ワーウルフ、召喚
人っ子一人通らない夕暮れの住宅街を走る。走る。走る。
何故こんな事になってしまったんだろう。
でも、わかっている事がひとつだけある。
私が足を止めれば、私は殺されるという事だ。
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チャイムの音と共に机に突っ伏す。ざわざわと他の生徒たちがペンやノートを閉じる音を聞きながら、私の頭はパンクしそうになっていた。
「じゃあ今日はここまで。次回は召喚の実技をやるからなー。魔法陣の復習忘れんなよー」
召喚術の先生の声がなんだか遠くに聞こえた。
ノートにはびっしりと意味の分からない文字が踊っている。とにかく黒板に書かれた文字を一心に板書しただけの汚いノートだ。
この学校にいる人は皆こんな言葉が読めるのだろうか。私にはヘブライ文字もラテン文字もルーン文字も、適当にぐちゃっと書いた落描きにしか思えない。
「おつかれ、由比」
「佳苗……。おつかれぇ……」
友達の佳苗が短いポニーテールを揺らして私の頭をノートで叩く。
「実技どうしよー……絶対できないよ……」
「泣かない、泣かない。簡単な風鳥召喚でもしてお茶濁しなよ」
「それが! できてりゃ! 泣いてねぇやい!」
そう叫ぶ私を佳苗はけらけらと笑う。もう既に特定の召喚獣と契約をしている人間は気楽でいい。いや、魔術師を志す人間の殆どは小学生の時には風精だとか火精だとかと簡易的な契約を交わし、召喚なんて簡単にできるんだろうけれど。
「でも、前も聞いた気がするけど、そんなに成績悪いって解ってるのに、なんで普通科に進学しなかったのさ?」
「基礎魔力がA判定だったから、頑張って勉強したら並の魔術師にくらいはなれると思ったんだよ……。東條家の人間が光弾すら撃てないなんて恥ずかしいじゃない」
「おぉ、一応東條家だっていうプライドはあったんだ」
「プライド……っていうか、もう意地だよ。でもだめだあ。私の頭じゃ追いつかない……覚えること多すぎ。相変わらず光弾も撃てないし、なんで皆ホイホイ使えるようになるんだろ」
「覚えるんじゃないよ、感じるの。そしたら、自然とできるようになるって」
「宅間せんせー、それがむずかしいです」
「ま、魔法陣さえちゃんと書ければ大丈夫大丈夫。本格的な契約する訳でもないんだし、一夜漬けで頑張りな」
そう言うと佳苗は笑って鞄を持ち、さっさと教室を出ていってしまった。そういえば今日は部活の日だっけ。帰宅部の私には関係ないことだけど。
「帰ろ……」
ノートや教科書を鞄に詰めて立ち上がる。明日の事は明日考えればいいや。次の召喚術の授業は月曜なんだし。このすぐに楽観的になれる所は私の長所だと思う。
グラウンドで白球を追う野球部を横目に私は大きく伸びをする。そういえばスポーツ界では魔術による肉体強化や対象弱体化は禁止だっけ。普段は筋力強化の魔術でトップの成績を誇る砂月くんが金属バットに情けなく振り回されている姿を見ながらぼんやり思う。
魔術に特化させたスポーツがあったらどんなのだろう。異世界ではそういうものもあるのだろうか。
空想にふけりながら歩いていると、奇妙な事に気がついた。
音が、なにも、聞こえない。
もう住宅街に入っているのに、子どもたちの歓声も、どこからか漂ってくる夕食の匂いも、なにもしない。
慌てて周囲を見渡すが、しんとした世界に建物が建っているだけの、不気味な空間だった。
「こんにちは、東條由比さん」
そんな世界で不意に声を掛けられ、私はぞくりと悪寒を感じながら振り返る。
そこには、おかっぱ髪に巫女装束に身を包んだ幼い……おそらく、10才かそのくらいだろう……女の子が笑顔で立っていた。
だが、同時に既視感を覚えた。
この子、どこかで見た事がある。
なのに、どこで見たのか解らない。
「ようこそ、東條由比さん。儂の世界、次元の狭間へ」
「次元の狭間……? 自分の世界って、何? あなた、誰?」
矢継ぎ早に出る私の疑問に、少女は呆れたように肩を竦めた。
「解らないなら別にそれでも構いやせんが……。でも、これで解るかのう」
そう言うと少女は指をピストルの形に構える。瞬時に少女の周囲にエーテルの渦が巻き、光弾が放たれた。
私の頬をそれがかすめ、衝撃波で皮膚を切り裂く。頬になにかが伝う感触がした。恐る恐るそれを触り確認の為に目を落とすと、そこには赤い液体が付いていた。
「今のは威嚇じゃ。次はどこを狙おうか? 足? 腕? それとも……心臓?」
少女はくすくすと笑いながら指先をふらふらと揺らした。
私の足はがくがくと震えていた。
光弾。ただのエーテルの塊を放射させるだけの簡単な魔術だ。それを、あれほどの高圧で発射させるこの子供は、ただの魔術師じゃない。
「なんじゃ、逃げんのか? なら……死ぬか」
再び、少女の指先にエーテルが集まる。
私は弾かれたように逃げ出した。
足の震えは止まらない。何度も転びそうになりながら、必死で走る。
私はどこに向かっているんだろう? どこでもいい。とにかく、あの少女の目の届かない場所。しかし、住宅街を走っても走っても、何度も同じ場所をぐるぐる回っているようだった。
おかしい。もう、家にたどり着いてもいいはずなのに!
