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伝書鳩が語る往復書簡

作者: モノマリ

 私には「先生」と呼び、仕えている方が一人いる。先生は文章を書く仕事をしており、私は彼の文章が何よりも好きであったので、身の回りの世話や仕事の管理など、彼が厭うことはすべて請け負っていた。私は先生の窓口役であった。

 して、その先生についてであるが、このお人は、女の心を弄び、死に追いやったことのある、最低なお人である。他ならぬご自身がそう言っていたので、間違いはない。

 先生はしばらく、ある女と手紙のやりとりをしていた。随分と長い期間その往復書簡は続き、私はそれを運ぶ役目を受けた、いうなれば伝書鳩であった。主の言うがまま、ただ手紙を届け続けた、愚鈍な鳩である。

 その女は、手紙の差出人と共に死んだ。私はこれを、女の無理心中であったと思っている。

 先生は、女が死んでからこっち、すっかり抜け殻のようになってしまわれた。




 そもそもの始まりは、先生が缶詰になるための場所として、とある避暑地を選ばれたことからである。先生は人の気配を嫌がる人であったので、さして仕事が切羽詰まっていなくとも、文章だけに集中したいときに都会を離れることはままあった。その時も同じく、いくつかの仕事を抱えて、私と先生は普段の住まいを離れ、列車に揺られ、遠くの避暑地へ向かったのだった。

 先生が缶詰になる場所の条件として、静かで、人があまりおらず、気候が快適な場所である、というものがあげられる。空気や緑が綺麗ならばなお良い。それに当てはまる場所として私が見つけたのが、Xという避暑地であった。そこに唯一ある宿へ長い予定をいれて、先生の缶詰は始まった。

 さて、静かで人があまりおらず気候が快適、そして空気が綺麗となると、これはまた、病人の療養にも適した場所である。故に、私たちが泊まっていた宿にも、病気が原因で都会を離れ、ここで療養しているという人が多くいた。けれど、彼らと顔を合わせる機会はあまりなかった。

 私たちが泊まった宿は二棟からなっている。私たちが借りていたのが北館で、一本川を挟んだところに、もう一棟、南館がある。北館と南館は二本の橋、渡り廊下で繋がれていた。一つの宿が川を跨いでいるのである。中々に奇妙な構造であったが、そのために客が分散され、先生の部屋はいたく静かであったので、文句はなかった。

 私たちが借りたのが北館。そして、療養中の彼らは南館を借りている(向こうのほうが手頃な価格なのである)。これが、私たちが彼らとあまり顔を合わせなかった所以だった。しかし、部屋の窓は二棟とも川に面していたので、時折、窓から彼らの様子が見えることもあった。無論、あまり趣味の良いことではないので、しょっちゅう見るようなことはしなかったが。

 この静かな宿で、先生は窓へ机を向け、穏やかな川のせせらぎや木々の葉擦れの音を耳にしながら、執筆を始めた。その時に依頼された仕事は三本あり、そのどれもがかなりの文字数を要求していたので、これは長丁場になるだろう、と私も覚悟はしていた。先生の邪魔をしないよう隣の部屋に座り、ふすま越しに呼ぶ声があればすぐに向かえるよう待機していた。

 ――さて、私はまだ気がついていなかったのだが、先生と女の交流は、この時からすでに始まっていたものと思われる。後に知ることになるが、女の部屋は、川を挟んでちょうど、先生の部屋の真正面だったのだ。ふと窓の外へ目をやればそこに女が見える――こういった環境の中、先生は次第に女へ惹かれていったのではないかと、私は考えている。


 実際に女と会話したのは、私の方が先であった。

 宿がこのような形状になっているため、宿泊客への郵便物は一括して南館の主人へ届けられ、そこまで各々が自分で取りに行くことになっていた。先生は人との接触を嫌うため、自然、主人へ手紙を受け取りに行くのも私の仕事であった。届く手紙は、仕事を依頼した編集者からのもの、あるいは新たな仕事の依頼相談、また私個人宛として、母の様子を教えてくれる妹からのもの。それぐらいであった。先生への個人的な手紙は、長く仕えている私でも一度も見たことはなかった。

