


 甘さの弱いおまんじゅうを買ったところで、甘いことには変わりないから、勇太くんは食べないだろうのに。


「……じゃあ、これとさっきのおまんじゅうを買います。甘い方をお母さんのお土産にします」


 勇太くんによって元の位置に戻されたおまんじゅうの箱を再度手に取った。


 お母さんに……。お母さんには、まだ結婚がダメになってしまったことを話せていない。


 勇太くんとの結婚を、涙を流しながら喜んでくてたお母さん。


 お母さんに申し訳なくて、お母さんの悲しむ顔を見るのが辛くて、でも言わないわけにもいかなくて。


 だから、なかなか実家に行こうとしない自分に【お母さんにお土産を渡す】というミッションを課した。


「……美紗。お母さんの前では悪者にならないでね。俺との関係がどうのこうのより、そっちの方が美紗のお母さんを傷つけてしまうと思うから。美紗のお母さん、本当に美紗を大切に想っている人だから。事実以外のことで悲しい思いをさせないで」


 勇太くんの言葉に、水道管が破裂したかの様に一気に涙が湧き出し、我慢する間もなく涙が零れ、手に持っていたおまんじゅうの箱に滴り落ちた。


 たまに意地悪なことを言ったりするけれど、でもいつも勇太くんは優しかった。


 優しくて優しくて、私のお母さんにも優しくて。


 だから私は、勇太くんの事を大好きになってしまったんだ。


 こんなことになってまでも、元カノの母親を想ってくれる勇太くん。


 私はどうすれば、この人を好きじゃなくなれるのだろう。


「ごめん、美紗。嫌なことばっかり言って泣かせてゴメン。折角の温泉旅行に、水差してゴメン」


 勇太くんが、乾き切っていない中途半端に湿った私の頭を撫でた。


「……手、濡れちゃいますよ。髪、ちゃんと乾かしてないんです。それに、佐藤さんは何も悪くないから謝らないでください。変に泣いたりしてすみませんでした。……私、本当にそろそろお部屋に戻ります。身体、冷えてきちゃったので。佐藤さんも戻って下さい。風邪引いちゃいます」


 勇太くんの手から逃れる様に、頭を下げながら勇太くんの手を潜り抜け、2つのおまんじゅうの箱と、目に付いた味見もしていないおせんべいの箱を適当に掴み、レジへ持って行った。


 小銭を見ることもなく、財布から1万円札を取り出し、会計皿に乗せる。


 さっとお会計を済ませ、勇太くんに会釈もせずに早歩きで部屋へ急いだ。


 胸のざわつきが、自分の厭らしさを刺激する。


 私を諦められないと言っていた勇太くんに、喜び安堵した卑しい自分。


 自分も諦めつかなくて、未練を引きずるみっともなさ。


 情けなくて、申し訳なくて、悲しくて、辛くて。


 私はまた、勇太くんから逃げた。


 部屋に戻ると、日下さんはまだ横になったまま、すやすやと寝息を立てていた。


 買ったお土産を鞄に片し、日下さんの近くに座り、日下さんの寝顔を眺めながら、勇太くんのさっきの言葉を思い出す。


『なんで他の男と温泉に来てるんだよ』


 勇太くんはこの問い掛けに対して、私の答えを聞かなかった。


 聞かなくても分かっていたからだろう。


「はぁ……」


 肺が無意識にやるせない溜息を押し出す。


「美紗ちゃん、温泉に来てまで溜息吐かないの‼ 顔にかかってるっつーの」


 日下さんが、目を閉じたまま口を開いた。


「すみません。起こしちゃいましたね」


 右手で「ヤバイヤバイ」と口を押えつつ謝ると、


「美紗ちゃんが部屋に戻ってきた時、なんとなく気配で起きてはいたんだけど、どうにもこうにも目が開かない」


 日下さんが、ぴったりくっついている瞼を擦りながら、起き上がろうと床に手をついた。……が、上半身を起こすことさえ出来ない日下さんは、産まれたての小鹿の様にプルプル震えていた。


 日下さんは、寝起きがあまり良ろしくないらしい。


「美紗ちゃん、何かあったでしょ? 真琴のお兄さんに会っちゃった? 世間一般的にはさ、逃げずに立ち向かう人間を良しとする傾向があるけどさ、逃げるのだって有りだと思うよ、俺は。立ち向かうことくらい一生懸命逃げてる場合だってあると思うからさ。俺、全然砦になれるよ。美紗ちゃんくらい、全然守れるよ」


 未だ起き上がれず蹲ったままの日下さんが、なかなか恰好の良いことを口にするから、


「……ふっ」


 ちょっとキュンとしつつも笑ってしまう。でもやはり、自分のことを【守る】と言ってくれる男性には、心ときめく。


「今、いいこと言ったのにー」


 ようやく目を開けた日下さんが、ほっぺたを膨らませながら私の方を見た。


「日下さん、砦にはもうなってるじゃないですか。私は砦に逃げ込んで、今温泉にいるんですよ」


「そっか。いつでも気兼ねなく逃げておいでよ」


 日下さんは、ほっぺに溜めていた空気を「ふふッ」と笑いながら吐くと、私の頭を撫で撫でした。


 私だって一応女だ。守って欲しい願望もあれば、『守るよ』などと言われれば嬉しくなる。


 この人、私の事を好きなのかな? という錯覚にさえ陥る。


 もし、日下さんが真琴ちゃんの元彼でなかったら、私は日下さんを、何の懸念もなく、勇太くんへの気持ちを吹っ切って好きになれただろうか。

 

 ……勇太くんへの気持ちを吹っ切って。


 ……どうやって?


