結託する近親者。
「ねぇ、小田さん。小田さんの気持ちは有難いけど、仕事は仕事だし、本当に嫌だったら美紗に仕事振ったりしないよ、俺。変に気を利かせなくてもいいよ。小田さんやみんなが美紗を良く思わない気持ちは理解出来るけど。でも、美紗は本当に何も悪くないんだよ。全部誤解で……。だから、あんまり美紗を責めたり、疎外するようなことはしないでほしい」
美紗がトイレに行ってしまった為、美紗に頼もうと思っていた仕事のファイルを小田さんに手渡す。
「ちょっと何言ってるか分からないんですけど。しっかり浮気を見せつけられて、『美紗は何も悪くない』って言われても、『そうですね』って誰が同調するんですか?」
俺から受け取ったファイルをパラパラ捲りながら、不服そうな表情を浮かべる小田さん。
「例え誤解じゃなかったとしても、小田さんが美紗に何かをされたわけじゃないでしょ? 小田さんが怒るのも、美紗の仕事に横入りするのも違うと思わない?」
「……何それ」
パタンと大きな音を立ててファイルを閉じた小田さんが、睨む様に俺を見上げた。その目は薄ら涙を帯びている。
「横入りって……そんな言い方なくないですか?」
「……ゴメン。でも、美紗の仕事なのに……」
確かに言い方は良くなかった。さっき、美紗に誤解を与えただろう小田さんに苛立っていたから、ちょっと言葉に棘があったと思う。
だけど、今ある誤解を解くのにも手を焼いているのに、更なる誤解を吹っ掛ける小田さんを煩わしく感じて、謝りながらも余計な言い訳を付け足してしまった。
「……本当は『横取りするなよ』って言いたかったわけだ。……酷いですね。でしゃばってすいませんでした」
小田さんが、俺から渡されたファイルを俺の胸に押し返した。そして小田さんもまた、走って事務所を出て行った。
「……あぁー‼ もう‼」
ファイルを小脇に挟み、頭をぐしゃぐしゃ掻くと、誰にも手伝ってもらえなくなったプレゼン資料作りを1人でするべく、自分のデスクに戻った。
以前使ったプレゼン資料を元に1人で黙々とパソコンに文字を打ち込んでいると、
「佐藤、酷過ぎね?」
隣のデスクの岡本が、外回りから帰ってきた。
「何が?」
美紗に手伝ってもらう予定だった仕事を自分ひとりでしなくてはいけなくなった為、岡本の話相手をしている時間などなく、岡本の方さえ見ずにとりあえず返事だけはする。
「さっき、廊下で小田さんに会った。泣いてたから、何があったか聞いた。俺は、佐藤が悪いと思う」
岡本が、自分のパソコンを立ち上げながら話を続けた。
確かに小田さんに取った態度は良くなかった。だけど、そんなに俺が悪いのか?
小田さんに責められ、岡本にも責められ、美紗に逃げられる程の悪事を、俺はしてしまったのか?
「小田さんって分かり易いから、部署の全員が気付いてたと思う。佐藤だって当然勘付いてただろ? 小田さんが佐藤に気があることくらい。分かってて寄りかかったんだろ? 精神的に参って誰かに甘えたくなった佐藤の気持ちも分かるけどさ、小田さんをその気にさせておいて『もう気が済んだから関わらないで』っていうのはあんまりだと思う」
岡本の言う通り、小田さんが自分に好意を持っていることは何となく分かっていた。俺を好きでいる小田さんなら、落ち込む俺に優しく接してくれるだろうと思った。だから昨日、甘えてしまった。でもそれ以上、小田さんの気持ちを利用して付け込んでやろうなんて考えはなかった。実際、小田さんの肩を借りて、そこに頭を乗せて髪を撫でてもらっただけだ。それが、俺の甘さなのだろう。
「それは悪かったと思うよ。だけど、岡本だって『甘えちゃえば?』って俺を乗せたじゃん」
「まぁ、そうだけど。俺、小田さん、いい子だと思うよ。みんなの前で平気で佐藤を傷つける木原さんなんかより、小田さんの方が絶対にいいと思う。自分を好きでいてくれる人と一緒にいる方が幸せになれると思うけどな、俺は」
岡本の助言は、俺を思ってのことなのは分かる。この状況で岡本がそう思うのも無理はないとも思う。でも『木原さんなんか』って……。