 手紙はあまり頻繁に届くものでもないが、先生は日に一度手紙のことを気にしてみせるので、その時に私は南館へ渡り、主人へ郵便の有無を尋ねるのだった。

 その時も同じように、私は主人から手紙を受け取り、それを軽く確認して、部屋へ戻ろうと廊下を歩いていた。

「もし」

 と、後ろから声をかけられたのだ。線の細い、しっとりとした声だった。

 振り向けばそこには、いかにも薄幸の美人といった女が立っていた。美人薄命を絵に起こせばまさにこうであろう、と言った風な出で立ちであった。女は私を見上げ、くすくすと笑った。

「そちらはもしや、北の方にお部屋を借りている、小説家先生の、お弟子さんでいらっしゃる?」

 不躾にそのようなことを聞かれ、私はむっとしつつ、けれど事実ではあったので頷いた。なぜそのことを知っているのだろう、とまず思い、どうせ誰かから噂が出回ったのだろう、と次に思った。この狭い宿で、噂が出ない方がおかしい。頷いた私を見て、まあ、と女は頬を赤くした。真白い生気のない肌が、内側から火照るようにぱっと赤くなったのだ。

「わたくし、部屋がお向かいですの、小説家先生と。ねえ、あのお方、どのような小説をお書きになるの? わたくし、ぜひとも、お話が聞きたいのよ」

 はあ、と私はよくわからないような返事をした。先生に聞いてみなければ分かりませんね、とかなんとか言って、逃げるように渡り廊下を行った。背中へ熱烈な視線が刺さるような感じもしたが、気のせいだと思うことにした。

 部屋に戻り、私は手紙の内容を先生に伝えた。この日の手紙は、仕事の進捗を尋ねる編集からのものが一通だった。うむ、と先生は低く頷き、仕事は順調であると伝えなさい、とだけ答えた。机の横にまとめられた紙の束を見るに、それは確かなようだった。はい、と私は答え、それから少しばかり迷った。人との関わりを厭う先生へ、先ほどの出来事を伝えるか否かを、だ。しかし先生は、私が報告を怠ると、どんなに些細な事であろうと烈火のごとく怒ったため、私は結局、それを伝えることにした。一応、との前置きをして。

 この時、私はまだ女と先生が窓越しに密会していたと知らなかったから――視線だけの静かな密会だ――先生はおおよそ、くだらないなと吐き捨てるだろうと思っていた。心のうちはすっかり、それに「その通りです」と答えるつもりになっていた。

 しかして、違った。それを伝えた途端、先生は狼狽したようにペンを取り落とし、私を見、それから窓を、窓の外を見やった。その頬は、先ほどの女と同じように、朱に染まっていた。

「――教えて、差し上げなさい」

 と、窓の外を見たまま、先生は言った。何を、と聞こうとしてすぐに、先の女の質問に答えよ、という意味なのだと悟った。私は先生の言葉に驚きつつ、はい、と答えた。

 次の日、いつものように先生が手紙のことを気にし、私は南館へ渡り、主人へ手紙の有無を尋ねた。その日、手紙は届いていなかった。手ぶらの私へ、今度は真正面から、線の細い、しっとりとした声がかけられる。

「もし、お弟子さん。……いかがかしら、小説家先生は、なんとおっしゃっていた?」

 不安そうに眉根を寄せるその顔へ、先生の返事を伝えると、途端それは朱に染まった。ある種、見ていて見事なほどだった。女は火照る頬を両手で包み、まあ、まあ、と繰り返し言った。なんてこと、なんてことかしら、とも繰り返し言った。私が口を挟む暇がないほどだった。女はしばし騒いだ後、

「なんという幸運かしら……」

 という言葉を絞り出し、そしてようやく黙った。私は一つ嘆息すると、先生が紡ぐ美しい文章について、懇切丁寧に女へ説明してやったのだった。


 それからしばし、私を伝書鳩にして二人の会話が始まった。一日に一度、私は手紙の有無を確認するついで、先生からの言葉を女に伝える。部屋に戻ったら今度は先生へ、手紙の内容と女からの言葉を伝える。こんなもどかしいやりとりを、先生と女は随分続けていたように思う。――これは、私の実感にすぎないが。

