由比とテオ、生きる為に
家から徒歩20分。住宅街の外れにある、最近建て替えられたばかりのぴかぴかの真っ白の建物。しかし、門扉の横に掛けられた看板だけは時代を感じさせる古いもの。
そこにはこう書かれていた。――大久保幻獣病院、と。
問診票を書いて待合室のソファーに腰掛ける。テオはやはり怖いのか、耳を伏せて尾は足の間に挟んで大きな身体を小さく縮こまっていた。私は辺りをぼんやりと眺める。
風精シルフを連れたおばあさん。
火精サラマンダーを籠に入れた少年と、そのお母さんらしき人。
ちいさな猫の妖精ケットシーを抱いた女性。
ここはあらゆる幻想世界から召喚された幻想動物や式神を診てもらえる病院だ。医院長の大久保巧先生はその世界では有名な名医で、シードラゴンの虫歯治療から、小さな妖精の外科手術までこなすというとんでもない人だ。
「ゆい」
不安げにテオが私のシャツの裾を握ってる。その大きな手を撫でてやりながら私は言う。
「大丈夫だよ、テオ。巧先生は優しい人だから」
「うん……」
暫く経って、診察室のドアが開き、穏やかそうな若い女性の声が「東條テオさーん」と呼ぶ。テオはその声に耳をぴんと立てた。
「呼ばれたよ。行こう、テオ」
「うん」
私が立ち上がると、テオもそれに続いて立ち上がる。診察室に入ると、大きな診察台とその横に立つスキンヘッドの中年男性が笑っていた。右目には雷獣を診察した時に付けられたという3本の引っかき傷の痕があり、その強面をさらに強調させていた。
「うぅー……!」
「て、テオ、大丈夫。大丈夫だから……!」
先生の風体に本能的に怯えたのか、テオの足が止まる。私は手を引っ張るが、テオはてこでも動かないといった様子だ。
「おぉー、大丈夫だぞ、テオちゃん。なんも怖い事はしないからなー!」
スキンヘッドの巧先生は口を大きく開けて笑う。そしてすたすたとテオに歩み寄ると、大きなテオの身体を片手でひょいと抱き上げた。肉体強化の魔術を自分にかけているのだろう。
「巧先生、よろしくお願いします」
私がぺこりと頭を下げると、巧先生は「おう、任せとけ」とまた笑う。
動物介護士で巧先生の奥さんでもあるあの穏やかそうな女性……美雪さんがドアとぱたんと閉めた。
巧先生に抱かれたテオは小さくぷるぷると震えて尾を更に足の間に挟み込む。
それを子供をあやすように撫でながら、巧先生は言った。
「シオドミアンのワーウルフとは、こりゃあまた珍しいものを持ってきたなぁ。とりあえず身体測定としようか」
巧先生はテオを体重計らしい台に下ろすと、メジャーをささっと伸ばし、テオの身体に当てる。それと同時に身体を撫で、瞼を押し上げて目を見たり、口を開けてライトで照らして覗き込む。
「んん、体重105kg、身長は耳を入れて201cm。まぁ、どの世界でも平均的なワーウルフだな。健康状態は問題なし。テオちゃん、少し前に怪我をしたか? まぁ、この治りなら問題ないな。アカカゲユキノミが付いてるな。これは普通のノミ取りで十分だろう。あと念の為虫下しの薬は……うーん、カエンマツで大丈夫そうだな。美雪、ワクチンの準備。一応採血するな。簡単な病気のチェックだから」
僅か数分。あまりに手早い診察に私はあっけにとられていた。
やがて注射針が付けられた採血器を取り出す。
「少しちくっとするぞー」
「ゆい!!」
不安げに叫ぶテオに慌てて駆け寄り、その身体を抱きしめてやる。テオの震えが伝わってきた。
「テオちゃん、こっち来て何か食べたか?」
巧先生は世間話をするようにテオに訊ねる。テオは震えた声でそれに答える。
「きのう、しょうが、とりにくをやいてくれた。コルドバードとおなじあじ……キャイン!」
テオが答えている間に巧先生はささっと血を抜き取ってしまった。
「コルドバード……シオドミアンによくいる大型の地面を走る鳥だっけか。テオちゃんは鶏肉が好きなんだな」