岡本に、美紗を下げられながら小田さんをお勧めされていると、
「自分がやると言っておいて仕事放棄をしてすみませんでした。資料作成、私もやります。どこから手伝えばいいですか?」
小田さんが事務所に戻ってきて、俺のデスクまでやって来た。
「あ、小田さん。俺のデスク使いなよ。俺、もう1件アポあるから、もう少ししたらまた出かけるからさ」
そんな小田さんに自分の席を譲る岡本。小田さんの肩をポンと叩き、「頑張って」と声を掛ける岡本は、完全に小田さんの味方だ。
「じゃあ、使わせてもらいます。すみません」と言いながら岡本の席に座った小田さんに、資料作りの指示をしようとした時、美紗も事務所に帰って来て、俺らのデスクの前を横切った。
自分のデスクではなく、課長のデスクに向かう美紗。
「課長。すみませんが、来月の第三水曜日と木曜日、有給申請してもよろしいでしょうか」
有給を願い出る美紗。何でもない平日に2日間の休暇願い。何の用事なのか、気になる。
「うん。大丈夫だよ。じゃあ、総務にWEB申請しておいてね」
「はい。ありがとうございます」
課長に有給の申し出が通った美紗は、少し嬉しそうな表情を浮かべると、課長に頭を下げて課長のデスクを後にした。
自分のデスクに戻ろうと、また俺たちのデスクの近くを通り過ぎようとした美紗に、
「木原さん、有給取って新しい彼氏とどこかにお出掛け?」
岡本も、美紗と課長の話をしっかり聞いていて、悪意たっぷりな質問を美紗に投げかけた。
「……はい」
「……え?」
まさかの美紗の返事に愕然とした。
「……最ッ低。そのままもう会社に来なくていいよ、美紗」
俺の横で小田さんが美紗を睨み付けた。
会社に来たくない美紗を、上司に掛け合って留めているのは、俺。
美紗の返答にショックを受けながらも、美紗が小田さんに『辞めろ』と嫌味を言われるのに罪悪感を抱く。
「……」
美紗は何も言い返すことなく、目を伏せながら俺らにも頭を下げ、自分のデスクに戻って行った。
岡本が事務所を出て行き、美紗を気にしながらも小田さんとプレゼン資料作りを続ける。
美紗は、EXCELもパワポも得意で、作表もセンスが良く、込み入った計算式も難なく打ち込めた。
だけど、パソコンをそれほど使いこなせない小田さんは、美紗の倍以上の時間がかかってしまう。
斯く言う俺も、美紗ほどパソコンに詳しくない。
残業確定だな。と肩を落としていると、俺のパソコンにメールが届いた。
美紗からだった。
メールを開くと、計算式が既に組み込まれている表が作られたEXCELが添付されていて、本文に『数字を打ち込み終わったら、該当項目をフィルターで絞って、ピポット集計すれば前回と同じ様な資料が出来ます』と書かれていた。
美紗のデスクからは、俺らの様子が良く見える。四苦八苦している俺らを心配してくれたのだろう。
……しかし『ピポット集計』。やったことないんですけど。
『フィルター掛けるとこまでしか分かんない。ピポットってどうやるの?』
隣で懸命に資料作りをしている小田さんに気付かれない様に美紗にメールを飛ばす。美紗に手伝ってもらっている事が小田さんに知れたら、きっといい気はしないだろうから。
『【ピポット集計】か【ピポットテーブル】でググればやり方が出てきます』
すぐに美紗から返事が来た。
言われた通りにググる。……が、確かにやり方はいくつも検索出来た。しかし、解読不能。説明が難しくて俺には理解が出来ない。
『ググったけど出来そうにない。俺、パソコン強くないから分からない』
美紗にメールを送った後、美紗に目配せをすると、俺の視線に気づいたのか、美紗が俺を見た。
久々に美紗と目が合って、なんか嬉しかった。
しかし、美紗はすぐに俺から目を逸らし、凄いスピードでパソコンのキーボードを打ち鳴らし始めた。
5分くらい経ってから、また美紗からEXCELが添付されたメールが届いた。
