協力し合う共謀者。
「美紗ちゃーん。真琴のお兄さんにちょっと話聞いてたから、美紗ちゃんの魂胆はだいたい分かってるけど、酷くない? 会社の人たちに俺のこと、【美紗ちゃんの浮気相手】に見せかけたでしょ? 別に美紗ちゃんの会社に知り合いいないからいいけどさー、全然知らない人間に俺まで悪者扱いされるのもちょっとねー」
私に腕を組まれながら……というか引っ張られながら歩く日下さんが、隣で口を尖らせた。
「すみませんでした。本当にごめんなさい。私の思い付きの寸劇に付き合ってくれてありがとうございました。日下さんがいてくれたおかげで、嘘に説得力が出せました。……なんでウチの会社にいたんですか?」
しばらく歩き、会社からだいぶ離れた為、しっかりつかんでいた日下さんの腕を解放する。
日下さんから手を放した途端に、急に恥ずかしさが湧き出てきた。
私は、肉食女子でもなければ、自分から告白をしたこともないチキンな人間だ。
恥ずかしがり屋という可愛い類の人間ではなく、振られて辛い思いをしたくないという、ただただ逃げ腰の人間。
日下さんにおんぶをしてもらった時は、体調不良と逃げたい一心でそんなことを感じる余裕もなかったけれど、少し冷静な時に勇太くんではない男性に触れるのは、緊張と照れと、もう感じる必要もない罪悪感を伴った。
「美紗ちゃん、彼氏と会社で出会ったって言ってたっしょ。前に真琴が『和馬の会社、お兄ちゃんの職場の近くなんだー』って社名言ってて、たまたま覚えてたんだよね。で、美紗ちゃんの様子を見にきてみたら、こんなことに……」
日下さんの意地悪な視線が刺さる。
「本当に申し訳ないです」
頭を下げるという謝罪を口実に、突き刺さる視線を回避する。
「なーんか、大々的に大嘘吐いてるんだってね、美紗ちゃん。今のところバレてないらしいじゃん。女優だねー」
視線を合わせようとしない私の肩を、日下さんが人差指でツンツンと突いた。
「容姿的に女優は無理です。私はただのペテン師です。……全員纏めて騙せるなら良かったんですけどね。1人……佐藤さんだけが私の嘘を知ってるから大変。佐藤さんが変に動いて私の嘘を覆したりしないかヒヤヒヤしてます」
肩にボタンでもあったのだろうか。日下さんの指に押されて、スイッチが入ったのか切れたのか、ふいに本音が零れた。
会社ではずっと気を張っていた。
会社の人間ではない、私の事情を知っている日下さんと、何となく話をしたくなった。
「何か変な感じだよね、美紗ちゃんと佐藤さん。お互いがお互いを想って行動してるのに、お互いがお互いの意図とは正反対のことをしてるんだもん」
私を見て呆れた様に笑う日下さん。
「佐藤さん、優しいから……」
勇太くんの優しさを少し厄介に感じながらも、あっさり破談を受け入れられたらそれはそれで悲しかったはずで。私は勇太くんのことよりも、自分の気持ちに矛盾だらけの私自身に1番手を焼いていて悩んでいるのかもしれない。
結婚したいのに、したくない。勇太くんの優しさを、拒否しながらも嬉しく思っていたり。
こんな私の思考を見透かしているから、日下さんは呆れているのかもしれない。
「美紗ちゃんの嘘だって、佐藤さんへの優しさからでしょ?」
そんな日下さんの言葉に、目頭が熱くなった。
こんな時に、自分を汲み取ってくれる存在が有難かった。
「……自分のことを分かってくれる人がいるって、いいですね。救われます」
「じゃあ、俺のことも救ってくれない?」
日下さんの一言に、目頭は一気に冷え込み、眼球はカラカラに乾いた。
この人は何を言いだしているのだろう。今の私に何をしろと言うのだろう。
「……え?」
戸惑う私などお構いなしに、
「ハイ、腕組み直す‼ ハイ、この横断歩道渡る‼」
日下さんは勝手に私の手を取り、自分の腕に通すと、私を連れて何の用事もない方向へと歩き出した。
「ちょっと待ってください‼ どこに行くんですか?」
ズンズン歩く日下さんに若干引っ張られ気味になり、歩きながら足が縺れそうになる。
「行先言って逃げられたら嫌だから秘密ー。あ、さっき自分からやっておいて俺と腕組むのが嫌とか言うのもナシね」
日下さんがガッチリ脇を締め、私の腕を挟み込んだ。
「『逃げる』って……。という事は、あまり楽しい場所ではないということですね? さっき助けてもらいましたし、私に出来ることなら協力しますよ」
「さすが察しが良いね、美紗ちゃん。『楽しい場所じゃない』っていうか……聞こえはおそらく悪い。でも、結果スッとする所」
私に逃げる意志がないことが分かった日下さんは、歩く速度を緩め、私に歩調を合わせた。
聞こえは悪いのにスッとする場所……どこだろう。
横断歩道を渡りきり、2・3分歩くと、
「ハイ、ココ」
日下さんが足を止めた。
「え?」
立ち止まったその先にあったのは、ビルの1階に店を構えた旅行会社だった。
確かにどこかに旅が出来たら気分はスッとするだろう。でも、全然聞こえは悪くない。むしろ、楽しそうな響きだ。
