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第4話 忘れもの市の真実

地下書庫の空気が、一段冷えた。

誰もすぐには口を開かなかった。


青い燭火が揺れている。書棚の影が、床の上に長く伸びていた。古い王たちの名を刻んだ壁は、黙って三人を見下ろしている。

レオンハルトは本を見つめていた。


「では、私が失っていたものは……」


「王国が忘れたかったものかもしれません」


アメリアが震える声で言った。


「私への記憶が、王国に都合の悪いものだと?」


エリアナはそう言って、自分の声が少しも震えていないことに気づいた。

怒りは、深く沈むと静かになるのだ。

だが本だけでは、すべては分からなかった。

忘れもの市がなぜ生まれたのか。

ロシュフォール家がなぜ関わるのか。

エリアナがなぜ呪いの中心に浮かび上がったのか。

その答えは、地下書庫にはなかった。

しばらくして、エリアナは言った。


「忘れもの市へ行きます」


レオンハルトが顔を上げた。


「危険だ」


「知っています」


「エリアナ」


「殿下」


彼女は彼を見た。


「私の記憶を、私に選ばせてください」


レオンハルトは、何かを言おうとして、やめた。

そして、深く頭を下げた。


「一緒に行かせてほしい」


エリアナは少しだけ考えた。


「足手まといにならないのでしたら」


「努力する」


「努力では困ります」


そのとき、アメリアが小さく息を漏らした。

笑ったのだと気づくまでに、少し時間がかかった。


「私も参ります。癒やしの力は、市の瘴気に少しは効くはずです」


こうして三人は、もう一度、月のない夜の忘れもの市へ向かった。

王都の東門を抜けると、道は長く歪んだ。街灯は背後で遠ざかり、草むらからは虫の声も聞こえない。霧は膝のあたりから湧き、やがて腰まで覆った。


市場の灯が見えた。

赤い灯。

青い灯。

濡れた土の匂い。

獣脂の煙。

忘れたはずの声。

露店には、相変わらず奇妙な品が並んでいた。


《父に褒められた記憶。少々色褪せあり》

《三日だけ憎しみを忘れる飴》

《別れ際に言えなかった「ごめん」》

《初恋の相手の横顔。美品》

《子を叱りすぎた夜。苦味あり》

《戦場で逃げた記憶。重いので注意》


アメリアは顔を青くした。


「これが、忘れもの市……」


「人は、よく忘れたがるのです」


エリアナが言うと、レオンハルトが静かに答えた。


「忘れなければ、生きられないこともある」


「ええ」


彼女は露店の奥を見た。


「でも、勝手に忘れさせられてよいことにはなりません」


あの老婆の店は、市の最奥にあった。

老婆は三人を見るなり、にやりと笑った。


「来ると思っていたよ」


「王家が捨てた記憶を探しています」


「高いよ」


「いくらです」


「金では買えない」


「では、何で」


老婆は、曲がった指でエリアナを指した。


「あんたの忘れたくない記憶を一つ」


レオンハルトが前に出た。


「私の記憶を出す」


老婆は鼻で笑った。


「その王子の記憶は、もう削られすぎている。出汁を取りすぎた骨みたいなものさ」


アメリアが小さく呟いた。