EXCELを開くと、ネットからコピペしただろう画と、美紗の分かり易い説明文付きの、ピポット集計の手順が書かれていた。
『ありがとう』
と美紗にメール送信した時、美紗の後ろを外回りから帰ってきた岡本が通りかかった。
岡本が、目を細めて美紗のパソコン画面を覗き見た。そして、
「本当に最低だね、木原さん。自分の方が仕事が早いからって、こそこそ佐藤に自分が作ったEXCEL送るとか。小田さんをバカにしてるとしか思えない」
美紗の頭上に罵声を浴びせた。
「……すみません」
岡本を見上げることも出来ず、俯きながら謝る美紗。美紗の肩が少し震えていた。
「何だよ、その言い方‼」
立ち上がり、岡本に駆け寄って、岡本の腕を掴むと、そのまま事務所の外に引きずり出した。
他の社員もいるのに、流石にいい大人が事務所内で喧嘩出来ない。
「お前だって、何度も美紗に仕事手伝ってもらったことあるじゃねぇか‼ しかも、お前が口に出さなければ、小田さんも気付かなかったし、誰も嫌な思いをしなくて済んだだろ‼ 何なんだよ、岡本‼」
通路で大声を出す。通りすがる他の会社の人間にビックリされながらも、そんなことを気にしていられない程にイライラしていた。
「言い方についてお前がとやかく言うなよ‼ 佐藤だって小田さんに酷いこと言ったじゃねぇか‼ お前も木原さんも無神経なんだよ‼」
岡本が言い返してきたところで、美紗と小田さんが俺と岡本の喧嘩を止めに事務所を出てきた。
小田さんが俺と岡本の間に入り、俺の胸を押しながら岡本から引き離した。
その様子を美紗は複雑な表情で見ていて。
小田さんは、俺と岡本に喧嘩をやめて欲しくて、俺の胸を掴んでいるんだということは分かる。
ただ今の状態で、美紗が他の女に触られている俺を見たら、嫉妬してくれるわけではなく、更に気持ちが離れていってしまう気がした。
俺の胸にある小田さんの手を退けようとした時、
「余計なことをしてすみませんでした。佐藤さんと小田ちゃんが今している作業、私にやらせてください。岡本さんの言う通りです。私、2人に腹が立っていたんです。最初に私が頼まれた仕事なのに、2人でやっちゃうから。私の方が、前にやったことがある分早く出来るのにって。後は私に任せて、みなさんは違う仕事をして頂けませんか? 私、ちゃんと退社時刻までに作り終えますから」
美紗が俺らに向かって勢いよく頭を下げた。
やり方は良くなかったかもしれないが、美紗に悪気があったとは思えない。ただ、俺らを気遣ってくれただけだと思う。だけど、美紗は何も反論せずに悪者に徹していた。
美紗が、俺と岡本の喧嘩の原因の怒りを、全て引き受けようとしている。
美紗に『岡本さんの言う通り』『腹が立って余計なことをした』と自分の意見を全部汲み取られた岡本は、これ以上に言いたいこともなくなったのだろう。「戻ろうぜ」と俺の肩を叩いた。
「何でそんな言い方するの? 何で自分が悪いみたいに言うの⁉」
岡本の手を振り払い、美紗に詰め寄る。
「じゃあ、悪いのは誰ですか? 佐藤さんですか? 岡本さんですか? 小田ちゃんですか? 3人共違いますよね?」
美紗が涙目になりながら俺を見上げた。
「でも、美紗でもない‼ 悪いのは……」
『悪いのは真琴』などと、仕事に関係のない妹の名前を出すのは、更に話を拗れさせそうな上、美紗との約束をここで破って良いのかも分からず、咄嗟に語尾を消した。
「庇ってくれてありがとうございます。佐藤さんと小田ちゃんが途中まで作った資料、メールで送っておいてください。出来上がり次第送り返しますから。 私、ちょっとお手洗いに……は、さっき行ったので、飲み物を買いに行ってきます」
美紗がまた頭をペコっと下げ、俺たちから離れて行った。
「……小田さん、あとは美紗にやってもらうから、自分の仕事に戻っていいよ。俺もちょっとコーヒー買いに行ってくる」
美紗の後を追い掛けようとする俺の腕を、
「最後までやらせてください」
小田さんが掴んで止めた。
「ピポット集計」
「……え?」