首を傾げながら日下さんを見上げると、
「ココ、真琴の職場」
日下さんの口から、耳栓をしたくなるような耳障りの悪い言葉が飛び出した。
「……なんでですか? 日下さん」
声が震えて掠れる。喉の奥が『ヒッ』と鳴った。危ないかもしれない。真琴ちゃんと対面してしまったら、また呼吸が乱れてしまうかもしれない。
「俺、もうノイローゼになりそうでさ」
日下さんがポケットから携帯を取り出し、「見てよ」と私に手渡した。
着信の履歴には【真琴】の名前が連続で長蛇の列を作っていた。
何度指を動かし、画面を下にスクロールしようとも、出てくる名前は【真琴】。
「真琴に美紗ちゃんから聞いた話、確認した。美紗ちゃんが言っていた通りだった。この前、美紗ちゃんの気持ちも知らないで言いたい放題言ってごめんね。理屈で説明出来ないことってあるんだね。俺、真琴とはもう無理だなって思って別れを切り出したら……こうなったよね。着拒とかLINEブロックも考えたんだけどさー、逆効果になりそうじゃん。『連絡取れないから来ちゃった』とか言われて家の前で待ち伏せとか怖いし。真琴から着信があるうちはまだ次の行動に移っていないわけで。だったらこっちが先に行動起こさないと……ということで、美紗ちゃんも俺の嘘に付き合って‼」
日下さんが「お願い‼」と私に向かって両手を合わせた。
日下さんを自分の嘘に巻き込んでおいて、断れるわけがなかった。
日下さん、本気で困っている様に見えるし。
「……分かりました。でも、呼吸がヤバイかもです。危なくなったら助けてください。それで、どんな嘘を吐くんですか?」
「説明すると長くなるから全部俺に任せて。身体、無理だったら無理ってちゃんと言ってね。スッと背中差し出すからサッと乗ってね。そしたら速やかに走り出すから」
走る準備なのか、日下さんが地面につま先をつけながら足首をほぐしだした。
「……またおんぶする気ですか?」
「YES‼ やる気満々‼」
日下さんが屈伸まで始めてしまうから、過呼吸だけは絶対に起こさない様に細心の注意を払おうと心に決めた。
「じゃあ、行きましょうか。あ、美紗ちゃん。ここからは俺のことは【和馬】って呼んでね。さっきまで俺は美紗ちゃんの【浮気相手】だったけど、今からは美紗ちゃんの【今カレ】なので」
日下さんが腰に手を当て、腕と横腹の間に空洞を作った。
「私は日下さん……和馬さんの今カノということですね。了解です」
日下さんの作った空間に自分の腕を通し、腕を組み直す。
「演じ切ってね、女優兼ペテン師美紗ちゃん」
「自分だってこれから嘘吐くくせに。俳優兼詐欺師な和馬さん」
2人で顔を見合わせ笑い合い、入り口の自動ドアに向かおうとした時、
「良かった、今日も美紗ちゃんの笑顔が見れて。やっぱ、笑ってる美紗ちゃんは凄く可愛い。大好き」
日下さんと私の恋人設定は店内に入る前から始まっていたらしく、日下さんが胸キュン台詞を放出した。
彼氏じゃなくとも、そんな事言われたら嬉しいに決まっているわけで。
「……もう【今カノ】設定始まっていたんですね」
嘘で喜んでいる事に気付かれたくなくて、照れ隠しにそっけない返事をした。
「まだ始まってない‼ いざ‼」
日下さんが、折角隠した照れを引っ張り出し、顔を真っ赤にしただろう私を連れて遂に店内に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませー」
カウンターにいた女性が元気よく挨拶をしながらお辞儀をした。
顔を上げた女性は、私たちを見て目を見開き、顔を引き攣らせた。
真琴ちゃんだった。
真琴ちゃんの背後では、スタッフの人たちが何やらザワついき始めた。
……もしや。
「……もしかして、ここのスタッフのみなさん、日下さんが真琴ちゃんの元カレって知ってたりします?」
小声で日下さんに耳打ちすると、
「うん。真琴とこの会社のツアーに申し込んだことあるしね」
日下さんはコソコソする事もなく、シレっと答えた。
「……なかなかエグイことを考えますね」
日下さんの本当の思惑が見えた気がした。
日下さんの新しい彼女が私だってこと自体、真琴ちゃんにとっては屈辱なのに、日下さんはそれを周知の事実にして、真琴ちゃんに自分のことを諦めさせようとしているのだろう。
「面白くなってきたでしょ?」
日下さんは不敵に笑うけど、私は今の状態を楽しめる程肝は座っておらず、かといって引き返せる状況でもない為『そうですね』とは言えずに日下さんの腕をぎゅうっと握った。
「あのー、今度彼女と初めて旅行に行こうと思ってるんですけど、何かいい場所を紹介してもらえませんか?」
たくさんカウンターはあるというのに、日下さんは腕にしがみ付く私を連れて真琴ちゃんのカウンターを目がけて歩き出し、真琴ちゃんに話しかけた。
気配で真琴ちゃんが私の方を見ているのが分かる。
でも、怖くて真琴ちゃんの顔など見られない。
