第4章 精神科医 坂田
精神科医の坂田一は、その日の外来を終えて深いため息をついた。
ふぅー。
ね、高木さん冷蔵庫に僕の飲みかけのお茶ってまだ入ってた?
はい・・今見てみます。
あ〜ありますあります。でも、先生の外来って先週だったから先週からはいってるんですか?
ん。そうだったと思う。いいんだ、それもってきてよ。
診療室内で、医療秘書の高木にそう話しかけた。
彼は一般大学を出てから精神科医になりたくって医学部に入学した。
医者を目指したわけではない。
あくまで精神科医になりたかっただけなのだ。
解剖や生理学などはテストの点をクリアするためだけにしか勉強しなかった。
だからほとんど今は忘れてしまっている。
もう40歳を過ぎ、仕事をだんだんときつさを感じるようなそんな日々が続いていた。
なにも肉体労働ではないのだから肉体的なものではない。
精神的な疲労だった。
彼が十数年前に医学部を卒業したころ、精神科医の仕事というと、うつ病、躁鬱、精神分裂病(現統合失調症)それと各種神経症・・
そのくらいしかなかった。
それが今はかなり違ってきている。
一般大学の商学部に彼は卒業した。
そのときに、産業心理学をやったのが精神医学に進むきっかけになった。
もっと今の病態から変化していくのではないのだろうか・・
産業心理学をやって思ったのが社会病巣に深さ。
つまり戦後の人の心理の多様化だ。
多様化すると、それだけ多くの病態も出てくるだろう。
昔は一元化していた
簡単にいうと、お国のためという大義名分が国民を支配していた。
そのために、そこから外れる人は少なかった。
もちろん精神が病んでいた人はいただろう。
しかし多様化はここまでではなかったはずだ。
坂田は多様化する心理は多様化する、人格障害を生むと思っていた。
現実はどうなったのか。
予想どうりだった。
境界型人格障害、回避性人格障害、フェチシズム、反社会性人格障害、解離性人格障害・・
様々な病態が報告されている
その大部分が入院することもなく社会に放置されていることに坂田は苦悩していた。
社会生活になんの問題もなければ入院したり治療したりする必要はない。
しかし、人格障害は進行すると坂田は見ていた。
その時点で治療が必要になるのか。
坂田は精神医学会の論文をくまなく調べていたが、そのラインを誰も見定められない。
言えることは社会生活を営めるかどうか・・この点だけなのである。
だから、SM嗜好のサディズムやマゾヒズムは放置されている
まれに、極端に成長したサゾが、殺人を犯す。
それを増大させるがごとく、夜の街にはSMクラブなるものが存在しそこにはその嗜好が合う人が集まる。
そのうち成長していってしまって取り返しがつかなくなることを知らずに・・
それが坂田の苦悩だった。
坂田が勤務する病院は政令指定都市の大きな市立病院だ。
その精神科を月曜と金曜を担当していた。
他にも月曜の担当医はいた。
3人ほど。
一人は症状にあわせて薬物を使用していくことを中心としている、浦田医長と、完全に中医学を使い、鍼と漢方薬を使って治療する渡辺先生と3人だ。
浦田医長と考えはいつも対立する。
医長は症状を抑えることが精神科医療だという。
根治の考えはない
そうして社会生活を営めないものは隔離すると。
渡辺先生は根治を目指していた。
が、理想は共感するが効きがいまひとつよくないことが渡辺先生の悩みでもあった。
坂田は人格障害を分類しなんとか事件が起きる可能性のある患者を治癒させたかった。
人格障害の治療は今は存在しない。
わずかに渡辺先生の中医理論が理想をいっているがそれも効果が薄いのであれば問題だ。
カウンセリングが行動療法が鬱や神経症に効果的であっても人格障害にはまったく歯が立たない・・
今日の患者のカルテに目を通した。
今日の患者さんは27名
そのうち1名に人格障害の兆候が見られていた。
矢部 弓子 22歳 女性 ビデオ店アルバイト
幼少期よりフェチシズムとみられる執拗かつ自己本位な収集癖がみられ、また
普通は興味を示すとは思われない物体にたいし、収集、性的な快感に近い感覚を
覚える
小学5年で好きな男子生徒のフケを収集
数週間後、薬ビンのそこ3ミリたまったところ自室で、裸になりそれを体にかけて性的快楽を得ることが初発症状と見られる。
その後高校2年で好きな男子生徒の髪の毛を収集
自宅で卵料理を作り、そこにその髪の毛を裁断し、食べ物にまぜて食べることで快楽を再び得手いる。
高校卒業後、フリーターのときに、自分と付き合った男性の精液をコンドームにいれて収集し、合計、性的関係にあった20人ものコンドーム入り精子を冷凍庫に保管。
たまに外に出して溶かして快楽を得ている。
カルテにはまだ続きがあった。
今日来たのは、この矢部弓子が売春防止法で数日前につかまったことから彼女の特異性に注目した警察からの依頼だった。
彼女は街中の風俗街で声をかけた男性がたまたま私服警官だった。
その声をかけたのが、精子を出してこのゴムにいれてほしいとの言葉だった。
売春行為はもちろん法律で禁止されており、逮捕されるのもそのほとんどが売春によるお金目的である。
そういった場合は精神科医に依頼はない。
しかし、その売春婦の特異な行動、奇異な言葉はまれに精神科医につれてこられることが多い。
多くが自分の存在価値をそこにしか見出さない依存症であることが多い。
セックス依存症。
これも最近よくみる病態ではある。
しかし、この矢部弓子の場合は違った。
明らかに男性の精子目的であった。
坂田の思うのは人格障害であるということ。
しかも病的との境目にある境界型であり、その特異性からフェチシズムと一体化している
フェチ性ともいえる病態の人格障害を示していた。