西の男、現る
「ゆい、どこかいくの? テオもいける?」
朝、制服を着てトーストを頬張る私にテオが訊ねてきた。私は手に付いたパンくずを皿の上で払いながら答える。
「月曜日から金曜日は学校なんだよ。学校にはテオを連れていけないの。家で留守番しててくれる?」
「がっこう……べんきょうするところ? げつようびからきんようび、って、どこ? きょうはどこ?」
テオが壁に掛けられたカレンダーを指でなぞる。
私はううん、と悩み、「黒い字で書いてある場所はだいたい学校とか仕事の人が多いんだよ。職業にもよるけど」
「ゆい、テオにはいろがよくわからない……」
耳を伏せてしょぼんと頭を伏せるテオに、ああそうか、テオも動物と同じように色の見え方が違うのかと気が付いた。
「ええと、月曜から金曜はカレンダーの真ん中、祝日が挟まる事もあるけど、基本的には両端は学校無いよ。学校行事がある時は別だけどね。今日はここ、金曜日だね。だから、明日は家にいるよ。テオは賢いから、ちゃんと待てるよね?」
「うん、テオ、ゆいがかえってくるのまってる」
項垂れ、しょげたままのテオの頭を撫でる。テオの鼻がくぅん、と鳴った。
私が玄関を出るまで、テオはずっと見送っていた。昼間は基本的にお兄ちゃんがいるし、エノシマもいるから心配はいらないと思うけど、それでも私は学校にいる間、ずっとテオの事が気掛かりで仕方がなかった。
昼休みもぼんやりしていたら、佳苗に肘で突かれた。
「由比、どしたの。今日ずっとうわのそらじゃん」
「えっ、そ、そう!?」
「うん、卵焼き持ったままずーっと明後日の方見てた」
言われて、慌てて箸でつまんだままの卵焼きを頬張る。お兄ちゃんの作るお弁当の卵焼きはほんのりと甘い。
「昨日学校休んでたし。何かあった?」
隠す事でもないだろう。そう思い、佳苗にテオの事を打ち明ける事にした。エノシマの事は伏せておく。変に心配されるのも心苦しい。
「実はね、幻獣召喚したの」
「えっ!? 召喚できたの!? ……でも、そんな心配する事? 帰還させればいいじゃない」
「それが、失われた世界? っていう、シオドミアンっていう世界のワーウルフで、私、帰還の為の魔法陣の描き方もわかんなくて……それに、血の盟約交わしちゃったし」
「血の盟約! そんな強い絆を結んじゃったら、そりゃあ軽々しく喚び出したり帰したりもできないかぁ。それで、留守番させてるんだ?」
「うん……。賢い子だし、お兄ちゃんも一緒だから大丈夫だと思うんだけどね」
「そっかぁ、由比にもついに使い魔ができたかぁー。よかったね」
「ありがとう」
素直に祝福してくれる友人が本当に有難かった。放課後、そそくさと帰る私を微笑ましい目で見つめていたのは少し恥ずかしかったが。
玄関の引き戸を開けると、テオが尻尾を振って待っていた。
「ただいま、テオ!」
「ゆい、おかえり!」
テオは私に飛びついてくる。私の身体で彼の大きな身体を支えるのはとても無理で、よろけて尻もちをついてしまった。
その時、テオの身体からふわりと草の匂いがする事に気がついた。青臭いものでは決してない。朝露に濡れた、森林のような香りだ。毛もどこか艷やかで、ふわふわしているように感じる。
「テオ、お風呂入った?」
「はいったよ。しょうが、はいりかたおしえてくれた。じぶんでからだもあらえたよ。せなかの、ドライヤー?は、しょうにてつだってもらったけど。テオ、へんなにおいしない? きたなくない?」
「うん、すごく綺麗になった。いい匂いがする」
思わずテオの首筋に鼻を埋めて深く息を吸う。独特の獣臭はもちろんするが、目を閉じれば深い森の中にいるように錯覚する。そこに佇む、テオの姿が脳裏に浮かんだ。
「お、帰ったか由比」
湘兄ちゃんの声で我に返った。
お兄ちゃんは少しよれたTシャツにジャージを履き、腰に手を当てて私達を笑いながら見つめている。
「お兄ちゃん、ただいま。ありがとう、お風呂大変だったんじゃない?」
「いーや? 殆ど手間はかからなかった。テオ、全部自分でやりたがったしな。ドライヤーは少し時間が掛かったけど。でも、風呂は何もなければ月に1回くらいでいいかもな」
「しゃぼんだま、っていうのがきれいだった。ふわふわとぶのに、ぱちんではじけるの、おもしろかった」
無邪気に笑うテオの頭を撫でながら私はようやっと立ち上がる。
奥の書斎から、盆にマグカップを乗せた弟切さんが姿を見せる。重そうな狩衣姿なのに、なんでもないように素早い足さばきで書斎を出て襖を閉める。そして私の姿を目に捉えると、深く頭を下げた。