「美紗が作ってくれた表、VLOOKUP関数が入ってた。それに数字打ち込んで、フィルターで絞ってピポット集計するんだって」
「……」
俺の言葉に、小田さんが俺の腕から手を放した。
「パソコンが得意な美紗が、小田さんより秀でているとは思ってないよ、俺。これは仕事だから。迅速に出来る人に手伝ってもらうのが普通だと思う。小田さんには小田さんの得意分野を手伝ってもらいたい。頑張ろうとしてくれてありがとうね、小田さん」
小田さんにお礼を言うと、
「……いえ」
小田さんが眉を顰めて肩を窄めた。そんな小田さんを慰める様に、岡本が小田さんの肩をポンポンと撫でた。
そんな岡本に『小田さんを頼む』という念を込めた視線を送ると、それを感じ取ってくれたのか、岡本が小田さんの背中に手を添え、小田さんと一緒に事務所の中に入って行った。
取りあえず、仕事の揉め事は落ち着いた。
今度は美紗との問題を解決しようと、美紗がいるだろう自販機コーナーへ走る。
廊下の突当りを右に曲がると、自販機の前で飲み物を眺めている美紗の姿が見えた。
「美紗‼」
名前を呼びながら美紗に近付くと、美紗が振り向いた。
まだ目に涙を溜めたままの美紗。
「美紗、こういうのもうやめてよ。わざと悪者になったりしないでよ。美紗が辛そうにしてるの、見てらんない」
「ごめんね。すぐ辞められると思ったの。だけど、後任がまだ見つからないって……。もう辞めたいのに。すぐにいなくなりたいのに。辛い。苦しい」
美紗の目から、大粒の涙が零れ落ちた。
俺は、『辞めたい』と苦しむ美紗を、上司の力を借りてまで留めている。
俺が、美紗を苦しめているのだろうか。
美紗は、とうとうと流れる涙をしきりに拭きながら、「ごめんね。泣いてごめんね。泣き止めなくてごめんなさい。同情を引きたいわけじゃないんだ。佐藤さんを責めたいわけでもないのに……。ごめんなさい」と何度も俺に謝ると、何も買わずにどこかへ走って行った。
美紗を引き留める事が出来なかった。
俺が素直に手放せば、美紗は苦しみから解放されるのだろうか。
『コーヒーを買いに行く』と言った手前、手ぶらで事務所に戻るわけにもいかず、さほど飲みたいとも思っていなかった缶コーヒーを購入して事務所に戻る。
自分のデスクに戻り、途中まで作った資料を美紗に送ろうとパソコンのメール画面を開くと、誰かからのメールが受信されていた。
メールを開き、また怒りが沸き起こった。
『和馬と美紗、旅行に行くんだって。お兄ちゃん、知ってた? ココに行くんだよ、2人。わざわざウチの会社に来て、嫌がらせの様に予約して行ったから』
真琴からだった。真琴のメールには、ご丁寧に美紗と和馬が宿泊する旅館のURLが添付されていた。
あれから、【真琴】という名前を目に入れるのも、耳に入ってくるもの嫌になり、真琴の電話は着拒にしたし、メールもLINEもブロックしていた。
俺と連絡を取る手段のない真琴は、実家に1枚は置いてあっただろう俺の名刺を見つけて、俺の会社のパソコンにメールを送ってきたのだろう。
真琴からメールをもらうまで、美紗が言った『新しい彼氏とどこかへ行く』というのは、美紗が自分を悪者に見せかける為の嘘だと思っていた。
美紗の有給の計画を知るはずもない真琴が知っているという事は、真琴のメールの内容は本当なのだろう。
『いいの? 2人で旅行に行かせて』
真琴がメールで俺を煽る。
いいわけがない。大人の男女が温泉に行くなど……そういうことでしかない。
デスクに両肘を付き頭を抱えていると、ふと『美紗ちゃんに謝りたい』と言っていた親の顔が頭を過った。
真琴の事もさることながら、両親とも連絡を絶っていた。親さえも許せなかった。真琴を産み、育てた親が憎かった。
家族の誰1人して、美紗に近付いて欲しくなかった。
「……俺は、謝らなくていいのか?」
こんなこ風になってしまったことを、俺は美紗の母親に謝罪どころか連絡さえしていなかった。
美紗は、自分のお母さんに何か話しただろうか?
