私たちは日常に帰るのだ
透き通る自分の両手を見て、エノシマは悟ったように空を見上げる。雲一つない、深い深い青空を。
「儂が消えるという事は、儂のいた未来は変わったという事じゃ。それが良い方向なのが儂には分かる。あれ以上悪くなりようはないしな」
「エノシマ、いなくなっちゃうの?」
テオがくぅん、と鼻を鳴らす。
それを聞いて、エノシマは少し苦笑した。
「悲しんでくれるのか、テオ」
「だって、エノシマもゆいだ」
「じゃが、儂のテオは死んでしまった。テオ、お主はお主だけの主人の事だけ考えておれば良い。いいな?」
そして、エノシマはお姉ちゃんとお兄ちゃんを見る。
「姉御殿、兄貴殿。どうか健やかで、長生きしてくれ。由比に、儂のような悲しい思いをさせないでくれ……それに、由比」
私は、エノシマに何を言えばいいのか解らなかった。
解らないけれど、思うままに口に出す。地面に膝をつき、顔を伏せたままで。
「私、エノシマが自分だなんて思いもしなかった。エノシマが何を考えてるのかわかんなくて、怖かった事もある。でも、エノシマは私に魔術を教えてくれた。馬鹿な私なのに、わかりやすく教えてくれた」
「自分の事じゃ。どう説明されれば理解できるかなぞ、馬鹿な儂にだって分かる。……由比は、儂なのじゃから」
「長生きして、未来を変えるために長く長く生きて、未来が変わって、自分が消えて、それで満足なのか! お前さん、今まで、150年も、散々苦労してきたんだろう!? これから幸せになろうとか、思わないのかよ!」
私の叫び声が、小波の音に吸い込まれていく。エノシマは困ったように笑い、私の頬を撫でようとした。
しかし、消えようとする身体ではそれは叶わず、私の頬を手のひらは突き通る。
それでも、輪郭線を撫でるように動かした。
「由比。儂は儂の我儘でお主を振り回した。申し訳なかった。けれど、魔術師として、これからも励め。お主の力には無限の可能性があるのじゃから。……けれど、時空跳躍は止めておいたほうが良いな。思った以上に、別れが惜しくなる」
「エノシマ……!」
「あぁ、あと、伴侶となるべきものは選んだほうがいいかもしれんな。嫉妬深い夫を持つと苦労するぞ」
私にその言葉の意味は解らなかった。けれど、エノシマは松本さんを抱き支える健吾をちらりと見て、照れくさそうに笑う。
「また皆に会えて、嬉しかった」
エノシマの足は、もう見えなくなっていた。声も遠くなっていっている気がする。
「エノシマ、私、私、お礼言ってない! 例え、エノシマが仕組んだ事だとしても、私、私は!」
「解ってる。由比、あんたは私なんだから。……ありがとう」
そう言って、潮風に吹かれて、エノシマは姿を消してしまった。まるで、なにもいなかったように。
私は涙を拭って立ち上がる。
テオが惜しむように遠吠えをするのを聞きながら、お姉ちゃんに訊ねた。
「茅姉ちゃんは、全部聞いてたの?」
「エノシマさんが未来から来た、ってとこだけね。でも、あの子があんただって事はすぐに分かったわ。だって、小さい頃のあんた、そのままなんだもん」
続いてお兄ちゃんがぼんやりと空を見上げて言う。
「そうだよな。髪型こそ違うけど……おんなじ顔だもんなぁ」
「じゃあ、うちで気がついてなかったの、私だけだったんだ」
「自分の小さい頃の顔の子供なんて、自分の目の前に現れてもそれが自分だなんて思えないわよ、普通」
「そう……。そうだね。そうだった」
真夏の空はどこまでもどこまでも深く、青く、海はさっきの騒動などなかったかのように凪いでいた。
それから、松本さんを病院に送るため救急車を呼んだり、騒動を聞きつけてやってきた警察に事情聴取を受けたり、近隣住民の皆さんに騒がせてしまった事を平謝りしたりで、結局私たちが家に帰り着いたのは日もすっかり暮れた頃だった。
「疲れたね……。松本さん、大丈夫かな」
「うん、つかれた。でも、まつもとさんにはけんごがついてるし、テオはみんなをまもれてよかった」
「そうだなぁ。……今日は店屋物にするか。さすがに飯作る体力は残ってない」
「それより早くお風呂に入りたいわ、私。弟切、お湯の準備お願いね」
「はい、姉様」
お姉ちゃんが引き戸の鍵を回し、戸を開けようとしたが、戸はびくともしない。
「あれ、鍵かけ忘れた……?」
再び鍵を回すと、今度は軽い音を立ててからからと開いた。
「遅かったのう」
暗い玄関に、巫女服姿の女の子が座り込んでいた。
「えっ……エノシマ!?」
エノシマは照れくさそうに頬を掻く。
「へへ……。どうやら時空跳躍の弊害が出たようでな、時空の波から弾かれてしまったようなんじゃ。もう、エーテルも底をつきかけておる。大きな陣を張る事はできんから元の時空に戻る事も出来ん。……申し訳ないが、また世話になる、ぞ!?」
エノシマが言い切るより先に、私は彼女を抱きしめていた。
エノシマは苦しそうに藻掻いていたが、やがてされるがままになっていた。
「よかった! また、いっしょだ!」
テオが朗らかに笑って言う。
「みんな、いっしょだ。かぞくが、いっしょだ。うれしいなぁ!」
尻尾をぱたぱたと振るテオに、呆れたようなお姉ちゃんと、諦めたような笑顔を浮かべるお兄ちゃん。深々を礼をする弟切さんを見て、私とエノシマは顔を見合わせて笑いあった。
「そうだね、私たちは家族だもん」
もうすぐお盆がやってくる。
そしたら、皆でお父さんとお母さんのお墓参りに行こう。
私たちに家族が増えた事を報告しよう。
「さぁ、今日の夕餉は何かな、兄貴殿」
「ピザでも取るよ。何がいい?」
私とエノシマは顔を見合わせ、声を揃えて言った。
「トマトソースのビッグミート、バジルトッピングで!」
魔術学が発達したパラレルド。
リアルムとは違い、幻獣が空を舞い、ゴブリンの盗賊が闇を暗躍するこの世界は、とてもじゃないけど平和とは言いにくい。
それでも私たちは、この世界で日常を暮らすのだ。
ぐうたらだけど決める時は決めてくれるお姉ちゃんと、家事が好きだけど血生臭い仕事をしているお兄ちゃんと、お姉ちゃんの命令だけが絶対の実直な蚊の式神と、人を食ったような性格の生意気な妹と、無邪気で人懐っこいワーウルフと、やっと人並みに魔術が使えるようになった劣等生の私。
今日の事なんて何も知らない、友達やクラスメイトや学校の先生。
優しいご近所の皆さんや、かかりつけの幻獣医さん。
時々は主人を溺愛する執事に焚きつけられた喧嘩っ早い関西人が、いちゃもんをつけてくる事もあるだろう。
けれど、それが私たちの日常だ。
皆で日常に帰れただけで、私はこれ以上の幸せはないと思った。