茅の研究室にて
エノシマが現れ、テオを召喚し、私は茅姉ちゃんに聞きたい事が山ほどあった。湘兄ちゃんは仕事だと言ってエプロンを外して出ていってしまい、私は無言でお茶を啜るエノシマと不思議そうにテレビを見つめるテオと広いばかりが取り柄の古い家に取り残されている。
時計の針はもう23時を指そうとしている。カリカリと頬を掻くテオを横目に、私はひたすらそわそわと姉の帰りを待っていた。
玄関の引き戸ががらがらと音を立てるのと同時に私は弾かれたように席を立つ。ばたばたと玄関に走り着くと、そこには淡いベージュのパンツスーツに身を包み、髪を結い上げた姉と、それに付き従い鞄を持った黒のスーツを着た弟切さんが立っていた。
「おっ、お姉ちゃん! あの、あのね! あの、私、私の子孫っていう人が来てね! あと、なんかワーウルフ召喚しちゃってね!? あの、とにかく、あの、どうしよう!?」
まとまらない言葉を吐き散らかす私の額をぺちんと姉が叩く。
「由比、仕事に疲れて帰ってきたお姉さまに、まず言う事があるんじゃないの?」
「あ、うん……おかえりなさい、茅姉……」
お姉ちゃんはすんすんと鼻をひくつかせ、「ふぅん」と呟く。
「招かれざる者か、そうじゃないかはまだ解らないけど、ともかく客人が来てるのね? 弟切、お風呂沸かしといて。私はその客と話しとくから」
「かしこまりました、姉様」
深々と礼をする弟切さんを横目に、お姉ちゃんはハイヒールを脱ぎ、スリッパに履き替える。
そしてリビングを覗くと感嘆の声を上げた。
「……これはこれは。随分と高位の術者様じゃない」
目を合わせたのはエノシマだ。湯呑みをテーブルに置き、椅子から降りる。
「由比の姉御殿……茅殿じゃな。やっとまともに話ができる。儂はエノシマ。この国を救いに来た」
「いきなり仰々しいわね、エノシマさん。由比、あんたは自分の部屋に戻ってなさい。ちょっと難しい話をするから。……それと、そっちの狼さん」
声を掛けられ、テオがお姉ちゃんの方を向く。少し警戒しているのか、喉の奥をぐるぐる鳴らしている。
「警戒しなくていいわよ。私は茅。由比のお姉ちゃんよ。……ちょっと失礼。大丈夫、痛い事はしないから」
そう言うとテオの首元に触れ、なにかをつまみ上げた。指の先には数本の抜け毛と、ばたばたと足を動かす、黒い虫のようなものがいた。姉はポケットから小さなチャック付きのナイロン袋を取り出し、それを入れると封をする。
「サンプルに貰っておくわね。協力ありがと。あなたも由比と一緒に部屋にあがっておいで」
言われて私たちは追い立てられるように自分の部屋に向かう。
「ゆい、あのひともゆいのかぞく? しょうとおなじ? このいえの、リーダー?」
「……そう。この家だけじゃない。この辺りの魔術師、皆のリーダー。一番偉いの。湘兄ちゃんも、茅姉ちゃんも、優秀な魔術師。私とは違うの」
「ゆうしゅう、ゆうしゅうはわからないけど、テオはゆいといっしょにいれてよかった。おいだされるかとおもって、どきどきした」
ぱたぱたと尾を振るテオがなんだか可愛くて、私はテオの頭を撫でる。テオは心地よさそうに目を細めた。
「でも、テオが私と一緒に暮らすには色々ルールがあるの。聞いてくれる?」
「きく! テオ、ゆいのいうこときく!」
私は勉強机に向かい、中学生の時に使っていた教科書の一冊を手にとってテオに広げてみせた。そこには幻獣を使役する為のこの国の法律や、幻獣を扱う為の主の心得が書いてあるページだ。挿絵付きで分かりやすく書かれている。
「この国で幻獣と暮らすには、幻獣医さんの許可証と保健所の許可書を貰って、最寄りの市役所で使役届けを出さなきゃいけないの。だから、早めに幻獣医さんの所に行かなきゃ。大丈夫よ、弟切さんも診てもらってる、優しいお医者さんだから」
「おいしゃさん? こわいところ?」
「怖くないよ、大丈夫。テオが元気で、この国で暮らしていけるようにしてくれる所だから」
「テオのせかいのおいしゃさん、こわいひとがおおかった。ジッケンとかいって、なかまのちをとったり、にくをきりとったりする。たくさん、ころされたよ」
「そ、そこまではしないよ……しない、多分」
「ほんと?」
「う、うん……採血くらいじゃないかな、流石に……」
「ううー……こわいけど、ゆいのため?」
「……うん、私とテオが、平和に暮らす為」
テオは不安げに耳を伏せていたが、それでも小さく頷いた。
「ありがとう、テオ。少し忙しいけど、頑張ろうね」
「うぅー……がんばる……」
「いい子だね、テオは」
そう言ってまた頭を撫でてあげるとテオは嬉しそうに尾を振る。本当に、まるで言葉が通じるだけのただの大型犬のようだ。
その時、襖の外から弟切さんの声が掛けられた。
「由比様、茅様がお呼びでございます。テオも同行するようにとの事です」
「あ、はい。すぐ行くよ。テオ、お姉ちゃんが呼んでる。行こう」
「うん」
私たちは教科書を閉じて立ち上がり、襖を開ける。そこにはいつもの狩衣姿の弟切さんが立っていた。
「では、こちらへ」
