天国に着くまで
誰も居ない屋上で。
強い風の吹き付ける屋上で。
パジャマ姿の僕は一人、下界を見下ろした。フェンス越しではない視界は、何故だかとても自由に見える——。
今から、僕は——…………。
目をとじ、僅かに足を上げた、その瞬間。
『ねえ、何してるの?』
振り返ると、大きな二つの瞳が、今まさに飛び降りようとしていた、僕を捉えた。
* * * * *
「ねえねえ、トランプしようよ」
「……いいよ」
彼女の誘いに、少しの間をおいて応える。僕が誘いに乗ったことがよほど嬉しかったのか、彼女は小さな顔に、僕らの頭上の太陽も顔負けの、明るい笑顔を浮かべた。歳は、小学五年生になる僕とそう変わらない筈なのに、トランプ如きに喜ぶなんて、なんともおかしな少女だと思いながら、小さな手で必死にカードを切る彼女を見つめる。……違うな、彼女がおかしな娘であることなど、出会った時から分かりきっていたことだ。そう、彼女と出会ったあの時——。
『ねえ、何してるの?』
『……』
『ねえねえ、答えてよ』
変な少女だと思った。見れば分かる筈なのに、何故そんなに聞きたがるのだろう。
少女は、長い髪をなびかせながら、くりくりした瞳で食い入るように僕を見ている。
『……死のうと、してるんだよ』
『死ぬ? 君死ぬの? なんで? ねえ、なんで?』
無邪気に、本当に不思議そうに追求してくる「なんで」という言葉は、僕の胸に深く突き刺さった。とはいえ、特別痛みはない。何故自分が死のうとしているのか、再確認した位の気分だ。
『シネって言われたから』
僕は淡々と、無表情に答えた。
『シネって言われたら、君は死ぬの?』
『そうだよ。……僕には、決める権利も力も無いから』
『どうして?』
『無いんだ。僕は弱いから』
『ふうん、そうなの。——あ、そうだ! ねえ、ねえ、じゃあね……私が「イキテ」って言ったら、君は生きるの?』
『……』
『君は決められないんでしょう? だから私が「イキテ」ってお願いしたら、君は死なないんだよね?』
『……そう、なのかな……』
『そうだよ! わあ、嬉しいな、お友達ができた!』
そう言って喜んだ彼女はその日、すぐに、建物内のどこかへと走っていった。
僕がそのまま飛び降てしまうとは、考えなかったのだろうか……。
——結果的に、僕は彼女に従ったのだけれど。
「——はいっ! ババ抜きだよ。先にどうぞっ」
トランプを配り終えた彼女は、扇のように広げた自分のカードの背面を、僕へと突き出す。二人しかいないババ抜きでは、どちらがジョーカーを持っているかなど分かりきっていた。しかも彼女は、他よりも微妙に浮かせたカードを、チラチラと目で見ている。そこにあるのが何なのか、こちらには瞬時に分かってしまった。
「………」
緊張した面持ちで、例のカードと僕の顔を交互にみる彼女。
僕は冷酷にも、彼女の気にするそれとは違うカードを一枚抜き取った。
「——あ! ……あ、うー……なんでもない、からっ!」
「……あのさ、これがババなんでしょ」
悔しそうな反応を見せた彼女に、その手元のカードを指差し、僕は言う。このままでは、僕の勝ちが目に見えている。
「え!? なんで分かるのっ!? まさか超能りょ——うわぁっ」
「!」
自分の行動に気付いていなかったのか、僕の指摘に同様した彼女。カードを持つ手の力が緩んだ途端、屋上に吹いた少し強い風に、カードをさらわれてしまった。まるで春にふる桜の花びらのように、それらは舞い上り、僕らの上に、屋上のあちこちに、散らばった。慌ててよろよろと拾いに行く彼女を手伝い、僕も屋上を歩き出す。
「あう……大変だぁ……あれっ、あんなところにも!」
「危ない……僕がとるよ」
屋上のフェンスの向こう側にまで散ったカードをとるため、僕はこの間のようにフェンスをよじ上る。その間、彼女は僕が足を滑らせないかと何度も声をかけてくるけれど、正直、このくらいのフェンスをこえるのは何でもない。難なく反対側に降り立った。
「よっ……と。取れたよ、カード」
「あ、ありがとう! 落ちないように気をつけてっ」
「………」
『落ちないように』……落ちたら、どうなるんだろう? 僕は、下を見下ろした。
「……ら——る……な……」
「え……?」
「……落ちたら、どうなるかな」
「……死んじゃうかも」
「死んだらどうなるの?」
僕は彼女を振り返った。
「ねえ、死んだらどうなると思う?」
僕から彼女への、初めての問いかけだった。フェンス越しではあるのに、僕は初めて彼女を真っ直ぐに見た——そんな気がする。
「死んだら、きっと——…………どうなるんだろう、わかんないや。やっぱり天国とか行けるのかなぁ?」
「行きたい? 天国」
「ううんと……私は行きたくない。私は、今のまま、生きていたい」
その目は、真剣そのものだった。でも——でも僕は。
「……僕は、知ってるんだ」
「……?」
何故だろう。こんなこと、言うべきじゃないのに。
「君は——君だって……」
絶対に、言ってはいけないこと。
「天国へ、行かなきゃならない」
でも……ああ——もうダメだ。
「もうすぐ、死ななきゃならない……!」
——どんなに後悔しても、空気に溶けた言葉は戻ってこない。
それが僕を、更に苛立たせた。
「『今のまま生きていたい』? 綺麗ごと言うなよ。君だって、辛いだろ……!? 僕は辛くて辛くて——シネって言われたら、もうそれしか道がない。選ぶ権利どころか、気力も残ってない。なのに……なのにどうして——!」
生きたい、なんて言える?