「……立ち向かうのも逃げるのも一生懸命なら、追いかけることも一生懸命なのかな」


 だって私は、勇太くんが旅館まで私を追って来てくれたことが、本当は嬉しかったんだ。どうせ逃げなきゃいけないのに、嬉しかったんだ。


「それは、真琴のお兄さんのこと? 美紗ちゃんはさ、逃げたいんじゃないの? 立ち向かいたいの? どうしたいの?」


 私を撫でる手を止め、怪訝な表情で私を見る日下さん。


 ……どうしたいのか。自分にも分からない。


 真琴ちゃんからは逃げたい。でも、勇太くんから離れるのが、やっぱりどうしても辛い。


「……」


 答えあぐねていると、


「夕食の準備が整いましたので、お運びしてもよろしいでしょうか?」


 沈黙を破る様に、襖の向こうから仲居さんの声がした。


「はーい。お願いしまーす。美紗ちゃん‼ 来たよ来たよ‼ 豪華海鮮調理ー‼ 蟹ー‼」


 再度私の頭を撫でた日下さんが、「ごめん、美紗ちゃん。今日は楽しむ日なのにね」と立ち上がり、「どうぞー」と言いながら襖を開けると、仲居さんを中へ招き入れた。


 仲居さんによってお膳がセットされると、


「凄いね、美紗ちゃん‼ 本当に豪華だね‼ 美味そー‼」


 日下さんが、何もなかったかの様にテンションを上げ、「早速食っちゃおう‼」と、お膳の方へと私の手を引いた。


「おぉ……。贅沢すぎる。こんなん食べちゃってバチ当たらないかな」


 厚さ何センチあるの? くらいの【お尻に優しい】を通り越して【お尻をただただ甘やかす】くらいの厚みを持つ座布団が敷かれた座椅子に腰を下ろし、目の前でキラキラ輝く魚介たちに、私の目もキラつく。