 先生は流暢な文章を書く反面、悲しいまでに口下手で、女と直に話そうとはしなかった。女はそれでも良いと言い、仄白い顔を赤くして、私が伝える先生の短い言葉を、大層嬉しそうに繰り返した。

 して、どれほどそんなやりとりが続いただろうか。ある時、女は私に――私越しの先生に、くすくすと笑って、このように告げた。

「わたくし、手紙というものに憧れているのです。それを、一度も受け取ったことがないものでして」

 私はそれを、道理だろうと思って聞いていた。先生とは反対に、女の口は軽やかであった。女は先生へ自身の身の上話をも伝え、それは当然、伝書鳩たる私も知ってのところだったのだ。

 曰く、両親は早くに死に、兄弟も姉妹もなく、親戚には全員に煙たがられ、しまいには病を患って、こんなところに一人でいるのだと。両親のわずかばかりの遺産でもって、女はこの宿に住まい、そして明言はしなかったがおそらく――二度と出ることはないだろうと。そんな境遇であれば、手紙など受け取ったことはないだろう。

 私は部屋へ戻り、先生へそれを伝えた。先生はそれを聞くと、ぱっと目を見開いて、すぐに閉じた。しばし何かを考え込んだ後、先生はゆっくりと、再び目を開けた。

「――文通を、してみないかと、伝えなさい。相手は、自分が見繕ってやるからと」

 文通、そういう話になるだろうと思いながら、私はその返事を聞いていた。これほど女へ入れ込んでいる先生だから、女が手紙を欲しがれば、当然そういうことになるだろうと。であるから、前半の言葉に、特に驚きはない。

 しかして解せないのが後半の言葉である。なぜ、先生が相手を見繕う必要があるのか。先生自身が文通相手となるのがよいのではなかろうか? 先生は文章書きである。私を通して口で伝えるよりも、手紙を書いたほうがよっぽど女へ思いを伝えることができるだろうに。

 私の疑問を読み取ってか、先生は付け足すように口を開いた。

「Yという街に知り合いがいるのだ。若く、いい男だ。彼に、あの人の文通相手になってもらうよう、私が頼んでやろう」

 私はそれに何か言いたく思いつつも、先生の頬は朱に染まっていたため、言葉を飲み込み「はい」とだけ答えた。

 一晩の後、女へそれを伝えれば、やはり大層喜んだ。真っ赤な頬へ包むように両手を当て、きゃあきゃあと言って飛び上がった。主人が軽くたしなめに来るほどだった。その後も女の興奮は冷めやらぬようで、私をじっと見上げると、

「すぐ、すぐに手紙をしたためますわ。どうかお手数ですけれど、夕飯の後、もう一度こちらまで来ていただけません?」

 と言った。私は、どうせ先生に取りに行かされるであろうと考え、それに頷いた。


 夕飯の後、赤い頬の女から手紙を受け取り、私は渡り廊下を戻った。部屋に入れば、先生はじっと机を睨みつけていた様子で、ふすまの開く音へぱっと顔を上げると、声よりも何よりも先に手を伸ばして来た。私は先生の手前、丁重に女の手紙を差し出した。

 先生はそれをそっと受け取ると、まるで硝子細工を扱うように優しく開いた。封筒から取り出された便箋へ、先生は目を通していく。かなりの速さで一枚目をめくり、同じように二枚目、三枚目とめくっていった。最後の四枚目を読んでしまうと、先生は静かに手紙をそろえ、再び一枚目から目を通していった。結局それを四度繰り返してから、先生は手紙を抱きしめるように胸へ押し付け、目を閉じた。私は横で黙って待っていた。

 しばしして、先生は目を開け、手紙を胸から離し、優しい手つきで机の上に置いた。それからペンを手に取ると、猛烈な勢いで机に向かった。書き付けているのは便箋だった。この時私はまだ、それがYにいるという男への紹介状なのだろうと、わずかな期待をかけていた。しかし先生は、一枚目の終いまで書いた後、素早く二枚目へと取り掛かったので、これはやはり、と私は思わざるを得なかった。

