弟切の思い出
初めて自分の意識を感じたのは真っ黒な空間だった。
何も見えない、聞こえない、感じない。虚無とはああいったものの事を言うのだろう、と今は思う。だが、その時の自分はそんな事も感じられない、ただの意識を持ったエーテルだった。
どれだけの時間そうしていたのか解らない。ほんの数分だったような気もするし、何千年もそうしていた気もする。
けれど、誰かに呼ばれたような気がした。自分の名前も知らないのに、間違いなく呼ばれた。
顔を上げると光が見えた。光は暖かく、それに触れたいと思って手を伸ばす。その時の自分に手があったのかも解らないが、とにかく夢中でそれに触れようとした。
光は徐々に強さを増し、自分の形を顕にしていく。あまりの眩さに目が眩み、瞬間、意識を失った。
遠くで賑やかな音が聞こえた。祭り囃子だ。それが何を祀っているのかは解らなかった。目を開くとそこは小さな水辺のある林の中で、栗色の長い髪を纏め上げた、浴衣姿の小さな女の子が自分を見上げていた。
「私を呼んだのは、あなたでしょうか」
自然と言葉が口から溢れる。女の子は小さく頷いた。
「式神を、喚んだ。そしたら、あなたがでてきたの。小さな蚊が、大きくなって……あなたになった」
私は自然と女の子に跪いていた。いつの間にか纏っていた浅葱色の狩衣に土がつくのも厭わずに。
「あなたが我が姫君、私の主君。ならば、私に名前を。どうか、その唇で名前を呼んでください」
水辺に少し背の高い、黄色い花が咲いている。少女はそれを指差した。
「あの花のかげから出てきた蚊が、あなたになった。だから、あの花の名前が、あなたの名前。……私、あの花が何ていう名前なのかしらないけど……」
自分にはその名前が解った。知らない世界、初めて見る世界。なのに、何故かその花の名前を知っていた。
「では、弟切草……弟切と、そうお呼びください。弟切は、主の名前も知りとうございます」
「私は、かや。東條家の、東條茅」
「茅様。我が主に忠誠を誓いましょう」
そうして、自分は生まれた。
「私には弟がいるの。でも、まだ小さいから、私のことをおねえちゃんって呼んでくれないんだ」
「左様でございますか」
「弟切は今生まれたばかりだよね? 私より小さいよね? ねぇ、私のこと、おねえさんだって思う?」
自分の背丈の半分ほどしかない幼い主はきらきらした目で自分を見つめてくる。
「そうですね。立派なお姉さまになられると思います」
茅様は私に向き直ると、「じゃあ、私、弟切にとってもおねえさんなのね」と無邪気に笑った。それがなんだか嬉しくて、私は「はい、姉様」と応えた。
「あねさま?」
「はい。敬愛を込めて、私は茅様をそう呼びましょう」
「あねさま、あねさまかぁ。なんだかくすぐったいね」
無邪気に笑う茅様は私の手を引き、自分のご両親だという夫妻に会わせてくれた。厳格そうな男性と、乳飲み子を抱く優しそうに笑う女性は、茅様が自分が召喚した式神だと私を紹介すると、ひどく驚いた様子だった。
「こんな小さいのに、式神を扱えるようになるなんて。茅は立派な魔術師になるわね」
「しかし蚊の式神とは……。蟲術は禁じられているというのに」
「あら、あなた。茅の選んだ式神なのよ。歓迎しなくてどうするの」
「ううむ……しかし」
「気にしなくていいのよ、弟切さん。茅の事、よろしくお願いね」
母上様はそう言って微笑まれたが、父上様は腕を組んで唸ったままだった。
実際、自分の存在は東條家では物議を醸し出したらしい。日夜問わず、様々な話し合いが行われていた。
絆を断ち切り、帰還させるべきだ。
いや、茅の選んだものを否定するのは良くない。尊重するべきだ。
それでも、蟲を従者にするなど東條家にあってはならない事だ。
繰り返される話し合いの中、茅様はある日自分の元へ走り寄ると、膝の上に座って頬を膨らませる。
「大人ってつまんないことにこだわるのよね」