兄の婚約者に彼氏を取られるなんて……考えただけで気が狂いそう。
日下さんの言った通り、この嘘は本当に面白くなるのだろうか。
今のところ、苦しくて心臓が痛いだけなんですけど。
「……どうぞお掛け下さい。旅行は、国内・海外どちらをご希望ですか?」
さっきの『いらっしゃいませ』より明らかに声のトーンが低い真琴ちゃんが、右手を差し出して私たちに椅子に座る様促した。
「美紗ちゃん、どうぞ」
日下さんが【私のことが大好きなジェントルマン彼氏】を装い、私の為に椅子を引いた。
当て付けでしかない日下さんの振る舞い。
この前まで大好きだったはずの真琴ちゃんにこんなことが出来てしまうほどに、日下さんにとって真琴ちゃんの電話はしつこく苦痛だったのだろう。
日下さんが私に優しくすればするほどに、真琴ちゃんの怒りは私に向くだろう。
怖くて怖くてどうすれば良いのか分からない。
ただ、この場を乗りきらなければいけないことだけは分かっている。だから、必死で日下さんの彼女を演じる。
「ありがとう。和馬さん」
が、そもそも女優ではない為、半泣きのどうしようもない顔をしながら椅子に座り、日下さんを見上げた。
そんな私に半笑いの日下さんは、
「どういたしまして」
と私の頭をポンポンと撫でた。
この【頭ポンポン】は、【頑張って】を意味していたと思うが、傍から見たら【絶好調のラブラブカップル】に見えるだろう。更に、日下さんはそれを分かっていてわざとやったに違いない。だって、さっきから日下さんの口角が上がっているから。日下さんは、女子並になかなかあざとい。
日下さんと私が肩を並べてカウンターを挟み、真琴ちゃんと向かい合って座る。それを他のスタッフが興味津々にチラ見を繰り返す。他人事なら面白がって眺めたいだろうこの状態は、当事者には相当な心労。だって……、
「国内でいいんですけどね、ちょっと豪華な感じの旅行をプレゼントしたいんですよ。実は最近元カノからの電話が鳴りやまなくて、彼女に嫌な想いをさせちゃってまして……」
早速日下さんがぶっ込むから。日下さんの暗に【迷惑です】の意を込めた言葉は、周りのスタッフに『あぁ、佐藤さんは元彼にしつこく付きまとっているんだな』という印象を付けただろう。
もう、冷や汗が止まらない。中学時代に私に向けた悪意の表情をしているんじゃないかと思うと、未だに真琴ちゃんの顔を直視出来ない。
「……」
接客業なのに何も喋らない真琴ちゃん。
日下さん、さすがにやりすぎなんじゃ……。
気まずくて、何か話題を振ろうと周りを見回す。
近くにラックがある事に気付き、そこにあった数多くのリーフレットの中から適当に1枚引き抜いた。豪華海鮮料理を目玉にした温泉旅館のリーフレットだった。
「お……温泉‼ いいですよね、温泉‼ 至れり尽くせり上げ膳据え膳‼ か……蟹‼ ほじるの楽しいですよねー‼ 無心になるっていうか……」
日下さんの傍に「見てください‼」とそのリーフレットを置くと、
「ココ、イイね‼ 貸し切り露天風呂があるよ‼ 一緒に入ろうね、美紗ちゃん♬」
日下さんは私の意図とは真逆に、ノリノリに悪ノリした。
違うのよ、日下さん。そうじゃないのよ。今のは『いい天気ですねー』と同等の会話繋ぎだったのよ。
『日下さんのアホ‼』という念を黒目に込め、日下さんに視線で訴えると、日下さんが『真琴ちゃんの方を見てみ?』とでも言いたげに顎をクイッと動かした。
ドSなのか、この男。そんなの無理に決まってるでしょうが。
断固拒否とばかりに、日下さんの方を見ることさえやめた。
真琴ちゃんの視線も、お店のスタッフさんたちの視線も、日下さんの視線も嫌で、私の視線のやり場はもう、木目調のカウンターテーブルの木の年輪くらいしかなかった。
俯きながら年輪の数を数え始めた私の顔を、日下さんがいきなり掴んだ。
「見てくださいよ、俺の彼女。可愛いっしょ?」
そしてそのまま私の顔を真琴ちゃんの方に向けた。
心の準備なく、真琴ちゃんと目が合ってしまった。
呼吸が……乱れなかった。
目の前にあった真琴ちゃんの顔は、どう見ても怒気を孕んでいたけれど、物凄く悔しそうだったから。
日下さんの言っていた通りだ。
自分を散々虐め倒していた人間の血涙を絞る様な表情に、何かスッとした。
日下さんの目的も果たせたし、私の無念も少し晴れた。
あとは適当に旅館のパンフレットを貰って『じゃあ、家に帰って検討しまーす』で店を出てしまえば良い。
それまでキッチリペテン師をやりきろう。
「突然変な同意を求めないでくださいよ。店員さん、困ってるじゃないですか。すみません。あの、いくつかお勧めの旅館のパンフレットを頂けませんか? 持ち帰ってゆっくり選びたいので」
真琴ちゃんへの嫌悪感は消えないものの、日下さんのおかげで恐怖感は薄まり、自ら真琴ちゃんに話しかけた。
「……こちらが人気の旅館になります」
真琴ちゃんが、頬の筋肉をピクピクさせながらテーブルの上にパンフレットを数枚並べた。