最後はもう、言葉になっていなかった。涙と鼻水で顔面はビショビショに濡れ、視界は霞み、彼女がどんな表情なのかすら見えなかった。……でも、僕の言葉に傷つけられた彼女の顔を見ない分、よかったのかもしれないと思う。
「……そう、だね。もうすぐ私、死んじゃうね」
「……」
消え入りそうな、彼女の声。どうしてか、悲しそうには聞こえなかった。……もしかしたら、僕が自分を守る為に、そう解釈しただけなのかもしれないけれど。
「でもね、私、今すごく楽しいから」
「……た、の……しい……?」
思うように声を出せない僕に、彼女は頷いたようだった。そして、言葉を続ける。
「ここにいるから、君と逢えた。君と逢えたから、『イキテ』って言えた。言えたから、君は今も生きててくれる。君は私のお願いを聞いてくれた。君の人生を変えちゃうようなお願いだけど、こんな私の為にきいてくれた」
「ぼ、くは……選べない、だけだ……。ただの、弱虫——」
「それでもいい! 私、君にとって、どうでもいい人間じゃないんだなって……少なくとも、こんな私の言葉を受け入れてくれる人が居るって、それだけですごく救われた。君のおかげだよ。だから、君が自分で選べなくて、『シネ』って言葉で死んじゃうなら——」
「私は何度でも、『生きて』ってお願いするよ」
彼女の『生きて』が、こんなにも身近に、温かく聞こえたのは何故だろう。
その日僕は、その場に泣き崩れた——。
* * * * *
ふと目を開くと、屋上のフェンス越しに外が見えた。
あの時——彼女と出会った日と、何一つ変わらない風景。変わったことがあるとすれば、僕の視線が以前より数段高くなったこと位だろう。
眼下の、芝生が青々と生い茂る広い庭で散歩する人々は皆幸せそうだ。
……いや、分かっている。彼らが皆、それぞれに辛い状況に置かれていることは。
この、どこを見ても「白」ばかりの建物の中で、病と戦う人間がいて、その世話をする人間がいて。それらは、皆が皆、辛いだろう。
なのにどうしてと僕は考える。
何故彼らは笑っているんだろう?
治る見込みがあるから? ——違う。そうじゃない人間だって、沢山いる筈だ。
それなら逆に、早く死んでしまいたいから? ——それも違う。死にたいならこんな施設にいる訳がない。
きっと彼らには——支えがある。
彼女にもきっと、それがあったのだろう。
数年前、小学生だった僕が泣き崩れた翌日、彼女がいつものように屋上に姿を現すことはなかった。
その日一人屋上で物思いにふけっていると、どこかから電子音が響いた。それはきっと、誰かの心拍の止まる音——。同時に、泣きながら誰かの名を呼ぶ女性の声。そこに居合わせたらしい医者が、女性に「お母さん」と優しく声をかけているのが聞こえた。子供を亡くしたのだろうか。女性の涙声が呼ぶ名は、どこかで聞いたことがある気がした。
誰だか分からないけれど、僕の頬は濡れていた。
そしてその後も、彼女とは会わないまま数年が過ぎ去り、この病院の精神科に居た小学生は、同じ病院の医師となっていた。
僕はもう、あの頃程、弱くない。あの時、確かに彼女に救われた。
けれど、僕は死なない訳にはいかないんだ。
君だって分かるだろ? 人間はいずれ死ぬ。それは誰も、避けては通れないのだから。
——ただ、ひとつだけ約束をしよう。
僕は、何度『シネ』と言われようと、君の許しが出るまでは死なない。
天国へ行って、君に会って、君が僕の死を許してくれるまで、僕は絶対に死なないよ。
このサイト様で初めての短編を投稿させていただきました。起承転結を短くまとめるのはなかなか難しいですね……。
ほんの少しでも、共感していただけましたら、幸福の限りで御座います。
ありがとうございました。