 先生が四枚目の終いまでペンを動かした後、それを置くのを見計らい、私は決心して声をかけた。

「先生、お聞きしたいことがあります。失礼な問だと、不快に思われるかもしれませんが、どうかお聞かせください」

 ごくりと、思わずつばを飲み込んだ。

「本当に、Yという街には、先生の言う知り合いがいるのでしょうか」

 しぃんと部屋は静かだった。先生は答えず、私へ背中を向けるばかりだった。否、答えなど分かりきっていたのに、聞いた私が悪かったのだ。――もとより、先生個人に宛てた手紙など、届いたことはないのである。

 先生は、自分がしたためた手紙をそっと封筒にいれると、しっかりと封をし、それを私によこした。

「……ここからYまでは、往復でおおよそ四日はかかる」

 私は手紙を受け取ると、はいと頷いた。言いつけ通り、それから四日後に、私はその手紙を女へ渡した。女は、以前とは反対に、酷く静かに喜んだ。頬を赤く赤く染め、受け取った手紙を抱きしめるように胸へ押し付け、それからしばし目を閉じていた。


 そして先生と女の文通は始まった。私はまた伝書鳩にされたが、前よりは楽な仕事であった。手紙を受け取り、渡すだけであったから。

「ああ、お弟子さん。どうか、今日もよろしくお願い致しますね」

 四日に一度、私は女へ手紙を渡し、その返事を受け取って、部屋に戻った。女は手紙を書くのが早かった。朝に手紙を渡せば、昼にはその返事が書き上がっているのが大概であった。

 私はそれを持って渡り廊下を戻り、先生へ手紙を手渡す。先生はいつも物凄い速さで手紙を四度読み返し、それから返事をしたためていた。その日のうちに書き上げてしまうときもあれば、四日まるまるかけて書くときもあった。私は、女の手紙を受け取ってからおおよそ四日――Yへ行って戻ってくるだけの時間をあけて、先生の返事を女へ渡すのだった。

 この往復書簡を、女はもちろんのこと、先生も大層楽しんでいたように思う。ある時など私は、珍しく先生から声をかけられたのだ。おい、と語りかけた先生は、けれどそれからしばし葛藤するように黙りこみ、やがて恐る恐るという風に口を開いた。曰く、

「お前は、あの人から、どのように呼ばれているのだ」と。

 私は、はあ、とすっかり間抜けな声で答えた。確か、お弟子さん、と。

「お弟子さん。それ以外は?」

「それ以外、となると、呼ばれていないように思います。呼び止められるときはおおよそ、もし、か、そちら、か、お弟子さん、のいずれかですので」

「ふむ、そうか」

 先生は二度三度頷いた。その顔が私には、いたく満足気だったように見える。

「そうか。そうか」

 先生はまた何度か頷くと、さっとペンを手に取り、便箋に女への返事を書いていった。――Yという街にいる、先生の知り合いとして。

 解せないのは、先生がなぜ、架空の人物を装って女と文通を始めたのか、である。先生はこれについて口を噤んだので、私はその訳を想像するしかない。けれど私はこの想像に、かなりの自信を持っていた。なにせ先生のこれまでの生活に、一番長く付き添ったのはこの私である。先生がそうする理由にも大方予想がつく。

 先生は、自身へ向けられる好意に対して鈍感であった。自分に自信を持てない人なのである。自分を卑下するあまり、こんな最低辺の人間を好いてくれる人などいるはずがないと、信じ込んでいる節があった。私がこうして先生に仕えるようになるまでにも、私が真に先生の文章を好いているのだと理解してもらうために、まるまる一年はかかったのだ。

 きっと先生は、これを自分の片恋なのだと思っていたに違いない。故に、架空の人物を作り出し、それで女と交流していた。――最低辺の自分でない存在ならば、女に好かれるやもしれないと思って。あるいはそれは、女に拒絶されたり、うまくいかなかったときのための保険である。そのためにYに住む知り合いを作り出し、自分の代役とした。

 それは卑怯な行為かもしれなかったが、けれど、先生はそういうお人だったのだ。


 往復書簡は長く続いた。二人が交わした文字は一万字を超え、五万字を超え、十万字をも超えただろう。その文字を運んでいたのは一手にこの私であった。渡り廊下をいくども通り、私は川越しに、二人の手紙を届け続けた。女の病気は良くなる素振りをみせなかったし、先生はまたいくつかの仕事を請け負って、この宿に残っていた。

 次第に私は、この手紙は、もしや誰も幸せにしないのかもしれない、と思い始めていた。自分は愛されるはずがないと思い込み、架空の人物を代役にしたてた先生と、架空の人物へ嬉々として文をしたためている女。この手紙の行き着く先に、果たして、幸せはあるのだろうか? ――この手紙の終わりは、一体いつになるのだろう?