それを手に取り、
「ありがとうございます」
『じゃあ、帰りましょう』と日下さんに目くばせすると、
「来月予約取れる旅館はこの中にありますか?」
日下さんは私の手からパンフレットを抜き取り、真琴ちゃんと話を続けた。
「金・土曜日ですと、お日にちによって予約がいっぱいの日もございますが、平日であれば概ねどちらの旅館も大丈夫だと思いますが……」
私たちに言いたいことがあるだろうに、仕事中の真琴ちゃんは滅多なことを言えるわけもなく、日下さんに聞かれた事に業務的に答えた。
「だってさ。ねぇ、美紗ちゃんがさっき見せてくれたリーフレットの旅館にしない? 美紗ちゃん、来月有給取ってよ。来月、3週目とかなら取りやすくない? 月末月初って何かと忙しいだろうからさ。週の真ん中、水曜日とか。どう?」
真琴ちゃんに予約状況を確認した日下さんが、具体的にスケジュールを組み私の予定を伺った。
「え?」
何を言いだしているんだ、日下さん。旅行会社に来ておいて何だけど、私たちがココに来た理由は旅行の予約ではないはずだ。本当に予約をしてどうするんだ、日下さん‼
日下さんの思惑が分からず、自分の思考ともかけ離れている現状に、どう返事をするのが正しいのか迷い硬直していると、
「来月3週目の水曜日、予約入れてください」
日下さんは『コイツ、使えねぇな』と思ったのか、私の返答を待たずに話を進めた。
「……かしこまりました」
真琴ちゃんがパソコンのキーボードを叩き、旅館の予約を取る。
その間、日下さんは鞄に手を突っ込み、財布を取り出した。
そして、財布からクレジットカードを引き抜くと、真琴ちゃんに手渡した。
日下さんが、旅館を予約し精算までしてしまった。
困惑の眼差しで日下さんを見つめると、日下さんはニコっと笑い、また私の頭をポンポンと撫でた。
……分からない。この【頭ポンポン】の意味が全く分からない。
が、この頭ポンポンによって真琴ちゃんの表情は一層険しくなり、スタッフさんたちは『佐藤さん、悲惨』と言いた気な空気を醸し出していた。
そんな周りの反応に満足そうに笑う日下さん。鬼畜。
しかし、私にこの状態を楽しむ余裕はなかった。だって、日下さんが何をどうしたいのかがサッパリ分からないから。
結局、訳が分からないまま店を後にすることに。
取りあえず日下さんと腕を組み、最後までしっかりカップルを演じながら店の外へ。
少し歩き、真琴ちゃんのお店が見えなくなった所で、日下さんの腕から手を放した。
「何で旅館の予約しちゃったんですか? 『1回持ち帰って2人で話し合います』って言って帰ってしまえば良かったじゃないですか。誰と行くんですか? あビックリ もしかして真琴ちゃんと付き合ってる最中に他にも女がいたとかですか? なんか怖い‼ 日下さん、怖い‼ 裏の顔が怖すぎる‼」
真琴ちゃんへの嘘を吐き終わり、やっと自由に話すことが出来る。思ったことを素直に口にすると、
「だったら、わざわざ美紗ちゃんに嘘吐かせる様なことしないで初めからその子連れて来るっつーの。そんな女いねぇわ、失礼な。俺はそんなに浮ついた男じゃねーわ。謝って。傷付いた。深く傷ついたから丁重に謝って」
日下さんに頭部の分け目をチョップされながら謝罪を要求された。
「多大なるご無礼、大変申し訳ありませんでした。……でも、じゃあなんでですか?」
丁重に謝れと言われた為、堅めの日本語をチョイスして、あまり謝意のないお詫びを申し上げてみる。だってそもそも日下さんの行動に問題がある。金銭を要する嘘は、私的にいただけない。
「美紗ちゃんさぁ、しんどいんじゃないの? 会社」
ちゃんと……ではないが一応謝ったというのに、日下さんは私の『なんで』に答えてくれず、逆に今関係ないだろう質問を返してきた。
「今そんな話してないじゃないですか。私の質問に答えてくださいよ」
なので話を戻す。
「なんでって、美紗ちゃんと行きたいなーって思ったからに決まってるじゃん。美紗ちゃん、辛そうだからさ。至れり尽くせり上げ膳据え膳海鮮三昧で、美紗ちゃんがその時だけでも楽しい気持ちになれればいいなと思ったんだよ。ストレスはお肌に出るよー。温泉に使ってしっとりスベスベになればいいじゃん。だから行こうよ、美紗ちゃん」
日下さんが私に顔を寄せ、私のお肌のコンディションをまじまじと見た。
「顔近‼ じっくり見ないでくださいよ‼ ていうか、行きませんよ。彼氏でもない人と2人で温泉とか……有り得ないでしょ。日下さんも、何を彼女でもない女を軽いノリで温泉に誘ってるんですか‼ 充分浮ついてますよ‼」
両手で顔を隠しながら日下さんに抗議。
「軽いノリの方が来やすいかなーと思っただけ。ノリは軽いけど、美紗ちゃんに手出したりしないから大丈夫だよ。出したくないって言ったら完全なる嘘だけど、傷ついている人の傷を更に広げたいわけないでしょ? 丁度俺も今、やや憔悴中だし、2人で気晴らし出来たらいいなってさ」