話していなかったとしたら、これからどう説明するつもりなのだろう。
また自分を悪者にして、お母さんにまでも嘘を吐くつもりなんじゃ……。美紗ならやりかねない。
美紗は優しい。自分がどんなに悪く言われ様とも、俺の体裁を守ろうとしてくれるだろう。
でも、お義母さんにとって、美紗は【素敵な娘】であって欲しい。
お義母さん……。美紗の母親を【お義母さん】と呼んでも良いのだろうか。
こんな状態になってしまったけれど、あなたのお嬢さんは素晴らしい人ですと、美紗の母親に伝えたい。
『近々、お時間作って頂けませんか? お会いしてお話したいことがあります』
ポケットから携帯を取り出し、美紗のお母さんにメールを打った。
『私、今日仕事お休みだから、そっちの仕事が終わったら美紗と一緒にうちにいらっしゃいよ』
すぐに美紗のお母さんから返信がきた。
美紗と一緒に。は、行けない。今後、美紗と一緒に美紗の実家に行くこともないのかもしれない。
『今日は、2人でお話がしたいので、俺がそちらに行くことは美紗には黙っていて頂けませんか?』
俺が美紗のお義母さんに会いに行く事が美紗に知れたら、美紗が阻止しようとし兼ねない。
美紗のお母さんに口止めのメールを送信すると、
『了解です。でもなーに? 気になるわー』
と、悪い話を聞かされるなんて露程も思っていないだろう美紗のお母さんから、明るい文面の返事が来た。
今日、美紗のお母さんを悲しませることになるかと思うと、心苦しくて、申し訳なくて、押し潰されそうに胸が痛んだ。
--------18:00。
美紗のお母さんと約束がある為、残業をせずに退社。
宣言通り、美紗は就業時間内に資料を作り終えてくれた。
2人共、残業をせずに帰れるというのに、一緒には帰れない。
今日、美紗はこの後どうするのだろう。真っ直ぐアパートに帰るのだろうか。それとも今日も和馬と一緒に……。
一足先に事務所を出て行く美紗の後ろ姿を目で追いながらも、追い掛けることは出来ず、美紗の実家へと急いだ。
会社の近くの洋菓子店で、手土産というよりはお詫びの品に近い菓子折を購入し、電車に乗り込んだ。
同じ中学だった、美紗と真琴。
だから、美紗の実家は俺の実家からそう遠くない場所にある。
俺の実家の最寄駅を2コ過ぎた駅が、美紗の実家の最寄駅。
電車を降り、美紗の実家まで歩きながら、今日話さなければならないこと、謝りたいことを頭の中で整理する。
正直、心の整理が出来ていないから、頭の中の整理整頓もままならない。
ちゃんと話すことが出来るのか、不安を抱えたまま美紗の実家に到着した。
美紗の実家のベルを押すと、
「いらっしゃーい‼ 待ってたわよー‼」
美紗のお母さんが、元気よく玄関のドアを開けた。
「突然すみません」
が、俺はそのテンションに合わせられない。だって、俺がこれからする話は、全く明るい話題ではない。
「ウチはいつでもウェルカムよー‼ ほら、靴脱いで上がって上がって」
美紗のお母さんが俺の腕をグイグイ引っ張るから、
「お邪魔します」
靴を揃えることも出来ずに家の中に入った。
そのままリビングに連れて行かれると、
「お腹空いてるでしょう? 張り切っていっぱい作っちゃった」
と美紗のお母さんが俺の為に夕食を用意してくれていた。
ダイニングテーブルの上には、俺の好物が並んでいた。
美紗のお母さんは、俺が何気なく話した好きな食べ物の話をしっかり覚えていてくれたのだろう。
「……なんか、すみません。これ、良かったら……」
美紗のお母さんの心遣いに、余計に申し訳なさが込み上げる。
美紗のお母さんに菓子折を手渡すと、
「全然‼ 勇太くんが来てくれるのが楽しみで、勝手に作っちゃっただけだもの。迷惑だったらごめんね。お菓子、ありがたく頂戴します」
美紗のお母さんが、それを頭の上に持ち上げながらお辞儀をして笑った。
陽気で、快活で、優しくてお茶目な美紗のお母さん。
美紗と結婚しようと思った時、美紗のお母さんのことも大事にすると心に決めたのに……。
「俺も有難く御馳走になります。俺の好きな物ばっかり……。ありがとうございます」
「どういたしましてー。とりあえず、食べてからお話聞かせて」
美紗のお母さんが「座って座って」とダイニングの椅子を引いた。
美紗のお母さんが『話は食べてから』と提案してくれて良かった。食べながら話せる楽しい話ではないから。
椅子に座り、「いただきます」と手を合わせると、好物である豚の角煮に箸を入れる。
良く煮込まれた豚肉は、簡単に箸で一口大に切れ、口に入れるとトロトロにとろけた。
美味い。
俺なんかの為に手間暇をかけて作ってくれた美紗のお母さん。