言いながら続けざまにワクチンの入った注射をテオの身体に刺す。テオは再び「ギャン!」と鳴き、私の腕の中に鼻先を突っ込んだままぷるぷると震えていた。
「テオちゃん、よく頑張ったな。もう痛いのも怖いのも終わりだからな」
巧先生が優しくテオの背中を撫で、テオはようやく顔を上げる。
巧先生は朗らかに笑っていた。
「巧先生、テオのいた世界について知ってるんですか?」
私がテオを抱きしめたまま訊ねると、巧先生は「まぁ長く幻獣医やってると色々見るもんでなー」と答える。テオから採血した血をなにやらキットに少量垂らし、振りながら更に言った。
「シオドミアンはアーティズム、オールドエンド、アビュリースより更に向こう側の次元にある。1000年程前は今のここと同程度の文明が栄えていたらしいが、そこの人類や亜人、幻想動物も同等の生活水準だったのが悪かったのかどうかわからんが、一度文明が滅んだ。それからは皆蛮族化して、命の取り合いの絶えない世界になってしまったらしい。こっちから見れば、『失われた世界』ってやつだよ。もう200年はやりとりしていないらしいな。今じゃそらで召喚陣を描ける奴もいない。東條のちびっこ、よく召喚できたな。……血の盟約を結んでいるところを考えるに戻し方も知らんのだろうがな」
「はは……」
「ま、とりあえず身体に異常なし、病気もなし、ノミ駆除完了、安全保証書書いてやるから保健所と役所に提出する事。カエンマツを使ったから今晩少し熱が出るかもしれんが、すぐに引くから大丈夫だ。明日にでもしっかり風呂に入れてブラッシングしてやってくれ。うちではオーガニックな狼族専用シャンプーも売ってるから、それを使ってもいいぞ」
「商売っ気は忘れないんですね先生」
「そりゃあ商売ですからなぁ」
けらけらと笑う巧先生の隣で美雪さんが優しく笑いながら言う。
「食べ物は私たちと変わらないものをあげても構わないけど、時々専用のおやつをあげてもいいわ。歯磨きはガムを噛ませてあげれば大丈夫。なるべくたくさん運動させてあげてね。排泄物は人間と同じようにトイレでさせてあげれば大丈夫よ。大切なパートナーだもの。大事にしてあげてね」
言われて、私は大きく頷く。そうだ。テオは私のパートナー。私だけのパートナーなんだ。テオは尻尾を振りながら大きな声で一声吠え、言う。
「テオ! ゆい、だいじにする! パートナー! ちのめいやく! テオのごしゅじんさまだ!」
「そうね、テオちゃん。病気になったらまたいらっしゃいね」
「うぅ……あのちくっとするのはいやだ……」
「矢で射られた事もあるのに、でも注射は嫌いなんだね」
私が言うと、テオは涙目で私を見つめてくる。
「ちくっとするのは、なんかちがう……。たたかうのはへいきだけど、たたかいじゃないのにいたいのはへんだよ、ゆい」
「うーん……そういうものなのかな……」
「ま、どんな幻想動物でも注射が平気だってやつはそうそういないぞ。……ほら、書けた。じゃ、お大事に」
「ありがとうございます」
「じゃあ、また待合室でしばらくおまちくださいね」
私が封筒を受け取り、病院を出る頃には日はもう随分高く登っていた。ビニール袋の中には狼用のシャンプーと歯磨きガムが入っていた。
「テオ、お腹すいてない?」
「すいてない。ゆい、つぎはどこにいく?」
「次は保健所だよ。バスに乗っていかなきゃ」
「ばす?」
「ええと、一定の区間の場所をくるくる回って、お客さんを運んでくれる車……かな?」
「くるま……」
「見たら解るよ」
そう言ってテオをバス停に連れていく。テオに大きな道路を見せたのはその時が初めてで、テオは目を大きく瞬かせてそれを見ていた。
「うまもついてないのにかってにはしるのりもの、はじめてみた。あんなちいさいのに、ひとがなんにんものるの、ゆい?」