日下さんが「行こうよ行こうよ」と私の腕を揺すった。
「別に日下さんが私に手を出してきそうだなんて思ってませんよ。自分に男性をそそる様な要素はないって分かってますから、そんな自意識過剰なことは考えていません。ただ、どう考えても世間一般的に、付き合っていない男女が温泉に行くのはおかしいですって。と、言うことで行きません」
自分の腕から日下さんの手を下ろす。
「お堅いね。美紗ちゃん」
日下さんが唇を尖らせた。
「日下さんに下心がないことは分かってるんですけど、私、頭でっかちなんですよ。日下さん、折角気を遣ってくれたのにすみません」
自分でも、もう少し柔軟に物事を考えられたら……と、いつも思う。開き直れたら……と、思う。
私にはあるんだ。日下さんにはない【下心】が。自分から勇太くんを避けておいて、勇太くんに【尻軽女】と思われたくないという下心が。尻軽と思われようが、そうでなかろうが、事態は変わらないのに。だったら日下さんと温泉に行ってしまえばいいのに。分かっているのに、意地汚い思考が私の足を止める。
「じゃあ、とりあえず保留しとくよ。気が変わったら連絡して」
日下さんが、画面にLINEアドレスのQRコードを映した携帯を私に向けた。
『連絡先を交換しよう』ということなのだろう。
温泉はまだしも連絡先の交換を断る理由はない。それを拒んでしまっては【自分は狙われていると激しい勘違いを起こしている痛々しい女】でしかない。
「変わらないと思いますよ」
鞄から自分の携帯を取り出し、日下さんの連絡先を読み取った。
勇太くんと付き合って以来、会社の人間以外の男性と連絡先を交換したのは初めてだった。
フリーの状態での異性との連絡先の交換に、こんなに切なくなったことは今までなかった。
いつもはもっと、変な期待とドキドキ感があったのに。
お互いのLINEにIDが登録された事を確認すると、
「美紗ちゃん、お腹空かない? 何か食べに行こうよ」
日下さんに食事に誘われた。
「すみません。今日は体力的にちょっと……」
1日中嘘を吐き続け、神経が磨り減りすぎて、一刻も早く帰宅してお風呂に入って寝てしまいたいと思った。
疲労困憊をいい事に、嫌な事や不安な事を考えないで眠ってしまいたい。
起きていると、色々考えてしまうから。
どうにもならないのに、怒りや悔しさや悲しさで、泣いてしまうと思うから。
「そっか。残念。食事のお誘いまで断られるとさすがに辛ーい。でも、美紗ちゃんが楽しくなさそうに食べてる姿見るのも切ないから、今日は帰ろっか。送る?」
悉くそっけない態度の私に、それでも優しく接してくれる日下さん。
真琴ちゃんが日下さんを好きになった理由が分かった気がした。
「大丈夫です。1人で帰れます。あ、日下さんに送ってもらうのが嫌とかじゃないですよ‼ 本当に1人で帰れるので。普通に大人なので。あの、今日、ありがとうございました」
余りにも避けすぎている自分の態度が、日下さんを嫌っているように見えている様に思えて、変な誤解をされたくなくて先周りをして弁解をする。
「送らせてもくれないー。本当に嫌じゃないの? 俺のこと。てか、何の『ありがとう』だよー」
日下さんが困った様に笑った。
「本当に嫌じゃないですから‼ 自分で出来ることを人に甘えるのが嫌なんです。中学の時に苛めに遭ってから、他人から嫌われるのが怖くて……。誰かの負担になって嫌われる様な事は避けたいんですよ。『ありがとう』は、真琴ちゃんの悔しそうな顔を見させてくれて『ありがとう』です。私、超性格悪いですよね。でも、スッとしたんです。あの頃の仕返ししてやった‼ って気になったんです」
日下さんに『ニイ』と笑い返す私の顔は、どれだけ意地悪な表情をしているだろう。
「俺、美紗ちゃんの性格好きだよ。それに【真琴への仕返し】が目的で、美紗ちゃんをあそこに連れて行ったんだから、達成出来て何よりだよ。俺、美紗ちゃんの考え方も好きだけど、ちょっと損してるから教えておくね。男が【甘え】を誘導している時は素直に甘えるのが正解だよ。だって、甘えて欲しくて誘導してるんだから。誘導していないのにも関わらず甘えるのは完全に不正解だけど。つーか、嫌われるのが怖いとか言っておいて、今職場で嫌われ役買って出てるんでしょ?」
日下さんが意地悪な笑顔を返してきた。
「佐藤さんを守る為です。佐藤さんが嫌な想いをする方が辛いから。だったら、自分が悲劇のヒロインにでもなったつもりで酔っている方が楽なんです」
言いながら情けなくなって、さもしい自分が嫌になる。
「美紗ちゃんってさ、計算し尽して嘘吐くくせに、大事なところで計算しないよね。今の、『佐藤さんが嫌な想いをする方が辛いから』までで良かったのに。それ以後の言葉、いらないから。普通の計算出来る女子は言わないから。どうして余計な本心言って、自分のことを下げちゃうかな」
日下さんがしょっぱい顔で笑いながら、「バカだなぁ」と私の頭を撫でた。