「私は姉様の決断に身を委ねるだけです。全て、姉様の思うままに」
自分がそう言うと、茅様は小さな小刀を取り出した。
自分が生まれた時に父親が打たせた守り刀なのだと、いつか自慢げに教えてくれた。
その鞘を抜き、私の目の前に掲げる。きらり、と抜身の刃が輝いた。
「そう言うとおもって、持ってきたの。弟切、手を出して」
言われるがままに手を差し出す。茅様はまず自分の親指に小刀の刃を当てた。
ぷつりと皮の裂ける音がして、ぷくりと血が溢れ出す。
「姉様、何を」
「弟切も」
そして私の親指にも刃を当て、小さく切り裂く。一瞬痛みが走り、次に自分の身体からあふれる血が指先を伝う。
「血の盟約よ。そうすれば、大人はもう私たちを切り離せない」
大人びた口調で、茅様は痛みをこらえた涙目のままで不敵に笑ってみせる。
私たちは指先を重ねてお互いの傷をあてがい、唱えた。
「血の盟約は成されり。我が下僕、弟切」
「血の盟約は成されり。我が主、東條茅」
温かな光の輪が自分と茅様を包む。魂が、エーテルが、一本に繋がり、紡がれていくのを感じた。
指先の傷はいつの間にか癒えており、私たちはそのまま指を絡め、手を強く握り合う。
細くか弱いこの手の持ち主こそが我が主なのだと、改めて実感した。
血の盟約を成したと知った東條家を取り仕切る父上殿は頭を抱え、母上殿は困ったように笑っていた。
けれど、これで茅様と永久に共にいられるのだと思うと、それだけで自分は胸を熱くした。
茅様はまだ幼い。けれど、自分にとっては唯一無二の存在なのだ。
彼女の為なら、何をするのも厭わない。
国の施設から渡された、茅様と自分を繋ぐ細い銀色の鎖の腕輪を巻かれながら、私はこの上ない幸せを感じていた。
しかし、自分にはひとつ懸念している事があった。自分の媒体となったものが、寿命の短い、か弱い雄の蚊だという事だ。
長くても10日程しか生きられないであろう私に、茅様はなんでもないように言った。
「媒体が寿命を迎えたら、何度だって私は弟切を喚び出すわ。蚊を見つけ出して、雄の蚊を選別して、何度だって召喚する。だって、それじゃなかったら弟切じゃないもん」
茅様は水鉢に呪を施し、そこで蚊を飼育し始めた。
自分にも呪いをかけ、自分の血だけを吸う蚊を育てた。
そのせいで茅様は四六時中雌の蚊に刺されていたが、その手で蚊を潰す事はなかった。
「姉様、お辛くはありませんか」
召喚される度に身体のあちらこちらに塗り薬を塗る姿を見ていると、それが痛々しく、また、何故蚊などという忌むべき存在を媒体に選んだのかと疑問に思った。
しかし、ある時、茅様はこう言われた。
「人から憎まれれば憎まれるだけ、呪いは強くなる。その呪いを糧にして、あなたは一層強くなる。だから、人から憎まれる存在が良かったの。弟切は気にする事無いのよ。私、もっと蟲術を勉強して、自分の言う事を聞く蚊を育てて見せるから」
自分の身を犠牲にしてまで自分を選んでくれたのだと思うと、誇りも感じたが、申し訳なくも思った。
だから、自分はより一層茅様のお役に立てるように勉学に励んだ。
従者として恥ずかしくない振る舞いを、能力を得るために。
車の運転免許から事務作業、家事に至るまで、茅様のお役に立てると思った物は何でも学んだ。
やがて成長した弟君である湘様の遊び相手になったり、新しくお生まれになった由比様のお相手もさせて貰えるようになり、父上殿も母上殿も私を東條家の一員だと認めて貰えるようになった。
……ようやく、そうなったその頃に、事件は起きた。
深夜、家の電話の受話器を持ったまま、すっかり大きくなられた茅様が立ち尽くしていた。やがてゆっくり受話器を置き、うなだれるように蹲る。
「姉様、姉様」
私が恐れ多くもその背を支え、撫で擦ると、茅様は縋り付くように自分に項垂れかかってきた。そして、それこそ蚊の鳴くような小さな声で呟いた。