どうして俺は、こんなに優しくてあったかい人を悲しませなければいけないのだろう。
美紗のお母さんの手料理を完食し、美紗のお母さんにお茶を淹れてもらったところで、
「で、勇太くんの話って何なのかな?」
美紗のお母さんが話を切り出した。
「……あの、美紗から何か聞いてませんか? 俺たちのこと」
「何? 喧嘩でもしたの?」
美紗のお母さんは、何も知らない様子で、眉間に皺を寄せながら首を傾げた。
「……すみません。俺、美紗と結婚出来ないかもしれません」
美紗のお母さんに向かって、机に顔がつく寸前まで深く頭を下げた。
俺のことを快く受け入れてくれていた美紗のお母さんに申し訳なくて、そのまま顔を上げる事が出来ない。
「……どういうこと? 美紗が何かした?」
美紗のお母さんが「とりあえず、顔を上げて。目を見て話しましょう」と俺の肩を叩き、頭を上げる様に促した。
顔を振り上げると、悲しそうな目をした美紗のお母さんの顔があった。
「美紗は何も悪くありません」
顔を左右に振り、美紗のお母さんの疑念を否定する。
「じゃあ、どうして? 勇太くんの問題なの?」
「俺は、結婚したいです。美紗のこと、大好きだから。大切だから」
諦められない思いが、口をついてしまう。
「だったら尚更どうしてなの? 何があったの?」
美紗のお母さんが真相を知りたい気持ちは当然。『結婚出来なくなりました』『あ、そうですか』で済むわけがない。
ただ、美紗と『誰にも言わない』と約束をしてしまったことを、美紗のお母さんに喋っていいものか……。
だけど、俺が美紗のお母さんの立場なら、絶対に知っておきたい。
「……今からする話は、美紗に口止めをされている話です。誰にも知られたくない、プライドのかかった話だと美紗が言っていた話です。でも、美紗は自分のプライドというよりは、俺の体裁を守りたくてそう言っている気がするんです。だけど、美紗に了承を得ていない。だから、俺が話すことはどうか美紗の前ではしないでください。俺が怒りの全てを受け止めますから」
美紗のお母さんに、話そうと思った。美紗のお母さんが、美紗のプライドを汚すわけがないから。
「……とりあえず、話てくれる?」
俺の嫌な予感しか招かない前置きに、美紗のお母さんの顔が歪んだ。
すぅっと息を吸い込み、覚悟を決めて言葉を吐く。
「……先日、俺の家族に会わせる為に、美紗を実家に連れて行ったら、美紗、突然過呼吸になってしまって……」
「……え?」
美紗のお母さんの目が、大きく開いた。
「美紗が中学時代に苛めに遭っていたことは知っていましたか?」
「……」
言葉を失くし、固まる美紗のお母さん。
美紗のお母さんは、きっと知らなかったのだろう。
「3年間、ずっと虐められていたんです。それも、壮絶で卑劣なやり口の苛めです。美紗はそれに、3年間耐え続けていました。……美紗を虐めていた首謀者が……俺の妹でした。妹の顔を見た途端、美紗が過呼吸を起こしたんです。本当に申し訳ありませんでした。謝って許されることではないのは分かっています。すみません。すみません。すみません」
再度頭を下げる。
目を見て話すべきなのは分かっているのに、やっぱり頭を上げられない。
「……赦せない」
後頭部から、美紗のお母さんの震えた声が聞こえた。
「本当に申し訳ありませんでした。何をしたら美紗への償いになるのか分かりませんが、でも俺に出来ることなら何でもします。本当は美紗と結婚したいです。だけど、美紗が妹と家族になるのに抵抗があるのは当然だと思います。美紗が嫌がることはしたくない。だけど、美紗とずっと一緒にいたい。……すみません。何を言っているんだろ、俺。矛盾していますよね。本当にすみません」
謝罪中に自分の自分の願望を挟み込む馬鹿な自分が、本当に嫌になる。
そんな俺に、美紗のお母さんだって嫌気が刺しただろう。
「……言っている事が滅茶苦茶ね。……本当に赦せない」
美紗のお母さんが、嫌悪感を露わにした。
「本当に申し訳ありません」
「勇太くんを赦せないんじゃないわよ。美紗を虐めたのはあなたじゃないでしょ。勇太くんの妹でしょ。……美紗は、何をされたの?」
美紗のお母さんが「ねぇ、しっかり視線を合わせて話しましょう。ちゃんと聞かせて欲しい話だから」と、俺の肩を掴んだ。
逸らしちゃいけないと思った。
美紗のお母さんの視線から逃げてはいけないと思った。
「……蛙やカタツムリを炙って食わされたこと。口の中に虫と土を詰め込まれたこと。便器に頭を押し込まれたこと。机の上に花を生けた花瓶を置かれたことは聞きました。だけどきっともっとされたと思います。だって3年です。……あまりに長い」