 その疑問の答えは、割合すぐにやってきた。宿の主人から、女はもう長くないかもしれないと聞いたのだ。かかりつけの医師が言うから、ほぼ間違いはないだろうと。私はそれを聞いたそのままに、女へ手紙を届けに行った。部屋の中、女は寝台で上体を起こし、ぼんやり窓の外を見ていた。――窓の外を。

「ああ、こんにちは。お手紙ね。嬉しい、待っていたのよ」

 女は真っ白い、がりがりの手で手紙を受け取ると、大切そうに抱え込んだ。顔はいつにもまして仄白いように見え、手紙を受け取ったというのに、頬の朱も薄いように思えた。私はそれを見て、言うべきか言うまいか迷った。そしてすぐ、私にそんな権限があるものか、と頭を振った。女はいつの間にやらこちらを見ており、私の様子にか、くすくすと笑った。

「ひとつ、お聞きしてよろしい?」

 私は頷いた。なんだろうかと思った。女は薄く微笑んでいた。

「わたくしの手紙、Yという街になんぞ、届いていないのでしょう? ずっと、この川をだけ超えていたのでしょう? 最初から、お相手は、あのお人だったのでしょう?」

 私はそれに、なんと間抜けなことか、ぽかんと口を開けることしかできなかった。女はまたくすくすと笑った。かろうじて、なぜ、とだけ尋ねると、女は仄白い顔で微笑む。

「愛する人のことですもの。そのくらい、わからないわけがないでしょう? わたくし、あの人のことなら、たといどんなに離れたとしても、たといどんな山の奥にいようとも、たとい遠く海に隔たれたとしても、たとい恐ろしいほどの人の波に埋もれていようとも、絶対に分かる自信があるわ」

 女の返事はいささか現実的ではなかったが、女が先生の代役を見破っていたのは事実であった。それに、今にして思えば、そもそも女が文通ばかり続けていたのはおかしい。――あれほど先生の短い言葉に喜んでいた女が、別の男との文通にかまけ、先生のことを忘れてしまうはずがないだろう。つまるところ、女には端からすべてが分かっていたのだ。いやはや私は、感嘆するしかなかった。

 呆然と見つめる私へ、女はくすくす、笑ってみせる。

「ねえ、お弟子さん、お願いしてもよろしい? わたくし、最期に、あの人と直にお話がしたいのよ」

 それはそれは道理だろう、と私は頷いて、すぐに先生の部屋へ戻った。女がすぐに死ぬと決まったわけではないし、この次の瞬間に死にそうにも見えなかったが、どうしてか私は、この時を逃せば先生と女は話すことができないだろう、と思ったのだった。

 部屋に勢いよく駆け込めば、先生はいたく怪訝そうな顔で待っていた。窓から向こうの部屋の様子を窺っていたのかもしれなかった。私が、女がもう長くないことと、最期に話したがっていることだけ伝えれば、先生は血相変えてすっくと立ち上がった。それから初めて、二人で渡り廊下を走る。

 女の部屋についてみれば、女は胸に何かを抱いていた。がりがりの、白い手で大切そうに抱きしめているそれは、何通もの手紙であった。

「あなた」

 と、女は呼びかけた。先生はそれにびくりと震え、よろよろと女へ近づいた。寝台の傍まで行ったところで、足はがくりと折れ、女へひざまずくような形になる。

「お願いがあるのよ。聞いてくださる?」

 震える先生の手を握り、もう一方の手で一層大切そうに手紙を抱きしめ、女はふふと微笑んだ。

「この手紙のお人を、わたくしにくださらない?」

 そう女が言った時の、先生の後ろ姿と、女の微笑とが、いまだ私のこの目に焼き付いている。

「ひとりで死ぬには、わたくし、いささか、寂しがりがすぎるようなのよ」

 先生は、それに答えられなかった。ただ、ああ、とか、うう、とか呻き声をあげて、女のことをじっと見上げていた。長い間女と先生とはただ見つめ合って、やがてとっぷりと夜が来て、先生は返事をしないまま、私と部屋に戻った。