少女は笑い声を上げながら、空を走るように舞いながら私を追ってくる。
「ほらほぅら、殺されたくなかったら抵抗してみろ!」
少女の指先から放たれる光弾が何発も地面を抉る。それを必死に躱しながら、縺れる足を必死に動かし、私は考える。
時空の狭間。自分の空間。ループする世界。
ここは、あの子が作った異空間なのだろう。けれど、何故?
あの子は私の名前を知っていた。初めから私を狙っていた。通り魔みたいな存在じゃない。
理由なんて解らない。そんな事考えても仕方がない。ただ、なにもせずに殺されるのは嫌だった。
私に出来る対抗手段。私にできる事ってなんだ?
亜空間を作り出せるほど高位の魔術師に、私みたいな出来損ないができる事なんて、何もないんじゃないか?
少女は徐々に距離を詰めてくる。
あぁ、多分あの子は遊んでいるだけなんだ。やる気になれば、光弾なんて初級魔術じゃなくて、もっと高位の術で私なんて瞬時に殺せるはずだ。
でも、そんな遊びで嬲り殺されるなんて、嫌だ。
私は意を決し、身を翻した。
それを見て、少女も詰め寄るスピードを緩める。
私は空間に指先で必死に陣を描く。
今日学校で習った事。召喚の為の魔法陣。
ところどころはうろ覚えで、本当にこんなもので召喚なんてできるなんて思っていない。それでもがむしゃらに描いた。
最後に円を大きく描き、自分にできる精一杯のエーテルを放射させた。
何もなかった空間にぼんやりと私の描いた魔法陣が浮かび上がる。
やった。魔法陣を描く事には成功した。
でも、これじゃダメだ。
うろ覚えの魔法陣。何が現れるかも解らない。それでも私は更にエーテルを放射させて、心の底から叫んだ。
「なんでもいい! 私を助けてくれるもの……!! 来い!!」
今まで自分が出した事もない程のエーテルの渦が巻く。その圧に思わず尻もちをついてしまった。
蹲る私の目の前で、七色のエーテルの光の中、何かがのそりと身を起こすのが見えた。
同時に聞こえる、何かの唸り声。
それは喉の奥をぐるぐると鳴らし、ぽたりぽたりと血の混じった涎を零しながら、血走った目をこちらに向けていた。
血の滴る灰褐色の毛だらけの身体。地面を抉る大きな足と大きな手に並ぶ鋭い爪。大きく裂けた口には牙が並んでいる。つんと尖った鼻先は黒く濡れ、頭上には三角形の耳が見えた。二本足で立つ、ぼろぼろのズボンを履いた巨躯の、手負いの人狼がそこにいた。
「……ワーウルフ?」
傷だらけのワーウルフは私の方をぎらぎらした目で見つめてくる。
正規の召喚ではないのは良くわかっていた。邪悪なものを召喚してしまったかもしれない事も。
だから、それがこちらに襲い掛かってくる可能性が大きい事だって……。
ワーウルフに飛びかかられ、私は咄嗟に顔を両腕で覆った。
脳裏に色々な人の顔が浮かぶ。
お姉ちゃん。お兄ちゃん。弟切さん。佳苗。
しかし、そのワーウルフは鋭い爪で私を切り裂くことも、噛み付くこともなかった。
私の頬を伝う血をべろりと舐め上げ、ズボンに開けられた穴から出されたふさふさの尻尾を振る。私とワーウルフの間に、輪を描くように光が射した。
ワーウルフの体の傷がみるみるうちに癒えていく。
そしてワーウルフは低く、辿々しい口調で言った。
「ちのめいやくは、なされり。りかい、した。わがあるじ、とうじょうゆい」
「へ……?」
そして、改めてワーウルフは少女に向き直り、唸り声と共に大きく吠えた。