「おかえりなさいませ、由比様」
「ただいま、弟切さん」
ふと、素朴な疑問が湧いた。私は思ったまま、それを口に出す。
「ねぇ、弟切さん。弟切さんもお姉ちゃんと血の盟約を交わしてるんだよね?」
「そうですね。もう20年程になるでしょうか」
「弟切さんも保健所で登録してるの? テオには首輪が渡されたけど、弟切さんはどうしてるの?」
「由比様は見た事がございませんでしたか? 私はこれですよ」
弟切さんはそう言って、袖を軽く振るい、左手首を顕にした。そこには銀色のプレートのついたブレスレットが光っている。プレートには『OTOGIRI』と刻まれていた。
「ニンゲンの姿に近い精霊型の使い魔は、皆このようなものなのではないでしょうか。さすがに、首輪は目立ちすぎますからね。そういうのを好む使い魔や主もいるのかもしれませんが」
「なるほどなぁ。気にした事もなかったや」
「これは私とあ……茅様を繋ぐ大切な鎖でもあります。私は何度も媒体が変わりましたが、これだけはいつも私と共にあるのです」
どこか誇らしげに言う弟切さんは、とても幸せそうに見えた。お姉ちゃんと弟切さんにも、私には知りようもない絆があるのだろう。
「無理に見せさせたみたいでごめんね」
私がそう言うと、弟切さんは「とんでもございません」と首を振った。
「あら、由比、帰ってたの。おかえり」
私達の話し声に気がついたのか、茅姉ちゃんがひっつめ髪にくたくたのスウェット姿で襖を開けた。首にはヘッドフォンを引っ掛けている。長く伸びたコードの先はパソコンに繋がっているのが容易に想像できた。
「ただいま、お姉ちゃん。……またゲーム?」
「いやぁ、アイテムがなかなかドロップしないのよねぇ。……それより由比、あんた今晩会食あるから、それなりの準備しときなさいよ」
「会食? き、聞いてない! どこと!?」
「今言ったもん。西の頭領さん一家とよ。テオくんの顔見せもしたいしね。エノシマさんは遠縁の親戚の子を預かったって事にするから、よろしくー」
言うだけ言って、お姉ちゃんは書斎に引っ込み襖をぴしゃんと閉めてしまう。
「お、お兄ちゃんも来てくれるよね!?」
私は思わず湘兄ちゃんの服にすがりつく。お兄ちゃんは少しぎょっとした様子だったが、困惑した顔のまま答えた。
「ん? あぁ、まぁな」
「よ、よかった……」
私がずるずると膝を付くのを、お兄ちゃんは伸びたシャツもそのままに笑いながら言った。
「お前、本当にあいつ苦手だなぁ。昔はよく遊んでたじゃないか」
「昔は昔! 今は今! あんな喧嘩腰で来られちゃ、好きになろうと思ってもなれるもんかい!」
「そりゃ、失礼ござんした」
夜19時。私はシャワーを浴び、自分が持っている中で一番上等なワンピースを着る。短い髪にヘアピンを着け、薄くだが化粧もしてリップを引く。いつだったかお姉ちゃんが言っていた。女がおしゃれをするのは、戦闘服を着るようなものなのだと。小さい時はその意味がよくわからなかったが、今ならなんとなく理解できる気がする。
部屋から出てきた私を、丁寧にブラッシングされたテオは口を開けたまま見つめてくる。
「すごい。ゆい、えほんのおひめさまみたいだ」
「そんなすごいものじゃないよ、テオ……」
「ううん、すごくきれいだ。いつもより、きらきらしてる」
「……ありがとう」
テオは嘘は言わない。だから、きっとテオにはそう見えているのだろう。それだけでも、めかしこんだ甲斐があるのだと思おう。
玄関先では黒いスーツを着た弟切さんと、珍しくネクタイまで締めたお兄ちゃん、それに濃紺のパンツスーツを着て髪を結い上げ、綺麗にメイクをしたお姉ちゃんが待っていた。エノシマは私が小さい頃に着ていたお出かけ着を着ている。こんなもの取っておいてあったのか。
「よく似合うわ、エノシマさん」
「こんなひらひらしたものを着るのはどうも慣れんのう」
「いやぁ、しかしこうして見ると由比の小さい頃そっくりだなぁ」
「あら、エノシマさんの方が可愛らしいわよ、湘」
そういってお姉ちゃんは優雅に口元を手で隠してくすくす笑う。……つくづく思うが、姉はオンとオフのギャップが激しすぎると思う。今のお姉ちゃんの姿を見て、よれた部屋着でパソコンにかじり付きながらタバコを吸い、「アイテムのドロップが渋い」と舌打ちをする姿を連想する人間はいないだろう。
「では、皆さん車の方に」