「全然OKでしょ。こう言うのも何だけど、このくらいの贅沢でもしなきゃ、美紗ちゃんの不運って相殺されないでしょ。目移りするねー。どれから食べればいいんだろ」


 日下さんの目も輝く。


「明るくサラっと私を【不運な女】呼ばわりしましたね」


「今、そんなのどうでも良くない? 早く美紗ちゃんも箸持って‼ ハイ‼ いただきまーす」


 私の突っ込みさえも軽く流した日下さんが、「とりあえず、刺身‼」と箸でマグロの切り身を挟んだ。


「……確かにどうでもいいですね。私も食べたい‼ いただきます‼」


 何となく日下さんと感動を共有したくて、私も箸でマグロのお刺身を撮んだ。


 マグロをお醤油につけ、ほぼ2人同時に口の中に入れる。


 目を大きく見開き、お互いの顔を見つめ合い、


「うーまー‼ 何コレ‼ やばい‼」


 絶品のマグロに感嘆した。


「料理に気取られてうっかり忘れてたけど、ウチラ乾杯してないよ。美紗ちゃん、グラス持って。ビール注ぐよ‼」


 日下さんが「さぁさぁ」と言いながらビール瓶を私に向けるた。


 会社でもこうして上司や周りに気を遣って、可愛がられて親しまれているのだろう日下さんが目に浮かんで、ちょっと面白い。


「私が注ぎますよ。グラス持って下さい、日下さん」


『お先にどうぞ』とばかりに、日下さんの持っているビール瓶に手を伸ばすと、


「ladies first」


 日下さんが私の手を避け、いつかみたいに外国人ぶった。


「ジェントルマンですね、日下さん」


「発音が違う。【gentleman】ね。Lの発音、難しいから気をつけて」


 そして、私の褒め言葉にもダメ出しをする日下さん。


「日下さん、どこの国の人でしたっけ?」


「生まれも育ちも父も母も日本」


『クックックッ』


 そして2人で笑い合う。誰かと笑い合えることは、こんなにも楽しい。


「じゃあ、すみませんが……」


 日下さんにグラスの口を向けると、


「Not at all♬」


 日下さんがエセ外国人を続けながら、私のグラスにビールを注いでくれた。


 日下さんからビール瓶を受け取り、今度は私が日下さんにビールを注ぐ。


「では、遅ればせながら、乾杯‼」


 お互いのグラスをぶつけると、2人で喉を鳴らせながら飲んだ。


「おーいーしーいー‼」「何ココ、天国‼」


 日下さんと極楽を噛み締める。


 美味しい料理に美味しいお酒。最大の楽しみだった極太の蟹。


 なんて素晴らしい時間なんだ。と、夢心地になりながらも、隣の部屋が気になってしまう。


 勇太くんも今、同じ料理を食べているのだろうか。


 おまんじゅうでお腹いっぱいになっていなかっただろうか。


 勇太くんも楽しめているだろうか。


 いかんいかん。私は今日、現実から脱走し非日常を味わいにここに来たんだ。


 瞼をぎゅうっと閉じ、ビールの入ったグラスを掴むと、頭に浮かんできてしまう勇太くんの姿を払拭しようと、グラスの中のビールを一気した。


「飲むねー、美紗ちゃん」


 日下さんが、私の空いたグラスにビールを注ぎ足した。


「飲みますよ。日下さんもガンガン飲みましょうよ」


 自分だけが勢いよく飲んでしまっていることが何となく恥ずかしくて、日下さんにビール瓶を向け、飲む様に促す。


「俺、料理も酒もゆっくり味わいたいタイプ」


 が、日下さんは自分のグラスに手で蓋をし、ビールの注ぎ足しを阻止した。


「ですよね。急いで飲んだり食べたりするの、もったいないですよね」


 正直私だって、こんなに美味しい料理をビールをガブ飲みしながら食べたいわけではない。


 ビール瓶を置き、箸を持ち直すと、カラっと揚がった天ぷらを口に入れた。


 本当に、何を食べても美味しい。


「美味しいね、美紗ちゃん」


 日下さんが笑顔で同意を求めた。


「最高に美味しいですね」


 同じものを食べ、同じ感想を言い合うことは、心がほんわかする。


『美味しいね、勇太くん』。勇太くんが同じものを食べているのなら、勇太くんにも言いたかった。


 やっぱり、お酒でなんか勇太くんを忘れることは出来ない。


 

 豪華料理をたらふく食べ、ある程度酔いを醒ますと、日下さんと大浴場へ。


「それじゃあ、また後で」


 男湯と女湯の扉の前で二手に別れようとした時、


「貸し切り露天風呂に入りたかったのになー。今からでも予約取れるかなー」


 日下さんが立ち止まり、不服そうに唇を尖らせた。


『一緒に入ろうね、美紗ちゃん』


 日下さんが真琴ちゃんの旅行会社でふざけて言った言葉を思い出してしまい、それも今の発言も冗談だと分かっているのに耳が熱くなった。


「そんなに露天風呂が良いなら、仲居さんに聞いてみたらどうですか? 私は大浴場に行きますけど」


 いちいち照れてしまっていることに気付かれたくなくて、女湯に逃げ込もうと扉の取っ手に手を掛ける。


「冷たいなー。美紗ちゃん」


 日下さんが私の浴衣の袖を引っ張った。


「日下さんがエロいんですよ‼」


 そんな日下さんを振り切り、勢いよく女湯の扉を開き、中に入ると速攻で閉扉した。


 男の人と来た温泉での軽いエロトークが、必要以上にエロく聞こえてしまう私は、相当なドスケベなんだと思う。


 2度目の大浴場は、先着が数人いたこともあり、1度目の入浴で長風呂をしたしで、サラっとお風呂に入って早々に出た。


 大浴場から部屋に戻るまでに、また勇太くんに会ってしまわないだろうか? と、周りを見ながら廊下を歩く。


 今回は勇太くんに出くわすことなく部屋に到着。


 襖を開けると、テーブルや座椅子などは片されており、その変わりに布団が2組並んで敷かれていた。


 布団の上には、先に戻っていた日下さんが寝転がっていて、


「おかえり、美紗ちゃん。やばいよー。ふかふかだよー。旅館の布団、まじ天国」


 と、何度も寝返りをしてみては、心地良い感触にはじゃいでいた。


 私は今日、日下さんとここで寝る。


 いい歳をした大人にとって布団とは、睡眠を取る為だけのものではない。


「……」


 何故か並んだ布団を見た瞬間に、ずっとモヤモヤしていてどうしたら良いかも分からなかった自分の気持ちに、はっきりとした答えが出た。


 部屋の中に入り、鞄から今朝日下さんに受け取ってもらえなかった旅費が入った封筒を取り出すと、布団に頬ずりし続ける日下さんの枕元に置いた。


「だから、いいって言ったじゃん」


 日下さんはやはり受取ろうとしてくれず、畳の上を滑らせながら封筒を私の方へ押し戻した。


 だからと言って、もう私は封筒を鞄の中には片さない。


「……日下さん。今から私、日下さんがドン引きしそうな話を割と長めに語りたいので、聞いて欲しいのですが……」


 日下さんの傍に座り、寝そべる日下さんに話し掛ける。


「全然聞くけどさ。ドン引くの? しかも【喋りたい】んじゃなくて、【語りたい】んだ?」


 日下さんが身体を起こし、笑いながら「では、存分にどうぞ」と聞く体勢を整えてくれた。


 鼻から小さく息を吸い、ドン引かれるだろう嘘偽りのない汚い気持ちを吐露しようと口を開いた。


「日下さんはそんなつもりはなかったかもしれませんが、私は今日、日下さんが私とそうなりたいと思ってくれているならば、そうなってもいいと思ってここに来ました。そんな下心を見透かされたくなくて、今日の私の下着は【張り切り感の少ない、でもそこそこお高い下着】です。日下さんは優しいから、私が『抱いて下さい』と迫ったら受け入れてくれるだろうとも思いました。日下さんは優しい。一緒にいて楽しい。日下さんと関係を持ち、長い時間を共に過ごせば、私は日下さんを、日下さんも私を好きになるんじゃないか? と思いました。ムッツリスケベなんですよ、私」


「だから、そういうことは正直に話さなくていいんだって」


 日下さんが呆れながら笑った。


「実は、日下さんがお昼寝をしている時、大浴場から部屋に戻る途中で佐藤さんに会いましたこの部屋の隣の部屋に宿泊しているそうです。佐藤さんが隣の部屋にいるのに、日下さんとそんなこと出来ないと思いました」