『バカだなぁ』と言われているというのに、本当にバカな私は『イイ子イイ子』されている様な気分になって、何だか泣きたくなってきた。
ここで泣いたら、優しい日下さんはきっと慰めてくれるだろう。
日下さんに縋ってしまいたい気持ちもある。だけど、私は【嘘】は【嘘】のままにしたいんだ。嘘を本当にしたくない。
今日のことが何かの拍子に勇太くんの耳に入ったとしても、私は勇太くんに【他の男に泣きついたりしない女】だと思われたいんだ。
結婚出来なくとも、【私は勇太くんの事が大好きだったんだ】という気持ちを、どうにかして勇太くんの心の中に留まらせたいんだ。
日下さんは私の事を『大事なところで計算しない』と言ったけれど、ちゃんとしている。私は性悪だから、この本心は口に出さない。
「日下さん、お腹空いてるんですよね? そろそろ解散しましょう」
込み上げる涙を鼻水と一緒に啜り上げ、日下さんを見上げる。
「強がっちゃって。今日の強がりアピールはなかなか良いよ。涙目な感じ、グっとくるわー。でも、美紗ちゃんって単純じゃないからなー。今の美紗ちゃんに『俺の前で強がるなよ』って多分的外れでしょ? 勘違い男になりたくないから、今日は帰るわ。美紗ちゃんも気を付けて帰るんだよ。辺り暗いから」
日下さんが、私の頭を撫でていた手をヒラヒラと横に振った。
「日下さんも。気を付けて帰ってくださいね」
日下さんに手を振り返し、日下さんと別れた。
1人になり、安堵からなのか溜息なのか、ふいに「はぁ」と小さな息が漏れた。
兎に角疲れた。
張りつめていた気持ちが緩まったからなのか、涙が零れだす。
あれこれ考えて泣かない様に早く帰って寝たいのに、アパートに辿り着くまでに泣いてしまった。
「……辛いよ、勇太くん」
この悲しさから、苦しさから、いつになったら解放されるのだろう。
どのくらいの時間が経てば、勇太くんと過ごした日々を昔話に変えられるのだろう。
家路を号泣しながら歩けるほど、私は大人気のない大人ではない為、とめどなく出てきてしまう涙をどうにかしようと、鞄からウォークマンを取り出し、イヤホンを両耳に突っ込んだ。
無理矢理気分を切り替えようと、疾走感溢れるロックを大音量で耳に、脳に送り込む。
音楽でも騙しきれないやりきれなさを、それでも騙されたふりを決め込み、なんとかアパートに着き、部屋のドアを開けた瞬間に泣き崩れた。
自分の気持ちを自分で騙すなんて器用なことは、不器用な私には相当に難しかった。
玄関でひとしきり泣き、少し落ち着きを取り戻すと、お風呂に行って熱めのシャワーを浴びる。お風呂から上がり、ドラーヤーで髪を乾かすと、そのままベッドへ倒れ込んだ。
泣き疲れていた為、目を閉じるとすぐに深い眠りへ。
そして疲れも取れぬまま、あっと言う間に朝が来た。
また、1日が始まった。
勇太くんを好きになってから、会社に行くのが楽しみで仕方なかった。
会社に行きたくなかったことなんか、1度もなかったのに。
仕事で嫌なことがあろうとも、そんなことよりも勇太くんに会いたかった。
それなのに、今となっては何を置いても勇太くんに会いたくない。
結婚出来ないのに、どうしても目で追ってしまうから。
それでも会社に行かなければならない。
休んだりしたら、私のいない間に勇太くんが余計な行動をして私を庇い兼ねない。
私との結婚を願ってくれる勇太くんの気持ちを無碍にする、私に出来る償いは、勇太くんの立場を守ることくらいしかない。
真琴ちゃんのことを気にせずに結婚出来たらどんなに良いだろう。
だけど心の狭い私は、脳裏にこびり付いたあの日々を、恐怖を、赦すことが出来ない。
「……よし、会社行こう」
自分を奮い立たせ、出社準備をしてアパートを出た。
会社に着くと、社内の私への視線は昨日より更に冷たいものになっていた。
当然だ。結婚破棄をした挙句、浮気相手に会社まで迎えに来てもらう様な女を良く思う人間などいるはずがない。
これでいい。悪者のまま退職すれば全部終わり。
あとは後任を待つだけ。この苦しさも、もう少しの辛抱だ。
周りからのシカトと陰口を堪えながら、1人デスクで黙々と後任の方の為の資料を作成していると、
「木原さん、今ちょっとだけいい? 会議室に来られる?」
部長に声を掛けられた。
「はい。大丈夫です」
立ち上がり、部長の後を追って会議室へ。
テーブルを挟み、部長と向かい合って座ると、部長が口を開いた。
「木原さん、ごめーん。ちょっとまだ後任の子が見つからなくて。もう少し時間かかるかもー」
困り顔をして、すまなそうに両手を合わせながらペコっと頭を下げる部長。
「謝らないでください‼ 急な申し出をした私が悪いんですから‼」
正直、部長に呼ばれたのは後任が決まったからだと思った。
ガッカリはしたけれど、部長が悪いわけでは全くもってない。謝ってもらう筋合いがない。慌てて「頭上げてください」と部長の謝罪を止めた。
