言葉銀行
夫が死んだ。
20年間寄り添ってきた夫が、死んだ。
彼とわたしは高校で出会った。彼が2つ年上だった。
私たちは、出会って間もなく交際を始めた。暖かい春だった。
彼は多くは語らなかった。ただただ、黙って何かを眺めていた。
それは、動物だったり、植物であったり、空であったり、そして、わたしであったりもした。
それらを見つめる彼の目は、とても綺麗で、そして、わたしのことを見つめる彼の目は、いつも以上に澄んでいた。
お互いに強く惹かれ合ったわたしたちは、すぐに結婚した。
付き合って1年も経ってない、寒い冬の日だった。
結婚式でも彼は不必要に喋らなかった。ただただ、嬉しそうに目を細めるだけで、もしかしたら、それはわたしだけが気付いた表情の変化であったかもしれない。はたから見れば、無愛想な新郎に見えたに違いない。彼は、1度も表立って笑わず、また1度も表立って泣くことはしなかったからだ。
それくらい、彼は、無口であった。しかし、彼には確かに心があった。彼の眼差しや彼の行動から伝わる愛をわたしはいつでも感じていた。
彼が突然病に伏したのは、結婚してから、ちょうど18年目の日であった。
結婚記念日だからと、お互い、好きなショートケーキを買って、ささやかなお祝いをする予定だった。
しかし、彼は、殆どケーキを口にいれず、また、大好きなワインも飲まずに、寝てしまった。
様子がおかしいと思い、彼に理由を聞くが、決して彼は語らなかった。
ただ、「大丈夫だ。」と小さく呟いて、少し苦しそうに唸るだけだった。
そして、その日の夜中、彼は突然倒れた。送られた病院で精密検査を行ったところ、急性白血病と診断され、余命はわずか1年だった。
その日から、彼はますます無口になった。
病院に入院し、治療を行う毎日に疲れ果てている様子でもあった。
わたしの名前を呼ぶ回数は日に日に減っていった。それに反比例するかのように、彼は、空を見つめることが多くなった。
昔はわたしのことをよく見つめていた彼だが、今は空のほうが気になるらしい。
それでも、わたしと彼の間の愛は薄れわけではなかった。言葉がなくとも、ふとした動作やしぐさ、眼差しから彼の愛情があふれ出ていた。わたしはそれで満足であった。私はそれで、十分であった。
彼は、余命1年と言われていたが、なんとか2年、持った。
最後は、わたしと、両親に見守られて息を引き取った。いつもどおりの無表情に近い顔であった。しかし、そこに潜む穏やかさは、これまでに無いものだった。彼は、最後まで、多くを語ることは無かった。ただ、静かに、静かにその生涯を終えた。
夫がいなくなった喪失感、通夜や葬式などからの疲労感もあり、わたしは、疲れ果てていた。
夫が生前愛用していた書斎の椅子に座り、大きく息を吐く。そうすると、その息が彼の面影を消し去っていくかのように感じられて、慌てて息を吐くのをやめた。いつもよりも密やかに息をした。
わたしは、静かに椅子から腰を上げ、彼の書斎を見回った。
生前と何も変わりの無い棚、入っている書物。好きだった絵、2人で取った写真。
すべてが、思い出となった。過去へとなった。耐え切れない喪失感から、涙がこみ上げてくる。
わたしはそれを必死に押しとどめた。これ以上泣くのはよそうと、昨日、自分で決めたことだった。
唇をかみ締め、もう一度書斎をぐるりと見渡す。すると、彼の生前、決して私に手を触れさせることの無かったものを見つけた。
机の2番目の引き出しであった。
彼は、絶対にわたしにこの引き出しを開けさせなかった。
だから、私は、この中に何が入っているのかも知らないし、開けていいものなのかの判断も付かない。
しかし、引き出しを見たとたん、開けなくては、と感じた。まるで引き出しが、あけてくださいと言っているように聴こえたのだ。わたしは、少し震える手で、引き出しを開けた。
そこには、1冊のノートが静かに横たわっていた。
椅子に座り、1ページ目をめくってみる。
彼の、美しい字が、ノートいっぱいに書かれている。そして、その書かれている内容に、私は思わず涙をこぼした。あまりにも、唐突で、あまりにも、意外だったから、私は、あふれ出る涙をこらえることが出来なかったのだ。
そこには、沢山の、「言葉」が書かれていた。
1行目に、私の名前、2行目以降は「ただいま。」「ありがとう。」「美味しいよ。」「素敵だ。」「似合っている。」「髪を切ったのか?」「今日は、一段と綺麗だな。」「愛している。」「好きだ。」「ずっと、一緒にいよう。」・・・・・・
そんな言葉が、何ページにもわたって書かれていた。生前、彼が使わなかった言葉たちは、皆、このノートに集め、預けられていた。その言葉は、彼が死んだ後も、まだ輝きを温かみを放ち、わたしの心に届いてきた。昨日した約束など、もう、忘れてしまっていた。わたしは、ノートを1ページずつめくりながら、大粒の涙をぼろぼろをながした。
わたしは、ことばなんてなくても十分だった。彼が居るだけで幸せだった。彼の言葉を、無理に求めなかった。
でも、彼は気にしていたのだ。上手く言葉に出来ない自分を、上手く伝えることが出来ない自分を、悔やんでいたのだ。
あの、無口な夫が、毎日、こんな言葉を書き連ねていたと考えると、嬉しさとおかしさがこみあげてくる。思わず、泣き笑いをしてしまった。涙は止まることはないのに、私はとても嬉しい気持ちでいっぱいだった。そして、そんな彼の不器用で堅実的で真面目な部分に、また、惚れ直した。
「私も、愛していたわよ。ありがとう。」
彼のお気に入りの椅子に座ったまま、1冊のノートを抱きしめ、夫の気配がまだ残っている方へ、小さく呟いた。