「……出汁を取りすぎた骨」


レオンハルトは少しだけ眉を寄せた。


「聖女殿、そこを拾わないでください」


重い霧の中に、ほんのわずか、息のできる隙間が生まれた。

エリアナは老婆を見た。


「私の記憶なら、何でも?」


「忘れたくないものほど、扉は深く開く」


エリアナは考えた。

そして、胸の奥にある雪の日を思い出した。

白い手袋を外した指の冷たさ。

泣いていた少年。

雪の中で、ほんの少しだけ笑った顔。

レオンハルトの記憶は、すでに返した。

だが、同じ日の記憶はエリアナ自身の中にもある。

二つの記憶は同じ出来事を映していても、同じものではない。

エリアナは、初めて恐れを感じた。

雪の日の記憶を失えば、彼を信じていた自分の根も揺らぐかもしれない。

それは、婚約を失うよりも怖かった。

愛を否定されるよりも、さらに奥にあるものを奪われる気がした。

けれど王国の真実を取り戻すために、誰か一人の記憶だけを犠牲にし続けることは、もう許してはならない。


「雪の日の記憶を」


レオンハルトが息を呑んだ。


「駄目だ」


「私の記憶です」


「それは、私にとっても」


「だからこそです」


彼女は彼を見た。


「失う痛みを、あなた一人のものにしないでください」


レオンハルトは、それ以上止めなかった。

老婆は小さな銀の匙を取り出し、エリアナの胸元にかざした。痛みはなかった。ただ、指先から少しずつ温度が抜けていくような感覚があった。


雪。

白い手袋。

泣いていた少年。

冷たい指。

少し笑った顔。

それらが、細い光となって匙の上に集まった。


エリアナの中から、何かが抜けた。

完全には消えなかった。

空白だけが残った。大切だったことは分かるのに、形が分からない。そういう空白だった。

レオンハルトが、痛みに耐えるように目を閉じた。

老婆は満足そうに頷き、黒い箱を差し出した。


「王家が捨てた記憶だ。開けるなら覚悟しな」


エリアナは箱を開けた。

中から、膨大な声が溢れた。

燃える村。

処刑台。

名を消された貴族。

存在しなかったことにされた王女。

戦を避けるために捨てられた条約。

民から奪われた嘆き。

英雄譚の裏に埋められた敗者の声。

そして、忘れもの市を作った初代王の声。


《国を守るには、民の痛みをすべて覚えていてはならない。痛みは器へ流し、器は市へ捨てよ》


エリアナは膝をついた。

あまりの重さに、息ができなかった。

これは歴史ではない。

歴史から削られたものだ。

教科書には載らなかった村の名。

系譜から消された娘の名。

条約文から削られた約束。

英雄譚の裏に捨てられた敗者の声。


国とは、記憶でできている。

何を語り継ぐか。

何を忘れるか。

その選別こそが、国の形を決める。

ならばこの王国は、どれほど多くのものを忘れることで立ってきたのだろう。

アメリアが叫んだ。


「ロシュフォールの名があります!」


黒い箱の底に、古い家紋が浮かんでいた。

ロシュフォール家の先祖は、百年前の内乱で滅ぼされた一族の分家だった。その一族は、王家が忘れもの市を作った証拠を持っていた。だから歴史から削られ、名を変えられ、生き残った血筋だけが公爵家として取り込まれた。