それを黙って見つめていた少女はにいっと笑う。
「善き哉」
少女がそう言うと、ワーウルフはすん、と鼻を動かし首を傾げた。
少女が地面に降り立ち、私の方へ歩み寄る。私は思わず身を竦めた。
ワーウルフはきょとんとした目で私たちを見比べている。
少女は私の前に立ち、そして簡単な呪文を唱えると私の頬を優しく撫でた。
暖かな感触と共にひりつく痛みが引いた。
「すまんかったのう、由比。こうでもせんとお主は力を出せんと思うたんじゃ」
「はい……?」
混乱する私を見つめて、少女は胸に手を当てて言う。
「儂の事は……そうさな。エノシマと呼ぶが良い。由比。お主の運命を変えるために遠い未来から来た、……東條家の末裔じゃ」
「まつえい……私たち一族の子孫?」
「そう思ってもらって構わん。時空を飛ぶ時に誤り、童子の姿になってしまってな。……どうじゃ、信じてもらえるか?」
「そっ、そんな事、信じられる訳ないだろう! 私ゃ殺されかけたんだ!」
思わずカッとなり、口についた言葉をそのまま吐き出す。それを聞き、少女はくすくすと笑う。
「じゃが、殺しておらんだろう?」
「だっ、大体、時空転移は禁忌の術だ! 東條流でも禁止されて……」
「禁忌の術なら、そちらの姉御殿も使っておるじゃろう。蟲術、蠱毒の類は東條茅……姉御殿の得意な魔術じゃろう?」
それを聞き、私は言葉を詰まらせる。
割って入ったのは、ワーウルフだった。
「ゆい。そのひとはうそはいっていない。ゆいとエノシマは、にたにおいがする。しんじてもだいじょうぶだ」
それを聞き、少女……エノシマは再びふわりと浮かび、ワーウルフの頭を優しく撫でた。
「ちょっと待って……。色々待って。ええと、まず、人狼さん、どうして私の名前を知ってるの?」
ワーウルフは腰を落とし、私に視線を合わせて言う。
「ちのめいやく。ゆいのちをもらったから、ゆいのことがわかった。テオは、ゆいのものになったから。ゆいも、テオだけのあるじだ」
「テオ……。それが、あなたの名前?」
「じんろう、ワーウルフは、テオのこと。でも、テオのなまえじゃない。テオは、テオだ。ゆいは、ニンゲンだけど、ゆいのなまえは、ゆいだろう?」
辿々しく、ワーウルフ……テオは言う。
それに続くように、エノシマが言った。
「血の盟約とは、生涯、その使い魔だけを使い続けるという契約じゃ。血を交わし合うことで成立する。いわば、伴侶のようなものじゃな。先程テオは口を怪我しておったから、血を舐めた時に交わされたのじゃろう。由比、お主の使い魔はこのテオのみ、そして、テオの主は、お主のみ。どちらかの命が絶えるまで、それは違える事はない。良かったな、由比。立派な使い魔ができたではないか」
くらりと、気が遠のく感覚がした。
しかし、倒れそうになる私をテオの手が優しく支えた。
爪は立てていない。彼に敵意がない事、そして、私に忠誠を誓ってくれている事は自分が一番理解できた。自分の魂が、テオは味方だと叫んでいるようだったから。
「さぁさ、ともかく東條家に行こうではないか。お主よりも姉御殿や兄貴殿の方が話ができそうじゃしのう」
エノシマが指をぱちんと鳴らす。
遠くで子供の笑い声が聞こえだし、どこの家か分からないが、カレーの匂いが漂ってきた。車の走る音も聞こえてくる。
「時空は正された。由比、自分の足で歩けるな?」
「……もう、訳がわかんない……」
頭を抱える私を、私だけの使い魔が尻尾を振りながら見つめていた。