そう言って弟切さんが大きな高級車のドアを開ける。私とお姉ちゃんとエノシマとテオは後部座席に、お兄ちゃんは助手席に乗り込んだ。最後に弟切さんが運転席に滑るように乗り込み、シートベルトをかちりとはめる。我が家で車の免許を持っているのはお兄ちゃんと弟切さんだけだ。といっても、お兄ちゃんが車を運転するのは自分の仕事の時ばかりなのだが。
車は滑るように走り出した。夜景が車窓を流れていく。テオは窓側の席でそれを興味深そうに見つめていた。お姉ちゃんはつまらなさなそうに眺めている。やはりお姉ちゃんも今日の会食は乗り気ではないのだろう。それでも、これは東の魔術師協会と西の魔術師協会が円滑な交際を続けるために必要な事なのだ。
高速道路をしばらく走り、やっと郊外にある高級料亭にたどり着いた頃にはもう私の気持ちは最低にまで下がっていた。女将さんや従業員さんが頭を下げる中、弟切さんにドアを開けられ、私たちは車を降りる。
女将さんがテオの姿を見て、少し怪訝そうな顔をした。
「いらっしゃいませ、東條様。あの、こちらの幻獣は?」
「妹の使い魔よ。しっかり登録も済ませてある。何か問題ありますか?」
「左様でございましたか。それは失礼致しました」
深々と頭を下げるが、どう考えても好意的には思われていないのだろう。
それは、あいつに……西ノ宮家に会い、ますます実感する事になった。
私たちは菊の間と書かれた部屋に通される。テオと弟切さんは部屋の外で控えさせた。テオは寂しそうに鼻を鳴らすが、弟切さんに何かを耳打ちされて小さく頷き、床に蹲る。弟切さんもその隣で正座をした。
私たちが部屋に入ると、関西弁の大声が迎えてくれた。
「やぁやぁ、これはこれは東條殿。今日はお呼び立てして申し訳ない! 急に家族でこっちに来る用事が出来たんで、お会いできたらええと思うて連絡させてもろうたんやが」
薄い髪をオールバックにした中年男性がお姉ちゃんの肩をばんばんと叩く。お姉ちゃんは笑顔を崩さないまま、叩かれた箇所を軽く手で払い言う。
「とんでもございません、西ノ宮様。お呼び頂けて光栄です」
「湘くんも立派になったし、由比ちゃんも大きゅうなったなぁ!」
「嫌だな、西ノ宮さん。前に会ったのは正月だったじゃないですか。ほんの数ヶ月前ですよ」
「せやったか? はっはっは! ところでこちらのお嬢ちゃんはどちらさんや?」
「東條エノシマと言います。東條の遠縁にあたるのですが、しばらくの間こちらにお世話になる事になりました。 ええと、よろしくおねがいします」
「おお、せやったか! よろしくなぁ、エノシマちゃん!」
お兄ちゃんも、猫を被ったエノシマも西ノ宮の当主を軽くあしらう。私は先に席に着いていた男と視線がぶつかる。男は毛先を遊ばせ、所謂今時の青年らしい姿をしていたが、紫色の開襟シャツに白いスーツという派手な出で立ちだ。私は視線を思わず逸しそうになったが、耐えて小さく会釈した。しかし、男はそっぽを向き、湯呑み茶碗を掴んで中身を啜るだけ。畜生、あからさまに無視しやがって。
しかし、男は鼻をすんすんと動かし、眉間に皺を寄せた。
「……なんや、犬の匂いがするなぁ。東條さん、おたくら動物飼うとったか?」
男が立ち上がり、鼻をひくつかせながら私に近寄ってくる。
「お前やな、由比。お前から匂ってくる」
私が言葉に詰まらせていると、お姉ちゃんが助け舟を出してくれた。
「えぇ、この度この子にも使い魔が出来たので、お顔を見せておこうと思って連れてきたんです。由比、呼んであげなさい」
肘で突かれ、私はテオを呼ぶ。暫く間があり、テオが襖を薄く開けて顔を出した。それを見ながら、私は言う。
「ええと、私の使い魔……シオドミアンのワーウルフ、テオです。ほら、テオ。ご挨拶して」
私が促すと、テオは慌てて頭を下げる。
それを見て、私の目の前にいた男……中年の息子である健吾が、鼻で笑った。
「なんやなんや、姉が蟲なら妹は獣かいな。東の術士さんは土臭いもんがお好きなんやなぁ」
「こら、健吾。失礼なやっちゃな、お前は! ……すんません、東條さん、気ィ悪うせんでください」
しかし、男……健吾の口撃は止まらない。
「東の流派では下等な魔物を使役するんが流行りですか? 俺みたいなもんには理解できませんなぁ。俺の使い魔はほれ、アーティズムの水精でっから。今日は召喚しとらんのですが、いやぁ、一度お手合わせ願いたいもんですわ。勝ちは見えてますけどな!」
下等な、魔物?