「それは、真琴のお兄さんが隣の部屋にいなかったら、俺とそういうことをしてたってこと?」


 日下さんが笑うのを辞めた。


 私の話をドン引きを通り越して、不快に感じたのかもしれない。


「そうかもしれません。それで、日下さんも私も後悔をしていたと思います」


 それでも話を続ける。正直に自分の嫌な部分を晒してお金を受け取って欲しい。


 日下さんが、卑怯な事をしようとしていた自分に優しさをくれるから、心苦しいんだ。


「それは、どういう意味?」


 日下さんの眉間に皺が入った。


「……佐藤さんを、好きじゃなくなれる気配がないんです。日下さんと関係を持っても、この気持ちが消える気がしないんです。快楽は味わえると思うんです。そういうつもりで旅館に来ているので。ただ、そうなった後、自分の気持ちが日下さんに向かって行かなかった場合、あんなことをしてしまったから戻ることは出来ないと分かっているし、自分自身、戻りたいのかどうかも分かっていないんですけど……だから、こんなことを言う必要も言う機会もないかもしれないんですけど、佐藤さんに『私は日下さんとは何もなかった』と言えなくなってしまうのが嫌だと思いました。日下さんだって、傷心の私を慰めようとしてくれただけのご厚意なわけなのに、勝手に後悔されたら良い気しないでしょう?」


「ご厚意て」


 苦笑いをしている風の日下さんの目は、笑っていなかった。


「違うよ。【ご厚意】じゃない。俺は美紗ちゃんに【好意】を持っているから、温泉に誘ったんだよ。好意を持っていなかったら慰めようと思ったりしない」


 日下さんが少し前傾姿勢になり、私との距離を詰めた。


「だとしたら、尚更してはダメです」


 だけど私は詰められた分の距離を後ずさる事はしなかった。


「どうせしようがしまいが、どんな言い訳並べようが、真琴のお兄さんは【ヤッた】と思うだろうね。だったら別にいいじゃん。それに、分かんないじゃん。美紗ちゃんの気持ち、俺に傾くかもしれないじゃん。ねぇ、見せてよ。【張り切り感の少ないそこそこお高い下着】」


 日下さんが私の肩に右手を乗せ、圧を掛けた。


 だけど、何も怖くなかった。


「佐藤さんが信じてくれなくても良いんです。私が自信を持って『何もない』と言い切れればそれで良いんです。日下さんはこれ以上私に手を出さない。日下さん、良い人だもん。良心が許さないはずだ。『砦になる』と言ってくれた人が、そんなことをするわけがない。日下さんは本当に良い人です。そんな人がエッチで心傾く様な女に引っかからないでください」


 私には、【この人は私を押し倒したりしない】という確信があったから。


「ずるいね、美紗ちゃん。俺を善人に仕立て上げて手を出させない様にして」


 日下さんが、しょっぱい笑顔を見せながら、私の肩から手を退けた。


「私が男の人の力に敵うわけがない。しかも私は逃げてもいない。やろうと思えば出来るのに、実行しないのは日下さんの意思でしょ? 私は日下さんを善人に仕立て上げたつもりはないです。そもそも日下さんは善人なんです」


 私の言葉に日下さんが、「美紗ちゃんは本当にずるい」と言いながら頭を掻いた。


「……俺も真琴のお兄さんに会ったんだ。さっき。お風呂で。だから、隣の部屋に真琴のお兄さんがいること、俺も知ってた。真琴のお兄さんに『楽しんで旅行されているのだとは思いますが、万が一、美紗が嫌がることがあった場合、ご容赦いただきたい』って頭下げられたよ」


 日下さんが、佐藤さんがいるだろう隣の部屋の方に視線を向けた。


 勝手な行動ばかりしていた私を、勇太くんが気に掛けてくれていたことに胸がきゅうっとして、そんな勇太くんの言葉を汲んでくれた日下さんの優しさに目頭が熱くなる。


「美紗ちゃんは、真琴のお兄さんからはもう逃げないって決めたの? 立ち向かって行くの?」


 夕食の前に聞いてきた質問を再度口にする日下さん。


「正直、私が『また元に戻りたい』って言えば、佐藤さんは赦してくれる気がするんです。でも、戻ったところで結婚は出来ない。どうしても真琴ちゃんのことは引っかかるから。だけど、佐藤さんへの気持ちは全然変わらなくて。だから、佐藤さんとはよりを戻すことは出来ないけれど、ただただ一方的に気が済むまで佐藤さんを好きでいようかな……と。あ、ストーカーみたいなことはしませんよ‼ 楽しかった時のことを思い出して1人でニヤニヤするくらいですよ」


 これが私の出した答えだ。


 勇太くんを必要以上に避けたりせず、日下さんに縋ったりもしない。


 もう誰にも迷惑を掛けない。


 ただ、勇太くんを好きでいよう。


 決意を固めた私を、


「……ねぇ。何、少女漫画に出てきそうな胡散臭い純情少女みたいなことを言ってるの、美紗ちゃん。無理に決まってるじゃん。真琴のお兄さんを好きなまま不本意に別れた美紗ちゃんが、真琴のお兄さんに新しい彼女が出来た時に、『佐藤さんの幸せを応援しなきゃ。潔く諦めなきゃ』とか言って涙光らせながら引けると思う? 現実は漫画じゃないんだよ。漫画みたいに綺麗に片付かないの‼ 泣き顔だってあんなに綺麗なわけないの‼ 涙は頬を一直線に伝わないの‼ 実際は何故か鼻の方に流れてきて、鼻の穴から滴り落ちたりするの‼ 鼻水だってしっかり出るの‼」


 日下さんが渋っい顔をしながら盛大に馬鹿にした。


「じゃあ、そうすればいいんですか? 佐藤さんを好きな気持ちは消えないし、消せない。この気持ちを処理出来なければ、他の人を好きになることだって無理ですもん。……もう死ぬしか……」