「部長なんて役職付けておいて、仕事が遅いくそジジイだなって思ったよね? ごめんねー。その通りだよー。俺がもたもたしている間に気が変わったら、いつでも言ってねー。無理に辞めることないんだよー。木原さんがいなるの、淋しいし困るしー。もう、辞めるのやめない?」
部長は【部長】というだけあって、多くの仕事を抱えている。私の後任探しをしている場合ではないのだろう。そうとは言わずに『淋しいし困る』という表現をしてくれる部長の優しさに、それでも『早く辞めたい』などと言う気にはならなかった。
「辞めるのをやめることは出来ませんが、私のことは後回しで構いませんから。お忙しいのに私事で迷惑をお掛けして申し訳ありません。私のことは気にせずに、部長は仕事に戻って下さい」
会議室のドアを開け、部長に退室を促すと、「本当にゴメンねー。俺のこと、嫌いにならないでねー」と言いながら、部長は自分の席に戻って行った。
正直、辛くて辛くて仕方がないのに、部長の愛くるしいキャラにちょっと癒され、ふと笑いが零れた。そしてそれが溜息の様な吐息に変わる。
『もう少しの辛抱』が、もう少しではなくなってしまった。
自分で蒔いた種とはいえ、これからもこんな辛い日々が続くなんて……。
心が折れそうになる自分に、「今までもっと辛いことがあったじゃないか」「中学3年間、耐えられたでしょうが」と喝を入れ、強引に心を立て直し、私も自分のデスクに戻った。
パソコンのキーボードを叩きながら、いつになるのか分からない引き継ぎの資料作りを再開していると、
「木原さん、プレゼン資料作り手伝ってもらえる?」
頭上から、聞くだけで涙が出てきそうな声が聞こえた。
動揺しそうな自分を必死で抑え、
「はい。もちろんです」
平静を装い、なんなら笑顔さえ作って、その声の主である勇太くんに返事をした。
仕事は仕事。きっちりやる。
だって、これは勇太くんの優しさだ。
婚約破棄をした私と、今まで通りに仕事をしてくれる優しい勇太くん。
嬉しい。有難い。だから余計に辛い。でもだからこそ、頑張ってやり切りたい。
立ち上がり、勇太くんと一緒に勇太くんのデスクに移動しようとした時、
「それ、私がやりますよ。もう少しで手が空きますから」
私の隣のデスクの小田ちゃんが、勇太くんの腕を掴んだ。
「ありがとう。でも大丈夫だよ。木原さんには、前にもプレゼン資料作りの手伝いをしてもらったことがあるから、前の資料見ながら木原さんにやってもらった方が多分早い」
勇太くんが、自分の腕を握っている小田ちゃんの手をそっと下ろした。
「2人共気まずいだろうから気を利かせてあげたのに。美紗に仕事を頼める程に立ち直れるまで、昨日散々慰めてやったのは誰だと思ってるんですかね、佐藤さんはー」
小田ちゃんが唇を尖らせ勇太くんに意味深な目配せをした。
「その言い方、誤解を招き易いからやめてくれない?」
勇太くんの表情が曇る。
「誤解って? 事実そのままじゃないですか。私の肩に頭乗っけて甘えてきたの、佐藤さんじゃないですか」
そう言いながら、小田ちゃんが少し意地悪な笑顔を私に向けた。
……そうか。勇太くんが平常通り私と仕事をしてくれる気になったのは、小田ちゃんに慰めてもらったからなのか。
小田ちゃんは、私が勇太くんと付き合う前から勇太くんのことが好きだった。のだと思う。直接本人から聞いていないから確証はないけれど、見ていれば分かった。分かっていたから、敢えて聞かなかった。だって、私も勇太くんが好きだったから。小田ちゃんに『勇太くんのことが好きだ』という事実を聞かされてしまったら、応援せざるを得なくなりそうで。
この会社で1番仲の良い小田ちゃんに譲れないほどに、私は勇太くんのことが大好きだった。
私と勇太くんと付き合うことになった時、複雑な気持ちだったはずなのに「良かったね」と言ってくれた優しい小田ちゃん。
勇太くんに酷いことをしている私を許せなくて当然だ。
小田ちゃんは、今も勇太くんを好きなのかもしれない。
勇太くんは、勇太くんを想ってくれている小田ちゃんと付き合った方が幸せなのかもしれない。
頭では分かっているのに、心が納得していない。
なんて自分勝手なのだろう。
でも、やっぱり嫌だ。
小田ちゃんが嫌なんじゃない。勇太くんが、他の誰かと付き合うことが嫌なんだ。
結婚出来ないくせに。
小田ちゃんに甘えた勇太くんを咎めることも出来ないくせに。そんな資格ないくせに。
昨日、勇太くんは小田ちゃんにどんな風に甘えたのだろう。 小田ちゃんは、どう慰めたのだろう。
勇太くんの言った『その言い方、誤解を招きかねないからやめてくれない?』はどういう意味なのだろう。
身体を重ねて慰めてもらったわけではないと言いたいのか。逆に、すぐにそんな関係になったことが社内に広がっては心象悪いからなのか。
慰める……大人の言う【慰める】は、きっと……そういうことなんだろうな。
さっき堪えた涙が、瞬きをしたら零れてしまうだろうところまで嵩を増した。