「……酷い。酷すぎる。赦せない」
美紗のお母さんは、声を荒げることはせずとも、静かに確実に怒りを放っていた。
「本当に申し訳……」
「勇太くんは悪くないって言ってるでしょ⁉ 美紗だって勇太くんを責めたりしなかったでしょう⁉ 私の娘は、むやみに人を憎む様な、そんな子ではないもの‼ 謝罪すべきは勇太くんの妹さんの方‼ 赦せないのはアナタの妹‼ ……と、私」
謝罪を繰り返す俺を遮り、美紗のお母さんが泣き崩れた。
「……私ね、親バカなんだけどね、美紗を【自慢の娘】だと思ってるの。私、離婚してからずっと【美紗は私1人で立派に育て上げる】って意地になってた。お金に困らせる様なことはしたくなくて、昼夜構わず働いた。そんな私を見て育ったせいで美紗、『お母さんは毎日お仕事頑張ってくれているから、家のことは私がする』って、小学校の頃から家事全般をやってくれてた。申し訳ないなって思いながらも、勇太くんとの結婚が決まった時にね、『美紗にたくさん苦労をかけてしまったけれど、おかげで嫁入り準備は万端だ。これで良かったのかもしれない』って、自分に都合よく考えていたの。……全然気付かなかった。美紗、私の前ではいつも『お仕事ご苦労様』って、毎日笑顔だった。笑顔の美紗しか思い出せない。全部隠して笑ってくれていたのね。辛かっただろうに…。私、美紗は必死に働く私の姿に喜んでくれていると思っていたの。私自身もね、『美紗の為なら何でも出来るのよ。頑張れるのよ』って、体現しているつもりだった。……独りよがりな愛情表現よね。忙しそうに振る舞ったせいで、美紗に気を遣わせて何も言えなくさせてしまった。母親らしいことを何もしなかった上に、甘えさせることも悩みに気付いてあげること事もしなかった。……最低。本当に最低な母親だ」
美紗のお母さんが、テーブルの上で拳を握りしめた。
美紗のお母さんの目から落ちた涙が、テーブルに落ちて広がった。
「それは違います。俺、美紗がお母さんを悪く言っているところなんて、1度も見たことがないです。独りよがりの愛情表現なんかじゃないです。ちゃんと美紗に届いてました。美紗、自分の為に懸命に働いてくれたお母さんに感謝していました。美紗がいつも笑顔でいたのは、お母さんのことが大好きだからですよ。作り笑顔じゃないと思います。大好きだからこそ自然に零した笑顔だったと思います。……て、その時の美紗の笑顔を見たわけでもない俺が言っても説得力ないんですけど……でも、絶対そうだと思います。美紗はそういう人です。そういう素敵な人です」
テーブルの隅に置いてあった箱ティッシュを、美紗のお母さんの傍に置くと「ありがとう」と、美紗のお母さんがそこから2、3枚引き抜き、涙を拭った。
「……俺、今、どうしたらいいのか分からないんです。俺、美紗に軽々しく『イジメは昔の話だろ?』って言ってしまったんです。でも美紗にとっては『思い出したくない、消してしまいたい過去の記憶』でした。俺と結婚すれば、嫌でもその記憶は掘り起こされる。美紗にとっては地獄の3年間が、ずっと付きまとってしまう。『俺は俺。真琴とは違う』と言っても、美紗からしたら【加害者の兄】になってしまう。……美紗に言われたんです。『結婚出来ない』って。美紗、自分から婚約破棄言い出したからって、自分の責任だからって、俺が周りから変な目で見られない様に、会社で嘘吐いてるんです。『自分の浮気で結婚がダメになった』って。もちろんすぐに訂正しようとしました。でも、『私がかつて苛められっ子だったことはみんなに言わない欲しい。私のプライドを守って欲しい』と美紗に口止めされてしまって……。美紗、今会社で1人ぼっちなんです。すみません。美紗に辛い思いをさせてしまって、本当に申し訳ありません」
美紗のお母さんに追い打ちをかける様に、過去だけではなく、現在までも辛い状況にいる美紗の状態を話すと、涙が止まらなくなった美紗のお母さんが、またボックスからティッシュを数枚抜き取った。
「諦めなければいけないのは分かっているんです。結婚したくない美紗と無理矢理出来るわけがないことも分かっているんです。美紗を不幸にしたくない。美紗が幸せになれるのなら、引かなければいけないと分かっているんです。……知り合いに言われたんです。『アナタの両親が年老いて、認知症などを発症して介護が必要なる時がくるかもしれない。そういった症状が出た人間は、本心でなくとも暴言を吐くことがある。自分を虐め倒した人間の親の暴言に、美紗を晒せるのか?』って。俺、答えられなかったんです。結婚したい気持ちは変わらない。でも、美紗の幸せを願うのであれば、結婚はしてはいけないのかもしれません」