「待って待って待って‼」


 日下さんが、お手上げ状態で途方に暮れ出す私の肩を掴み、『暮れるにはまだ早い』とばかりに前後に揺らした。


「ねぇ、美紗ちゃん。初めて会った時は真琴の彼氏だった俺を警戒してたけど、今は俺のこと、信用してくれてる?」


「信用していない人と旅館に来たりしませんよ。信用してます。日下さんのこと」


 私の顔を覗き込みながら問いかける日下さんに、頷きながら答える。


「そっか。良かった。前に美紗ちゃんさ、俺に『真琴ちゃんのどこを好きになったのか?』って聞いたよね。真琴にもあるんだよ、良い所。だから俺は真琴を好きになったんだよ。美紗ちゃんは真琴から嫌な思いをたくさんさせられたから、真琴の良い部分が見えないのは当然だと思う。でも、探せば絶対にあるから。ちゃんとあるから。美紗ちゃんには見えていなかった、真琴の良い所が。……って言われても、探す気になんかなれないとは思う。真琴を赦す気になんか、なかなかならないと思う。でも、俺を信用してくれているなら、俺の言葉を信じてみてよ。そうしたら、美紗ちゃんが『絶対に無理だ』と諦めていたことが、そうじゃなくなるかもしれない。真琴を赦すことが出来なくても、今とは違う方法が、美紗ちゃんが納得出来るより良い道が見つかるかもしれないよ」


 日下さんはそう言うが、


「真琴ちゃんの良い所を知っていながら何で別れたんですか?」


 日下さんの言っている事が、イマイチすんなり入っていかない。


「俺、結構いいこと言ったのに、そこツッコむ? 単純に、悪い部分を見ちゃったからだよ。悪い点を良い点で相殺出来ないくらいに、悪い点が目についたからだよ。だから、恋愛感情がなくなった。美紗ちゃんもきっと、真琴の良い所を発見したからって、赦すには至らないと思う。でも、美紗ちゃんと真琴の間には恋愛感情はいらないし、友情だって育む必要ない。家族愛は……まぁ、あるに越したことはないけどさ、同居するわけじゃないなら、ちょっと距離を置くくらいの方が上手く行くことだってあると思うよ。要は、美紗ちゃんが幸せになる為の妥協点を探し出せればいいんだよ」


「……真琴ちゃんの良い所……妥協点……本当に見つかるかな?」


 真琴ちゃんへの嫌悪を撥ね退け、妥協点を見つけ出すなんて、私に出来るのだろうか? 自信なく俯いていると、


「1人で頑張る必要ないでしょ? 真琴のお兄さんと一緒に探せばいいよ」


 日下さんが私の頭をポンポンと撫でた。


「『真琴のお兄さんと一緒に探せばいいよ』って日下さん、さっきの『私に好意があった』って嘘でしょ?」


 頭の上にある日下さんの手を退け、顔を振り上げ鼻を膨らませてみせた。


 激しく求められても困るが、自分からアッサリ手を引かれると、それはそれで女として何か淋しい。


「嘘じゃないよ。何、俺が美紗ちゃんをヤリ目で温泉に誘ったと思ってるの? ヤリ目だったら自分家か安っいラブホ行くっつーの!! ムカついた。心からのお詫びを要求するわ。俺は美紗ちゃんと違って、自分のものにならない人に好意を持ち続けるなんて事は出来ないし、したくないの‼ 時間の無駄じゃん。だから、少しでも早く気分切り替えられるように、美紗ちゃんにはさっさと納まる所に納まってほしいの‼」


 日下さんが、膨らんだ私の鼻の穴に人差し指と中指を差し込み、鼻フックをした。


「やめてやめて‼ 鼻水付いちゃう‼ 下手したら鼻くそもつくから‼ 日下さんを嘘吐き呼ばわりした事、陳謝致しますから‼」


 自分の鼻の穴に刺さった日下さんの指を即座に抜き取り、近くにあったティッシュボックスからティッシュを引き抜くと、執拗かつ入念に日下さんの指を擦り拭いた。というか、手洗いしてきて欲しい。


「だから、そういうこと言わなくていいっつーの‼ 美紗ちゃん、女の子でしょうが‼ 思ったことを全部口にしちゃダメ‼ 鼻くそとか言っちゃダメ‼ つか、そんなに拭かなくていいから。指の皮剥けるから。……正直言うとね、美紗ちゃんが真琴のお兄さんのところに行くの、今も超心配なんだよ。真琴のことだけじゃなくて、真琴の両親とも上手くやっていけるかな? って。後々介護が必要になった時、真琴の両親に痴呆や更年期が始まった時とか、辛く当たられることだってあると思う。ただでさえしんどいのに、【自分を虐めた人間の親】っていうのが頭にあると、余計に厳しいんじゃないかなって。でも、美紗ちゃんが真琴に関して何らかの妥協点を見つけることが出来たなら、それも何とかなることなのかもしれないな。とも思う。まぁ、俺は美紗ちゃんに振られた部外者だから、何ともならなかったとしても関係ないんだけどね」


 眉間に皺を寄せながら笑った日下さんが、私の手からティッシュを奪い手のひらで丸めると、ゴミ箱に投げ入れた。


「別に振ってなんかないですよ。かといって、日下さんとお付き合いするわけでもないので、【部外者】って言われてしまえばそうなんですけど……なんか、突き放されたみたいで寂しいんですけど……。でも、心配してもらえたのは嬉しかったです。……何とかなる……かぁ。もう、何とかするしかないんですよね」