 翌朝、女は死んでいた。先生の返事を待たずして、これまでの手紙すべてを抱いて死んでいた。故に私は、これを女の無理心中であったと思っている。




 以来、先生はすっかり放心し、文章など一文字も綴れないようになってしまった。私はそれを仕方のないことだと思う。――文字を書いていた先生は、あの時女にとられてしまったのだから。先生はペンを握ることもなく、ただ時折に、自分のせいで女は死んだ、自分の謀りのために、とぶつぶつ呟いた。

 私は編集者へ仕事の断りの手紙を出し、主人へ言って宿を引き払った。そのままここを離れ、元の街へと戻る。いつまでも窓の外を見つめ続ける先生の隣にいるのは、あまりに悲しかった。

 長く列車に揺られ、ようやく戻ってきた街の駅は、何やら妙に騒がしかった。はて、出てくる前は、こんなに活気があっただろうか、と首を捻るほどだった。しかしその時は、離れた間に発展でもしたのだろう、あるいは、何か事件でもあってその野次馬なのだろう、と思い、あまり気に留めなかった。ただ静かな先生が心配だった。人を厭う先生が、このような人混みの中にいることもそうだが――先生から、不機嫌を一切感じないことも心配であった。先生の表情はただただ無であり、私が何を語りかけても、返事をよこしてはくれなかった。早いとこ住まいに戻らねば、と、足早に先生を連れ駅を出た。

 駅の外は、そこもまた人、人、人……であった。こんな雑踏を、私は今まで見たことがない。はて、これはさすがにおかしいぞ、と私がようやく思い始めたとき、先生がぱっと顔を上げた。

 私は驚き、先生? と語りかけるが、やはり返事はない。先生はただ、この異様なまでの人混みへ、じっと目を凝らしているようだった。この人混み、先生の様子、一体どうしたことなのか、と私が混乱していると、そこへ後ろから、声をかけられた。線の細い、しっとりとした声だった。

「もし」

 私はまたもぎょっと驚き、慌てて振り返った。それでも、先生のほうが一段早く振り返っていた。その先にいたのは、女であった。死んだはずの女であった。

 いいや、そんなはずがない――! 頭を振ってよくよく見れば、やはり、それはまったくの別人であった。その顔は快活そうで、肌は血色よく、立ち姿は元気な町娘といった風で、どこも女とかするところがない。

 ああ、しかし、しかし、その「ふふ」という微笑――「くすくす」という笑い方! それがどうにも、不気味なほどに、女によく似ている。

「あなた」

 と、女は呼びかけた。途端、先生はしっかりした声で、

「ああ」

 と答えて頷いた。私が驚きのあまり声も出ないうち、二人は手に手を取り合い、人の波の中へ消えていった。はたと我に返った時にはもう遅く、先生の姿も、女の姿も、もうどこにも見当たらなかった。




 以来、私は先生に会っていない。そして不思議なことに、あの街の駅があれほどまでに混雑したところも見たことがない。次の日に行ってみれば、駅はまた、私たちがXに行く前までの静けさを取り戻していたのだった。他の者に話を聞いてみても、私たちが離れている間に街が発展したこともなく、その日に何か事件があったわけでもなかった。ただその日だけ、あれほどまでの人混みができたわけを、誰も知らない様子だった。私にも、その訳は分からない。ただ残された私には、想像することしかできないのだ。

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[一言]  僭越ながら、感想を書かせていただきます。  気が付いたら、物語に惹き込まれていました。結末を示す冒頭、繊細な描写、語り手の視線、どれをとっても見事としか言い様がありません。  特に後半部の…
2014/06/15 05:24 退会済み
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