頭では全部分かっているのに、それでも美紗を失いたくない俺は、美紗のお母さんに反対されて、拒否されて、とどめを刺して欲しいのかもしれない。
「……美紗の幸せの為?」
ティッシュで目頭を押さえ、黙って俺の話を聞いていた美紗のお母さんが口を開いた。
「美紗、勇太くんのことが大好きなのに、結婚しないことが美紗の幸せなの? 美紗、勇太くんと付き合うことになった時、結婚が決まった時、物凄く嬉しそうに、幸せそうに私に報告してくれたのよ。私はあの子の親だから、いつでも美紗が可愛くて仕方がない。そんな美紗が、今まで見たこともない程の可愛い笑顔で話していたのよ。私も本当に嬉しかった。美紗は勇太くんを嫌いになって結婚を辞めようとしているわけじゃないじゃない。大好きだから勇太くんを守ろうとしているんじゃない。美紗はまた、アナタの妹のせいで不幸に追いやられるの? そんなのあんまりよ」
美紗のお母さんが丸めたティッシュを握りしめた。
「美紗の気持ちが離れているのなら、勇太くんにはこれ以上美紗に関わって欲しくない。だけど、そうじゃないじゃない。……例えば、美紗が崖から落ちそうになっていて、勇太くんが崖の上から何とか美紗を助けようと、美紗の手を握って引き揚げようとしているとするじゃない? 美紗ってね、勇太くんが力を振り絞る為にちょっと顔を顰めただけでも、『あぁ、辛いんだな。申し訳ないな』って思ってしまう子なのよ。『もういいよ、放していいよ』って言ってしまう子なの。自分のせいで苦しむ人の顔を見ていられないっていうか……。それが、大好きな人だったら尚更よね。美紗は昔からそうなの。私が仕事で疲れて帰ってくると『ごめんね、ありがとうね』って、頼んでもないのにマッサージしてくれる様な子なの。勇太くんには、美紗がどんなに『放していいよ』って言っても、それでも美紗の手を握っていて欲しい」
俺に強い視線を向ける、美紗のお母さん。
「……俺、美紗を虐めた人間の兄ですよ? それでも、美紗の手を握っていてもいいんですか?」
美紗のお母さんは、俺に嫌悪感はないのだろうか。
「確かに引っかかるわよ。美紗を虐めた女の兄って部分は。だけどね、私の大切な娘を『大好きだ』『素敵な人だ』って言ってくれる人を憎むなんてこと、私には出来ない。どうしたって嬉しいんだもの」
泣いていた美紗のお母さんが、俺に笑いかけてくれた。
そんな笑顔を見たら、何だか胸が熱くなって、今度は俺の目から涙が出てきてしまった。
「ちょっと、泣いてる場合じゃないでしょ‼ 早く美紗を崖の上に引き上げてやって。美紗の手、肩脱臼したくらいで放したりしたら怒るからね」
美紗のお母さんが笑いながら、ティッシュで俺の顔を拭いた。
「ありがとうございます。腕、引き千切れても美紗の手を掴んでいたいです」
泣いてしまった事が恥ずかしくて、無理矢理笑顔を作ると、
「うん。美紗のこと、どうか宜しくお願いします」
美紗のお母さんが俺の頭を撫でてくれた。
美紗のお母さんの手が、心が温かすぎて、やっぱり涙が溢れ出した。
--------美紗の実家からの帰り道、携帯を手に取り電話を掛けた。
『散々シカトしておいて、そっちから掛けてくるとは思わなかったわ。お兄ちゃん』
電話の相手は諸悪の根源、真琴。
「お前、美紗と和馬に恥かかされたからって、会社辞めたりしてないだろうな?」
真琴からのメールには『和馬と美紗が嫌がらせの様にやって来た』と書いてあった。2人はきっと、恋人同士を装って真琴の職場に行ったのだろう。
『あんなことをされて、みんなに可哀想で痛い人間扱いされて、本当は一刻も早く辞めてやりたいわよ。でも先月、鞄買うのにボーナス払いでカード切っちゃったから、辞めるに辞められないのよ。ホンットにタイミング悪いよね、お兄ちゃん。美紗を家に連れてくるなら、鞄買う前かボーナス出た後にして欲しかったわ‼』
相変わらず自分勝手な妹。ほとほと呆れる。
「真琴はいっつも人のせいだな。どうしたら直るの? その性格。ずっと、俺に支障が出なかったから見過ごしてきたけど、それがいけなかったんだな。今物凄く後悔してるわ。猛省ってこういうことをいうんだな」
どうしても嫌味を言わなければ気が済まず、本題の前に憎しみの言葉を前置くと、
『は? 喧嘩売る為に電話してきたの?』
電話の向こうで『チッ』と真琴が舌打ちをした。
「イヤ。ちょっと真琴に聞きたいことがあるんだけど……」
意味のないことをしているのかもしれないが、じっとしていられなかった。
真琴を避けている場合ではない。
美紗の手を、握りたい。