『何とかする』と強気なことを言っておいて、自信などないわけで。


「うーん」と唸りながら両手で頭を抱える。


「どっちがだよ。今の会話聞いたらほとんどの人間が、美紗ちゃんの方が俺を突き放してる様に聞こえるっつーの。まぁ、どうにもならなかったら連絡頂戴よ。一応【砦】なので、俺に新しく好きな人が出来てなかった場合、美紗ちゃんが逃げて来られる様に門開けておくから」


 俯く私にチョップを入れて笑う日下さんは、優しすぎてお人好しだ。


 こんな私を見捨ずにいようとしてくれる。


「日下さんは本当に素敵な人なので、すぐに良い人が出来ると思います。だから、未来の新しい彼女が出来た時の為に、1つアドバイスしても良いですか?」


 日下さんは私の事を心配しているが、お人好しすぎて損をしてしまいそうな日下さんの事が、私も心配だ。


「お? 窮地に立たされている美紗ちゃんの、上からの忠告?」


「ほうほう聞きましょう」と言いながら、私を軽くバカにする日下さん。冗談と分かっていても若干ムカつく。


「私、日下さんに『砦になるよ』って言われて嬉しかったです。きゅんきゅんしました。でも、多くの女性はきっと【逃げ込める砦】よりも【いつも守ってくれる盾】を欲している気がします。『盾になるよ』って言った方が、女を落せる確率上がる気がします」


 たまに意地悪を言ったりするけれど、日下さんはやっぱり良い人。日下さんには、今後現れるだろう愛する誰かと幸せになってほしい。


「なるほど。砦をか言って待ってちゃダメなわけね。勉強になったわ」


「ふむふむ」と顎に指を乗せ妙に納得する日下さん。


 ……しかし、自分で言っておいて何だが、『盾になるよ』などという台詞を言うシチュエーションって、なかなかないような……。まぁ、いいや。黙っておこう。


「ところで美紗ちゃん。俺、浴衣の女の子が隣で寝てると思うと、ムンムンムラムラしそうなのね。健康優良男子だし。だから、強めの酒飲んで泥酔した勢いで寝てしまおうと思ってるのね。と、いうことで勝手にひとり酒してても良い?」


 私に伺いを建てている様で、の向き満々の日下さんが、電話の横に立てかけられていたメニュー表に手を新ばした。


「実を言うと、私も隣に日下さんがいると思うと眠れる気がしないんですよ。私も飲みたいなと思ってました」


 寝られそうもないのは、私だって一緒だ。


「美紗ちゃんまで酔っ払ってどうするの⁉ 2人共酔っておかしなことになったらどうすんのさ。俺、酔った勢いでヤった男女が『あの時は酒が入ってたからー』とか『酔ってて何も覚えていない』とか言うの、嫌いなんだよね。盛った男女の都合の良い言い訳にしか聞こえない。万が一、俺が変な事しそうになった時、美紗ちゃんはシラフでいなきゃ逃げられないでしょ‼ 美紗ちゃんはもう飲んじゃダメ‼」


 日下さんが、私にメニュー表を見せまいと、私に背を向けた。


「自分ばっかりずるくないですか? 私だって眠れないって言ってるのに。じゃあ、日下さんも飲まないでくださいよ。飲まずに眠くなるまでゲームしません? ここ、結構色々なゲーム置いてありますよ。トランプもUNOも花札も人生ゲームまである‼」


 日下さんがメニュー表を見せてくれないから、仕方なくテレビ台の下にしまわれていたゲームを引っ張りだした。


「人生ゲーム……。あの、車に自分と配偶者と子どもを4人まで乗せる事の出来る、あのゲームをするの? 美紗ちゃん」


 日下さんが冷ややかに笑った。


「何その、今の私の心臓を抉るゲーム。辛いんですけど」


「美紗ちゃんが言い出したんじゃん。じゃあ、トランプしよう。スピードしようよ。俺、まじで強いから。負けた記憶がないくらいに強いから。手の動き、早すぎて見えないから」


 日下さんがトランプをチョイスし、鮮やかに切り出した。


「私もめちゃめちゃ得意ですよ」


 かなりお久しぶりのトランプに、変にテンションが上がり、気合いが入った。


「お手並み拝見しますか」


 日下さんが腕まくりをしながらトランプを配りだしたから、私も顔にかかる横髪を耳に掛け、本気モードに。


 どちらかが負ける度に「もう1回‼」などと再戦を繰り返し、腕が筋肉痛になるほどトランプとUNOと花札で遊びまくって、この日は疲労のあまり2人ともいつの間にか眠っていた。




「……もしもし。あ、おはようございます。今から行きます」


 翌朝、フロントからの朝食の時間を知らせる内線で目を覚ます。


 受話器を置き、時計を見ると8:00を過ぎていて、明るい陽射しが差し込む窓に目を向けると、ボサボサの髪をした自分が映っていた。


 近くには起きる気配のない日下さんが寝転がっていて、その手には花札が握られていた。


 おそらく、昨日私たちは花札の最中に眠気に襲われ、今に至るのだろう。


 日下さんを起こす前に洗面所に向かい、左からとてつもない強風を煽ったかの様な寝癖をした髪の毛を直すことに。


 さすがにこの頭は見せられない。


 洗面台に置いてあったアメニティで何とか髪の毛を整え、日下さんを起こしに部屋に戻る。


 日下さんの傍に近付いた時、布団で半分隠れた昨日受け取ってもらえなかったお金の入った封筒が見えた。


 恐らく日下さんは、女性からお金を受け取るのが嫌いな性格なのだと思う。何を言っても貰ってもらえない様な気がするので、日下さんが寝ていることを良いことに、日下さんの旅行鞄のサイドポケットに封筒をそっと差し込んだ。