「私たちがこれから乗るのはもっと大きいやつだけどね」
そう言っている間にバスがやってきた。私はテオの手を引いて乗り込む。召喚獣は子供料金と同じだ。
ゆっくりと走り出し、徐々にスピードを上げていくバスの車窓をテオは興味深そうに眺めていた。
「はやいね。ニンゲンはこうやっていどうするんだ」
「そうだね、自家用車を持ってない人は大体そうかな。バスとか、電車とかに乗るよ」
「でも、テオがはしったほうがもっとはやいよ」
「で、でも、テオはこれから行く場所を知らないでしょ? それに、普段に街中を全力疾走したら危ないよ」
「それもそうだね。あるいてるひとにぶつかったらたいへんだ」
テオは納得したように頷いた。やがてバスのアナウンスが目的地を告げる。私は停車ボタンを押した。
テオが首を傾げて聞いてくる。
「それはなに?」
「次で降りるから停まってください、っていう合図だよ」
「へぇー」
テオはなにもかも珍しいのだろう、いろいろな事に興味を持った。歩く道すがらも、あれは何? これは何? と聞いてくる。それにひとつひとつ答えていく。するとテオは納得したように頷いた。
「バスにのるにはおかねがいる、おかねはいろいろなものとこうかんするためにひつようなもの、たべものをかってにとっちゃいけない、おかねをだして、おみせでもらう」
私から聞いた言葉を反芻するように言いながら、私に手を引かれながらテオは歩く。コンクリートを爪で鳴らしながら。
保健所の受付で「幻獣の定住保証を貰いに来ました」というと、専門のカウンターに通された。渡された紙にテオの名前と、元々住んでいた召喚地、種族名と自分の名前や住所を書いていく。『所持している幻獣名』という項目に少し心が傷んだ。
所持。その言い方しかないのだろうけど、それはなんだか嫌だ。
書き終えたそれをカウンターにいたおばさんに渡すと、大きな赤い首輪を手渡された。銀色のドッグタグが付いている。
「なんですか、これ?」
「迷子になって収容された時の身分証明と、幻獣狩りの被害に合わないように、つける事になっています。このドッグタグにエーテルを投射させてください。それが使役主の登録になります」
「はぁ……」
言われるがままに、エーテルを投射させた。いくら劣等生の私にだって、このくらいの事は出来る。
エーテルが投射されたドッグタグに、ぱきりぱきりと傷が入っていく。やがてそれは文字になり、『TEO』と刻まれた。
「テオ、おいで」
私が呼ぶと、テオは嬉しそうに尾を振って駆け寄ってくる。私が少し背伸びをして、テオの首に首輪を巻く。
「ゆい、これはなに?」
「……テオが、わたしの大切な存在だっていう、印だよ」
それを聞き、テオは腰を落とし首輪を巻きやすいようにしてくれた。金具を締めると、テオは少し首を動かし、満足そうに笑う。
「テオ、これでゆいのもの?」
「そうだよ。テオは、私のものだっていう印だよ」
「ゆい、テオのごしゅじんだ。それが、ほかのひとにもわかるんだ!」
「そうだね」
「へへへー」
無邪気に笑うテオに、心に陰っていた重い物がすっと軽くなった気がした。
少なくとも、テオは嫌がってはいない。喜んでくれている。
その足で市役所に向かい、テオの住民票を提出して手続きが終わる頃には、すっかり夕方になってしまっていた。
私たちはまたバスに揺られ、家路へ急ぐ。テオの毛足の短い手を握ると、ビロードを触っているような感覚を覚える。
「テオ、お腹すいたね」
「すいた。しょう、またごはんつくってくれる?」
「作ってくれてるよ。今日は何かなぁ」
「テオ、にくがいい」
「あはは、お肉だといいねぇ」
その時の私はまだ気が付かない。
帰宅した後、エノシマの特別訓練が待っている事なんて。
そんな事も知らず、テオと車窓から眺める夕暮れの街は、どこまでも美しかった。