弟切さんに先導され、私とテオは廊下を歩く。弟切さんは足音ひとつ立てないので、私のスリッパの音と、テオの爪が廊下に当たる音だけが響く。
お姉ちゃんの書斎を通り過ぎたところで私は疑問を口にした。
「あれ、書斎じゃないの?」
「茅様は離れの研究室に居られます」
淀む事なく答える弟切さんに連れられて、私とテオは普段は誰も近寄らないお姉ちゃんの研究室の前に立つ。中庭に面していて、その庭の手の届く場所には細かな呪文が刻まれた水草が浮かべられた水の張られている水瓶が置かれている。私が何気なくそれをぼんやり見つめていると、弟切さんがドアをノックした音で我に返った。
「姉様。由比様とテオがいらっしゃいました」
「入って」
お姉ちゃんの声はどこか張り詰めていて、思わず背筋が伸びる。弟切さんがドアを開けると、そこは棚いっぱいに置かれた昆虫の標本や、多足類のホルマリン漬けの並んだ空間だった。私が唾を飲み込むと、お風呂に入ってきたのだろう、洗い髪にすっぴんのスウェット姿のお姉ちゃんが足を組んで電子顕微鏡を覗き込んでいた。私たちの姿を確認すると、どこか得意げに鼻を鳴らす。
「ふふん、肝を冷やしたって顔ね、由比。アンタがここに来るのは初めてだっけ? どう? 小学生の頃から集めた私のコレクションは」
「……な、なんか、すごいね」
「パラレルドはもちろん、アーティズムやオールドエンド、アビュリースの蟲もいるのよ。キレイなものもあるけど、ムカデに蜂、ダニにノミ、ゴキブリもね」
そう、お姉ちゃんは一級の魔術師であると同時に蟲術師でもある。それも、人に忌み嫌われ、生まれながらに呪いを身に溜め込んだ蟲を媒体に使う。
今横にいる弟切さんも、蚊を媒体にして呼び出されたお姉ちゃんの式神だ。
「割とあらゆる世界の蟲は見てきたつもりなんだけど……。このノミは見た事無いのよねぇ。貴方の身体にいたノミよ、テオくん」
そう言われるが、テオは首を傾げている。
「私たちの知らない世界……。由比、アンタ、テオくんをどうやって召喚したの? もしかして、帰還のさせ方も解らないんじゃない?」
私は言葉を詰まらせる。けれど、嘘を吐いても仕方がない事も解っていた。
「エノシマに攻撃されて、無我夢中で魔法陣を描いたの。なにをどうやって描いたか……解らない。とにかく助けてくれる何か、って思ってエーテルを放射させたら、テオが傷だらけで現れたの」
「傷だらけで? テオくん、それはどうして?」
訊ねられて、テオは辿々しい口ぶりで恐る恐る答える。
「テオは……テオは、ニンゲンにおわれていた。すみかのもりを、やかれて。にげたら、ニンゲンたちがまちかまえていて、テオにゆみやや、てっぽうを、むけた。けんをもったニンゲンもいた……きがする。テオは、ニンゲンをおそったことはない。でも、ニンゲンはテオたちがこわかったんだとおもう。テオのおやも、きょうだいも、みんなころされた。テオのいちぞくは……もう、テオしかいなかったんだとおもう」
「人狼狩りが横行してた世界なのね、テオくんのいた世界は」
お姉ちゃんが小さく頷く。
それを私は黙って聞いていた。テオがそんな目に遭っていたなんて、思いもしなかった。テオは震えた声でさらに言葉を紬ぐ。
「やでいられて、てっぽうをうたれて、だれかたすけて、しにたくないっておもったら、ひかりがみえた。だから、それをさわったら、このせかいにきていた。めのまえにゆいがいて、テオをみてた。だから、テオはこのひとによばれたんだっておもった。ゆいはほっぺたをけがしていて、そのちをなめなきゃ、っておもったから、なめた。そしたら、けががぜんぶなおって、なんだかゆいのことがわかった。なまえとか、きもち。ちのめいやくはなされり、ってあたまにうかんだ。それで、ゆいとテオのたましいがむすびついたんだとおもった。……テオにわかるのは、これだけ。かや、テオのいうことがわかる?」
お姉ちゃんは腕を組んだままうんうんと頷いた。
「オーケイ、オーケイ。つまり、由比はテオくんの戻し方は解らない、テオくんは元の世界に戻れば殺される可能性が高い。ふたりは血の盟約を交わしているから、どちらかが死ねば、大なり小なり、無事では済まされない。それだけ分かれば十分よ。テオ、あなたは今日から私たちの家族だってね」
「かやは、テオをころさない?」
「ワーウルフを使役するなんて前例少ないけどね。ま、なんとでもなるわ。由比。アンタは明日学校休んでいいから、テオくん連れて幻獣の定住手続きね。野良幻獣と間違えられて困るのはアンタなんだから」
「わ、解ったよ! お姉ちゃん、ありがとう!」
私が頭を下げるのを見て、テオも頭を下げる。それを受けて、お姉ちゃんは笑っていた。
「ところで、エノシマとの話は……?」
「あぁ、それはアンタには関係……大有りだけど、気にしなくていいわ。エノシマさんもうちで暮らすから、由比、アンタ明日からしっかり鍛えてもらいなさいよ」
「マジですか……」
お姉ちゃんとエノシマの間でどんな会話がされたのか、私には知る由もない。けれど、きっと悪どい笑いの下に成されたのだろうという事は容易に想像が出来た。
お姉ちゃんとエノシマは、どこか性格が似ているような気がしたから。