 そして、何食わぬ顔で日下さんの肩を揺らす。


「日下さん日下さん、朝です。朝ごはんの時間です。大広間に行きましょう」


「……もうちょっと寝たいから、俺はいいや。元々朝メシ食わない派だし」


 起きたくない様子の日下さんは、私の手から逃れる様に寝返りを打った。


「何言ってるんですか、日下さん。温泉たまごやお漬物やお味噌汁が何故か異常な程に美味しい旅館の朝食を食べない気ですか? ちょっと頭おかしいですよ」


 逃すまいとさっきよりも激しく、最早肩ではなく日下さんの身体全体を前後に揺する。


「……美紗ちゃん、言い方。……つか、それな。旅館の朝メシってまじで美味いよね。でも眠いの。どうしても眠いの。だってほら、美紗ちゃん運転出来ないじゃん。帰りも俺が運転じゃん。事故らない様に寝とかなきゃじゃ……ん……」


 眠気の余り、私に嫌味を返しながらも話の語尾が消えゆく日下さん。


「運転に関しては返す言葉もないんですけど。本当に申し訳ないと思ってますけど。でも、私たちのプランって、【ゆったりプラン】だったじゃないですか。チェックアウト13時ですよ。食べてからまた寝たらいいですよ。朝食食べないなんて、もったいないですって」


「~~~もーう‼ 美紗ちゃんの食いしん坊‼ 行くよ行くよ‼ 行けばいいんでしょ‼」


 寝かそうせずに、しつこくうるさい私に観念した日下さんが、ガバっと上半身を起こした。


 薄ら開いた日下さんの目に自分の顔が映った事を確認して、


「一緒に食べましょうよ、日下さん。おはようございます」


 やっと朝の挨拶を。


「……俺も早く彼女見つけよ。……やっぱりいいよね。好きなコに『おはよう』って言ってもらえる朝って。おはよう、美紗ちゃん。行こっか、大広間」


 小さく笑って挨拶を返してくれた日下さんが起き上がり、立ち上がると旅行鞄を跨いで襖を開けた。


 どうやら鞄に入れられたお金には気付いていない様子。良かった。


「待ってくださいよ。置いていかないでくださいよ」


 慌てて私も腰を上げ、日下さんを追って部屋を出た。


 朝食は大広間でのビュッフェ形式だった。


 大広間に入ると、仲居さんに食器が乗せられたトレーを手渡された。


 ズラっと並んだ選び放題食べ放題の朝食に、朝からテンションが上がる。


「美紗ちゃん、目輝きすぎ」


「温泉たまごは必須ですよね。でも、ハムエッグもおいしそうですよね。どっちもっていうのはたまご食べ過ぎですかね? でも、今日くらいいいですよね⁉」


 日下さんの言葉はちゃんと聞こえているけれど、目の前の料理たちの『私も美味しいよ』『僕の事も食べてみて』という絶対に聞こえるはずのない声を勝手にキャッチしてしまい、日下さんのツッコミに全く沿っていない返しをしながら、『食べる』などと言われてもいないのに、日下さんのトレーと自分のトレーに温泉たまごを乗せた。


「勝手に乗せるし。食うからいいけどさ」


 日下さんが呆れながら笑った。


 2人で朝食を選び、テーブルに持って行こうとした時、


「……真琴のお兄さんがいるね。どうする? 行く?」


 視線の先に1人でつまらなそうに朝食をとる勇太くんの姿が見えて、日下さんが立ち止まった。


「日下さん、気まずくないですか? 佐藤さんとそんなに仲良いわけじゃないですよね?」


「じゃなくて、美紗ちゃんが1人で行く? ってこと。真琴のお兄さんと食べたいでしょ?」


 トレーで両手が塞がっている日下さんが、肘で私を小突いた。


 きっと日下さんは、私に気を遣っているのだろう。


「何を言っているんですか? 私は日下さんと楽しむ為に温泉に来たんですよ。いくら佐藤さんのことが好きだからって、日下さんを蔑ろになんかしたくないです。私、今回旅行に来て本当に良かったと思っているんです。凄く凄く楽しいなって思っているんです。日下さんと最後まで楽しみたいと思っているんです」


 自分も両手が空いていない為、「向こうのテーブルが空いてますよ。行きましょう」日下さんに目配せで移動を促す。


「いいの? 真琴のお兄さんも俺らに気付いてるっぽいよ。俺と旅行してるだけでも大きな誤解なのに、更に上塗りになっちゃうよ?」


 日下さんの言葉通り、確かに勇太くんは私たちの方を見ていた。でも、


「私、日下さんがいてくれて本当に良かったと思っています。日下さんにどれだけ救われたと思っているんですか。日下さんの存在をなおざりにするくらいなら、誤解されたままの方がマシです。この旅行は、日下さんにとっても楽しいものであって欲しいんです。日下さんがどうしても私と食べたくないと言うのなら話は別ですが……」


 あくまで今日の旅行は、日下さんと私が楽しむ為のものなんだ。私は、勇太くんと一緒に来たわけではないのだから。


「美紗ちゃんってさ。真っ直ぐな様で、自ら物事を拗れさせるタイプだよね。もう俺、知ーらなーい。俺と美紗ちゃんが楽しく朝メシ食ってるところを見せつけられて、真琴のお兄さんの気持ちが離れて行っちゃっても、俺のせいにしないでよねー」