エリアナは笑った。

自分でも、思いがけないほど冷たい笑いだった。


「では、私は婚約者として捨てられたのではなく、証拠として恐れられていたのですね」


レオンハルトは何も言えなかった。

それは彼の罪ではない。

だが、彼の血が継いできた罪だった。

沈黙だけで許されるものではなかった。

記憶は流れ続ける。

これは一人で抱えるものではない。

王子一人が背負うものでも、令嬢一人が暴くものでも、聖女一人が癒やすものでもない。

エリアナは、震える手で黒い箱を掲げた。


「返します」


老婆が目を見開いた。


「誰に」


「王国に」


箱が割れた。

霧が裂け、記憶が夜空へ上がっていく。

それは星のように散り、王都へ、地方へ、神殿へ、兵舎へ、城へ降った。


人々は夢を見た。

自分たちが忘れたこと。

忘れさせられたこと。

誰かに押しつけた痛み。

誰かが代わりに背負っていた記憶。


翌朝、王国は静かだった。

暴動は起きなかった。

革命も起きなかった。

だが、誰もが少しだけ眠れない顔をしていた。


市場の女は、祖母がかつて徴税のために家を追われた夢を見た。

老騎士は、若いころに命令で焼いた村の名を思い出した。

神官は、救えなかった病人の数を初めて数え直した。

王宮の書記官は、封印文書庫の奥に、空白の年表があることに気づいた。

そして国王は、玉座の間で一晩中黙っていたという。


その日の午後、王宮は忘れもの市の存在を初めて認めた。

神殿は、記憶の売買を禁じるだけでなく、失われた記憶を記録する院を作ると宣言した。貴族たちは、百年前の内乱で消された家名を調べ直すことになった。


世界は一日で正しくはならなかった。

忘れていた罪を思い出した者が、すぐに善人になるわけではない。

痛みを返された者が、すぐに赦せるわけでもない。

歴史に名を戻された者たちが、すぐに救われるわけでもない。

けれど、嘘をついたまま眠ることは、少し難しくなった。


数日後、エリアナは温室にいた。

白い椿が咲いている。

冬の光は薄い。

けれど、花は確かにそこにある。


レオンハルトが訪ねてきた。

王子の礼服ではなく、簡素な外套姿だった。手には、白い毛糸の手袋を持っている。


「返しに来た」


エリアナは手袋を見た。


「私のものですか」


「そうだ」


「覚えていません」


「分かっている」


彼は少し笑った。寂しそうな笑みだった。


「私は覚えている」


エリアナは顔を上げた。

レオンハルトは続けた。


「君が私に手袋をくれたこと。手が冷たいと余計に悲しくなる、と言ったこと。私はその日、君の隣にいると息ができると思ったこと」


彼は手袋を差し出した。


「だが、それは私の記憶だ。君の記憶は、君が選んで差し出した。だから、これは君に返したい。記憶ではなく、品として」


エリアナは手袋を受け取った。

覚えてはいない。

けれど、手袋は不思議と温かかった。

かつてなら、その空白を恐れただろう。何かを思い出さなければ、正しく愛さなければ、失ってしまうと思っただろう。


今は違った。

空白はある。

痛みもある。

でも、空白があるからこそ、これから何を入れるかを選べる。


「殿下」


「何だ」


「私は、あなたをもう一度好きになるかもしれません」


レオンハルトが息を止めた。


「本当か」


「分かりません」


「……そうか」


「好きにならないかもしれません」


「そうか」


「それでも、よろしいですか」


レオンハルトは、ゆっくり頷いた。


「今度は、君に選んでほしい」


エリアナは、手袋を膝の上に置いた。


「では、まずはお茶から」


「婚約からではなく?」


「お茶からです」


「厳しいな」


「私は冷たい令嬢ですので」


「違う」


彼は静かに言った。


「君は、忘れてもなお、温かい人だ」


エリアナは少しだけ目を伏せた。

その言葉を信じるには、まだ時間がかかる。

けれど、受け取らない理由もなかった。


温室の外では、雪が降り始めていた。

エリアナはその雪を見た。

何かを思い出しそうで、思い出せない。

胸の奥に、小さな痛みだけがある。

けれど、その痛みを、彼女は売らないことにした。


人は忘れる。

忘れなければ生きられない夜もある。

けれど、忘れたあとに何を選ぶかは、自分で決めていい。


忘れもの市は、今も霧の夜に立つ。

ただし、以前とは少し変わった。

露店の一番奥に、小さな看板が出るようになったのだ。


《買い戻したい記憶がある方は、ご相談ください》


その文字を最初に見つけたのは、母の声を売った青年だったという。

その次に訪れたのは、戦場で友を見捨てた老兵だったという。

忘れることでしか生きられなかった者たちが、少しずつ、忘れたままでは生きられなくなっていった。


エリアナの温室にも、ひとつだけ忘れものがある。

片方だけの白い手袋。

彼女は雪の日を覚えていない。

けれど、その手袋を見るたびに思う。

忘れても、失っても、なかったことにはならないものがある。


だから今日も、彼女は茶を淹れる。

砂糖漬けの菫を、小さな皿に添えて。

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