「……じゃあ、小田ちゃんお願い」
涙を零してしまわぬ様に、トイレに駆け込もうとこの場を離れようとした時、
「ちょっと待ってよ。俺は木原さんに頼んだんだけど」
勇太くんが私の二の腕を掴んだ。
「私じゃなくても資料作りは出来るので。もし、人手が足りない様なら声を掛けてください。お手伝いしますから。……私、ちょっとお手洗いに……。すみません」
ここで泣いてはいけない。涙を見せて【みんなにシカトされて、仕事さえさせてもらえない可哀想な人】になって憐憫の情を稼ぐ様な真似はしたくない。徹底的に悪者になって、勇太くんにこそ同情票を集めたい。
でも辛い。
私の腕を掴む勇太くんを振り切り、トイレまで走った。
トイレの個室に逃げ込み、鍵をかけると、堰を切ったかの様に涙が溢れ出した。
このやり場のない辛さを、悲しみを、苛立ちを、どうしたら良いのだろう。
ぐしゃぐしゃになった顔を拭こうとトイレットペーパーを握りしめた時、
『良く踏ん張ったね。 偉かったね』
ちょっと前に掛けられた、日下さんの優しい言葉をふと思い出した。
「……助けて。 日下さん」
悪者でいい。悪者でいなければいけない。これでいい。だけど、自分を肯定してくれる誰かに縋りたかった。このままでは自分が崩れてしまいそうだから。崩れてしまっては、勇太くんを守れない。
ポケットから携帯を取り出し、日下さんのアドレスをタップする。
1コール鳴ったところで我に返り、慌てて終話ボタンを押した。
自分が辛いからって、何をのうのうと日下さんに寄りかかろうとしているのだろう。日下さんの迷惑を全く考えずに、何をしているのだろう。
日下さんだって仕事中のはずなのに。
ポケットにしまおうとしていた携帯が、手の中で震えた。
画面には【日下さん】の表示。
律儀な日下さんが、掛けなおしてきた。
電話をしてしまったことを謝ろうと、通話ボタンを押して耳に当てる。
『てか、ワン切りて』
仕事中の迷惑電話にも関わらず、電話の奥で笑ってくれる日下さん。
「……すみません。押し間違えました」
泣いている最中だった為、普通を装っていても声がブレる。
『仕事中に間違い電話て。つか、仕事中なら普通LINEのメッセージの方でしょうよ。重ね重ねの間違いが激しいわ』
「日下さんも仕事中ですよね。本当にすみません。仕事、戻ってください」
陽気な日下さんのツッコミに、泣いていることがバレない様に、声の震えを堪えながら返事をして早々に電話を切ろうとしたが、
『美紗ちゃん、バレてるよ。泣いてるでしょ? 電話、美紗ちゃんから掛かってくることはないんだろうなって思ってた。美紗ちゃんから掛けて来たってことはさ、何かあったんでしょ?』
日下さんにはアッサリ見透かされていた。
「本当に何もないです。ただの間違いです。凡ミスです。泣いてもいません」
日下さんの声を聞いたら、何故だかホっとして、本当に涙が落ち着いてきた。
『ねぇ美紗ちゃん。仕事中の人間に電話掛けてきておいて嘘吐くって、人としてどうかと思うよ』
さっきまで笑っていた日下さんの声のトーンが、少し低くなった。
私の軽率な行動に、日下さんが怒るのは当たり前だ。
「……すみません。そうですよね。迷惑掛けておいて失礼ですよね。さっきちょっと、我慢しきれないくらいに辛くなってしまって……思わず日下さんに電話してしまったんです。本当にそれだけです。でも、日下さんの声を聞いたら持ち直しました。ありがとうございました。本当にもう大丈夫なので、日下さんは仕事に戻ってください。本当にすみませんでした」
日下さんに申し訳なくて、電話なのにも関わらず、謝りながら頭を下げた。
『ごめんごめん。美紗ちゃんが口割らないから怒ったフリしただけだよ。全然怒ってないから。美紗ちゃんから電話来たの、めっさ嬉しかったから。速攻で掛け直すくらい嬉しかったから。それより本当に大丈夫なの?』
日下さんが優しい声色に戻った。
「本当に大丈夫です」
『本当に?』
「本当に」
『本当?』
「……」
優しくされたくて電話をしたくせに、本当に優しくされると、気も涙腺も緩む。
私には、勇太くんに【会社を辞めるまでの間は私のことを好きでいて欲しい】などという低俗で都合の良い欲求があった。あんなことをしておいて、自分から勇太くんの気持ちが離れていかないわけがないのに。それなのに、勇太くんの気持ちが小田ちゃんの方に向いてしまうのが、耐え難かった。
勇太くんに軽い女だと思われたくなくて、日下さんとある程度の距離を保っていたかったけれど、勇太くんと小田ちゃんの間に距離がなくなっているのなら、私の薄汚い願いなど何の意味もないのだろう。
「……気は変わらないって言ってたくせに。日下さん、至れり尽くせり上げ膳据え膳、豪華海鮮三昧の温泉旅行、私もご一緒させてもらえませんか?」
『そんなの、いいに決まってるでしょ。一緒に行こう、美紗ちゃん』
どこか遠くへ。現実逃避をしたかった。