同じ穴のむじな
「今朝、見知らぬアドレスからメールが来てたんですよ」
麦茶をグラスに注ぎ、結露の付いた左手を制服にすり付けてから、星江 薫は喉を潤した。喉を鳴らした後、少し考えたように宙を見つめた後、はっきりとした口調で彼女は語り出す。部屋の中には私しかいないから、恐らくそれは私に対して向けられたものだろうと思うが、浅慮は良くないと思い、私は何も語らず黙りこくっていた。
「不愉快になりながらも、とりあえず開いてみたんです。そしたら件名に名前が書いてあったんですけど、それはうちのクラスの佐々くんでしてね」
「佐々というと、あのテニス部の?」
「ご存知なんですか?」
「ああ……『カッコいい男子ベスト5』の佐々だろう? なんでもこれまでに数十人から告白されたとかなんとか」
「ええ、軽薄な顔つきが気にくわない佐々くんです」
「それで、目尻のほくろがエロチックと評判の佐々が君に何の用だったんだい」
「はい。腰パンとか言ってパンツを見せびらかしている佐々くんですがね、なんでも『この間から気になってたんだ。付き合ってくれない?』とのことで」
「見た目に反して頭も良く、一途な男との噂もある佐々であるからには、君はイエスと答えたのだろうね?」
「勿論、『他に好きな人がいるから無理です』と答えましたよ」
「17歳の、青春盛りの男がそんな返事で満足するとは思えないね。おそらく『相手は誰』と聞いたんじゃないか」
「ご明察、感服いたします。そうしたら私がなんと答えたかもお分かりでしょうね」
「いやはや、さっぱり。思いもよらんね」
「高橋 和明って人です」
「ああ。あのネクラとの悪名高い……!」
「本を沢山読んでいる方をネクラという言い方で貶めるのは気にくわない世間の風潮ですね」
「しかし、事実友人は少ないよ」
「周囲の方の見る目が無いんでしょうね」
「酷い言いぐさだ……事実を事実と認めないのは君の悪い癖だと思う」
「事実と言われることを疑うことは必要なことだと思いますよ」
「しかしだ、1+1=2が事実でないとは思わない。事実はどう引っくり返っても事実なんだと思うがどうだろう」
「残念ながら、二進法なら10です。1+1が2にならないこともあります」
「これだから理系は……中学時代に習ったことなんだけどもね、光は小さな粒と習ったんだよ。なのに調べてみたら、『いや、光は波だ』とか『光は粒でいいんだ』、『光は粒であり波である』とかなんとか……やっこさんたちは無知蒙昧たる文系を混乱させようとしてるんじゃないかと思うときがあるよ」
「それで、先輩はどう思いますか?」
「なにをどう思えばいいのだろうか迷うが……そうだね。実はこの頃村上春樹がマイブームなんだよ。読まず嫌いだったけどなかなかどうして面白い」
「ふざけてます?」
「大真面目なのに……」
「私、高橋さんが好きなんです。どうするべきでしょうか」
「諦めるべきだね。佐々の方がよっぽどいい男だよ」
「それじゃあ、私の意思は? 高橋さんを諦めて、そうでもない人と付き合って、それなりに満足して、大学でも少しばかり付き合いはしたけど、別れて、また新たな恋を見つけろと?」
「なかなかに良いプランだと思うけどもさ」
「吐き気を催すほど善良な計画だと思います!」
「やっぱり! そうじゃないかと思ったんだよ」
「感服いたします」
「という訳で、君は冷静になるべきだね。何の取り柄もない男よりかは、君を愛してくれる、顔も、性格も、頭もよっほどいい男と付き合う方が君のためになるよ。若者よ、青春したまえ」
「アハッ、そうですねぇ。ところで先輩」
「なんだい?」
「告白したんですから、返事を聞きたいのですが」
「ノーだよ。西洋かぶれがお嫌いならいいえと言おうか」
「へえ……自慢じゃないですが、私はお買い得ですよ。それなりに可愛いですし」
「まあまあ、君が可愛いのは十分に認めてあげるがね。しかし、それは無理なんだよ」
「どうして?」
「俺には好きな人がいるから」
「誰ですか?」
「君の知らない人、俺に振り向くことは絶対に無い人」
「……そういう人を追うよりも、自分を愛してくれる人を受け入れるべきじゃないですか?」
「そうなんだよね。誰かがさぁ、こういう一方通行を逆転させなくちゃ、日本の少子化は止まらないと思うんだよ」
「それで、先輩は自分がそうしたくないんですよね」
「同じ穴のむじなの癖に。分かってるんだろう?」
「それでも私は先輩が好きです」
「奇遇だね、俺も彼女が好きなんだ」
「……ホント、不毛ですよね」
「鳥取砂丘みたいにね」
「タクラマカン並みには不毛です」
「ゲドロシアでさえオアシスは見つかったというのに……」
「とりあえず、水でも撒いてみましょうか?」
「残念なことに、俺たちはアレキサンドロスじゃないからさ。ここで死ぬことになると思うよ。一歩も動けずにね」
「それじゃあ、一つお願いがあるんです」
「なにかな、叶えられることならしてあげるよ」
「私を振ってください……嫌いだ、顔も見たくないと、言ってくれませんか?」
「……ふーむ、それじゃ君は、佐々くんに何をした?」
「……」
「分かる、分かるよ。だから責めやしない。しかし、愛されるってことはどうしてこんなにも甘美なんだろうね?」
「……はあ。上手くいかないものですねぇ」
「それが醍醐味という奴なのさ」
「とりあえず、今日の所は帰ります」
「そうかい。気をつけて帰るんだよ」
「はい。それでは、また明日……こうなっても諦めないのは、何の因果なんでしょうね」
「さあ? 前世の業が深すぎたとかじゃない?」
「でしょうかね。さようなら、また、明日」
「うん、さよなら」
扉が閉まるのを見届けた後、私は空になったグラスに目をやった。グラスの表面上には珠のような結露が覆っていて、私がグラスを掴めば手のひらを濡らした。濡れた手のひらを、制服に押しつけて拭えば、先ほど眼の前にいた彼女を思い出す。私は彼女を逃がすつもりはない。1人は嫌なんだ。幸せになれない、ゴールの見えたレースを1人で走るのは寂しい。狂ってしまうかもしれない。それが嫌だから私は彼女と共犯者になる。それがいくら不毛な行為だろうと、私は私の行為を改めるつもりはない。自分が幸せになれないのなら、いっそ世界が不幸になればいいとさえ思っているし、それは多分、彼女も思ってることだろうと思う。