「お父さんと、お母さんの乗ってた車が事故に遭った。今、病院にいるって、矢剣さんが、エーテルに還っちゃったって。……だから、もう、お父さんも」
矢剣様は、父上殿の使役する火精の名前だ。使い魔は主がいないとその世界に姿を保てない。つまり、もう、父上殿は。
「ともかく、病院に向かいましょう。湘様と、由比様も起こしてまいります。さぁ、姉様」
私はそう言うが、茅様は呆然とされていた。その肩を一瞬抱きしめ、身を離してその目を見つめると私は叫ぶように言った。
「茅様! 長子である貴女が宗家を束ねる立場になられるのです。しっかりなさってください。弟切も側に居ります! どうか、姉様!」
茅様の肩が少し震え、自分の顔を見つめてくる。やがてゆっくり立ち上がり、強く拳を握って言った。
「……支度する。弟切は、湘と由比をお願い」
「了解仕りました」
寝ぼけ眼の湘様と由比様の支度を整え、車に乗り込み病院へと走り出す。
茅様は助手席でじっと車窓を見つめていた。
ようやく病院へとたどり着く。ばたばたと走り回る看護師や医師の間を掻い潜り、東條家の人間だという事を茅様が伝えると霊安室に通された。
そこには、もう物言わぬ姿になられた父上殿と母上殿が並んでいた。
「おとうさん? おかあさん? なんで? ……起きてよ、おとうさん、おかあさん……」
10才になられたばかりの由比様は事情がまだ理解できないのか、不安そうに声を上げる。中学2年生になられた湘様はそんな由比様を抱きしめていた。茅様は涙ひとつ零さず、医師となにか話をされていた。
数日後、お二人の葬儀が終わり、当主の引き継ぎが終わり、東條家に静けさが戻った頃、茅様はやっと初めて、静かに涙を零した。
私はその側にいる事しか出来なかった。茅様が成人式を終えて、秋の虫が鳴き出した頃の事だった。
あれから6年経った。茅様は立派な当主になられた。
忌むべき魔術を扱い、派手な格好をする事で若い自分を誇示するかのように振る舞っている。
家で気が抜けたようにぐうたらしたり、ゲームをしたりするのはただの気晴らしだと思う事にしている。
私も、何度目か解らない程に媒体を変えながら、茅様のお手伝いをさせて頂いている。
湘様は日中は家事をこなしながら、夜になると警察特別捜査課の魔術師関連の事件処理班として戦いに身を置いておられる。
由比様も……。
「ほうれ、由比、やればできるではないか」
「エーテルの火って熱くないんだね……!」
「それでも、物に移れば燃え上がる。投影魔術を使う時は十分に注意せよ。よいな」
曰く未来から来られたというエノシマ様に鍛えられ、魔術師として力を磨いている最中だ。
縁側からそれを眺めていると、隣から声を掛けられた。
「おとぎり?」
「どうかされましたか、テオ」
「ううん、ぼうっとしてたみたいだから、めずらしいっておもっただけ」
由比様の使い魔であるテオが不安げに自分の顔を覗き込んでくる。
「少し、昔を思い出していただけですよ。私が茅様に喚ばれた時の事を」
「そっか。おとぎりは、かやがごしゅじんさまでよかった?」
私は自然と微笑み、答えた。
「はい。茅様は、私の無二の方ですから」
「そっかぁ。テオとおなじだ。ゆいは、テオの、むにのかただ」
「そうですね」
そっと空を望むと、深い青に小さな入道雲が浮かんでいる。
「また、夏が来ますね」
「テオ、ここだとはじめてのなつだ。あついね」
「はい、テオは水分をたくさん取るんですよ。そんなに分厚い毛皮を着ているんですから」
「うん」
どこかで、蚊の飛ぶ音が聞こえた。茅様の育てた蚊だろう。茅様はもう、すっかり蟲を操る術に長けていて、むやみに刺される事もなくなった。
私の今の媒体の寿命はあと3日といったところか。
そして、またあの暗闇に少しの間戻り、また現し世に戻ってくるのだ。
全ては茅様の為。茅様の思うがままに。
それが、式神である自分の天命であり、使命である事が、なにより喜ばしかった。