 日下さんは、「折角気利かせてやったのにー」と、私が目配せした席にスタスタ歩いて行ってしまった。


「だから、置いて行かないでくださいって‼」


 もう‼ と鼻息を漏らしつつ、日下さんを追う。



 ----------勇太くんの気持ちが離れて行く。


 出来れば自分のことを好きでいてほしい。


 日下さんの言っていた通り、真琴ちゃんの良いところを見つけることが出来たら、勇太くんと結婚出来るのだろうか。


 どうにもならないことならば、いっそ嫌われて振られた方が諦めがつく気がする。


 心の中で希望と不安が交錯する。


 

 日下さんと2人で、勇太くんから少し離れた席に座る。


 2人で『いただきます』と手を合わせ、早速朝食を口に運ぶ。


「味噌汁のだし、最高。沁みるー」「朝から幸せ」と2人で朝食の美味しさに頬を綻ばせた。


 そんな私たちを横目に、勇太くんは淡々と食事を済ませて大広間を出て行った。


「美紗ちゃん、分かってる? 美紗ちゃんが今してることって、俺が真琴の店でやったのと同じことだよ。異性と仲良さ気なところを目の当たりにさせるって、決定打だよ」


 勇太くんが出て行った方に目を向けながら、ボリボリと良い音を立ててお新香を咀嚼する日下さん。


「今更ですよ、日下さん。決定打なんて、日下さんと私が温泉旅行をしている時点で既に放たれているじゃないですか。折角の楽しい旅行です。今ジタバタしたくないんです。私は満喫してますけど、日下さんは楽しめていますか? 余計なことは考えずに、楽しみましょうよ」


 日下さんがあまりにも美味しそうな音をさせながらお新香を食べるから、私もお新香に箸を伸ばした。


 今回の旅行の目的は【現実逃避】。


 予想外の勇太くんの登場に、完全に現実を忘れる事は出来なかったけど、今は考えたくないんだ。


 家に着くまでが遠足。だから、家に着くまでが日下さんとの温泉旅行。


 家に帰るまで、現実から距離を置いていたいんだ。


「それを、【どっしり構えている】と言うのか、【開き直っている】と言うのか……。まぁ、美紗ちゃんのそういうところ、好きだけどね。俺も楽しんでるよ、この温泉旅行。でも、何なんだろ。この感じ。このままもう1泊したいなーって思うのに、そうれはしない方が良いんだろうなって思っている自分もいてさ。てか、『もう1泊』なんて無理な話なのは分かってるんだけど、無理じゃなかったと仮定しても、普通に帰る方を俺は選ぶだろうなー的な。夢の中って長居しちゃだめだよね。醒めた後がしんどいから。『あー楽しかった。よし‼ 現実を頑張るか‼』ってくらいで抜け出さないとね。だけどもう少し、旅行が終わるまでしっかり楽しもうか、美紗ちゃん」


 日下さんがスクっと立ち上がり、「今日はたまごの摂取量とかカロリーとか気にしなくていいよね。温泉たまごの追加取ってくるわ」と温泉たまごをおかわりしに行った。



 ----------夢の中に長居をしてはだめ。


 私も同じことを思っていた。


 今、こんなに楽しいのに、現実に戻るのも怖いのに、勇太くんと話がしたいと思った。


 朝からお腹はち切れんばかりの朝食を食べ終わり、日下さんはもう一眠り、私はノルマである3回目の入浴へ。


 そして13時に旅館を後にした。


 帰りの道中も楽しかった。


 話し上手で聞き上手な日下さんとのおしゃべりは止まることなく、ずっと笑っていた気がする。


 そして私のアパートの前に到着。


 シートベルトを外していると、


「美紗ちゃんさ、俺に『エッチで心傾く様な女に引っかからないでください』って言ったじゃん。だから俺は、そんな美紗ちゃんに惹かれたんだと思う。好きになったんだと思う。……しかし俺ら、すごいよね。キスもハグも、手さえ繋いでないんだよ。1日中ずっと一緒にいたのに」


 日下さんがしょっぱい顔で笑いながら、後部座席に置いていた私の荷物を取ってくれた。


「そこら辺の中学生より清いですよね」


「中学生だったら模範生徒だったよね、俺ら」


『あはは』と帰り際まで笑い合う。


「美紗ちゃん。一緒に温泉に行ってくれてありがとうね。美紗ちゃんを独占出来て、ずっとずーっと楽しかったよ、俺」


「こちらこそです。私も楽しくて仕方なかったです。本当にありがとうございました」


 そしてお礼の言い合いに。


「このままバイバイじゃ味気ないから、最後に握手しない?」


 日下さんがシャツで手汗を拭く仕草をした後、右手を差し出した。


 その手を両手で包むと、


「頑張ってね。美紗ちゃん」


 と日下さんが左手を添えた。


「はい」


 返事をしながら頷くと、


「疲れたでしょ? もう部屋に入りな。じゃあね、美紗ちゃん」


 日下さんが私に握られた手をスルリと抜き取り、助手席のドアを開けた。


 車を降りて手を振ると、日下さんも笑顔で手を振り返して去って行った。


 小さくなっていく車を見ながら、涙が出た。


 旅行が終わってしまった事の淋しさと、日下さんへの感謝で胸がいっぱいで。


 日下さんに好きだと言ってもらえたことはきっと、私の自慢になり、自信になり、心の糧になるだろう。

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