違う。テオはそんなんじゃない。
テオは言われるがまま、ぐっと何かを堪えているようだった。目に、怯えのような色が走っている。
巨躯の身体を小さく震わせるその姿を見て、私の中の何かが切れた。
「……おう、おうおうおう、言うじゃねぇか、西の坊っちゃんよぉ。誰が何と言おうと、彼は……テオは、私の自慢の相棒だい。お前にどうこう言われたかぁねぇや!」
私が噛み付いてきたのが意外だったのか、健吾は途端に口ごもる。しかし、それも本当に一瞬の事だった。
「なんや、由比! いつから俺にそんな口叩ける様になったんや! 東條家の出来損ないが!」
「あぁ、私ァ出来損ないだい! けどなぁ、テオは違う! 出来損ないの私には出来すぎた使い魔だ! その気になればテメェのその真っ白けの服を真っ赤にさせてやれるんでぇ! それをしないのは、テオが自分の理性を保ってるからだって事、わすれんじゃねぇぞ、このスットコドッコイが!」
「この腐れアマ……!」
今にも掴みかからんとする私と健吾を止めたのは、お兄ちゃんの腕と、割って入るように大声を上げて笑うエノシマの声だった。
「あっはっはっは! 善い善い。その調子じゃ、由比。思う存分言うてやれ!」
あっけにとられる西ノ宮の当主と、その息子を見渡し、さらにエノシマは言う。
「言うべき時に言いたい事が言えるというのは、それだけで善き仲というものじゃ。収穫は十分じゃ、のう、姉御殿?」
言われて、お姉ちゃんもくすりと笑う。
「そうね。……これから先も末永くよろしくお願いしますね、西の頭領様。さ、食事という空気でもなくなってしまったわね。私たちはお暇しましょう。どうぞ、西ノ宮さんは東京湾の幸を十分お楽しみくださいね。では」
そう言うとお姉ちゃんは私のワンピースの襟首を掴んでさっさと部屋を出て行く。
「ちょ、お姉ちゃん! まだ言い足りな…… そのうちノシイカみたいにしてやるからな! 覚えてろ、このゲンゴロウ!」
「誰がゲンゴロウじゃ! 返り討ちにしたるわ、チビ助が!!」
襖が閉まる。廊下で弟切さんが女将さんに頭を下げ、財布を仕舞っている所に出くわした。
「姉様、こちらは滞りなく済ませました」
「そう、女将さん、お騒がせしましたね。それでは私たちはこれで失礼させていただきます」
女将さんは引き止めるべきかどうか迷っているようだったが、お姉ちゃんに引きずられる私を見てその手を引っ込めた。
そして帰り道の車の中。
「いやぁ、ドキドキしたなぁ。久々にスリリングだったよ」
「いいのよ、西ノ宮があの程度でカリカリするような度量なら、こっちから手を切ってやるわ」
「言うのう、姉御殿」
「ゆい、ごめん。テオのせいだ」
「いえいえ、テオはお優しいご主人様を誇るべきですよ」
行きとは正反対に賑わう車内で私はひとり胸を痛めていた。
もしかして、内戦のきっかけをつくったのはこの一件が原因なのではないのか。
しかし、その内情を知っているはずのエノシマは素知らぬ顔で笑っている。
……しばらく、西のには会いたくない。
そして、私はやっぱりあの男……健吾が心底嫌いだと、つくづく思った。