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第1章

挿絵(By みてみん)


1947年

長いあいだ、それを思い出すことはなかった。

自らの人生を引き裂き、パリへと引きずり出した、あの苦悩を。

理由はすでに散り散りとなり、嵐に舞う枯葉のように消え去っている。

ただひとつ、息苦しく暗い部屋の情景だけが、くっきりと焼きついていた。

その記憶は氷水のように骨の奥へと染み込み、決して離れようとはしない。

狂乱の逃亡から三年が過ぎた今もなお、重く、執拗にまとわりついている。

戻る勇気は、一度として持てなかった。

ただ街をさまよい、胸の痛みを抱えたまま、完全な孤独の中で生きている。

誰にも知られず、誰も信じることなく。

——かつて、何者だったのか。まだ覚えているのだろうか。

その答えは、喪失の霧の中に沈んでいた。

かつては、確かな自我があった。

イングランドに生まれた、意志の強い音楽学生。

だが、屋根裏に身を潜めて過ごした長く恐ろしい年月が、魂を少しずつ削り取っていった。

自由は、雷鳴のように突然訪れた。

そして震えながら、パリの街をさまようことになる。

夜ごとに、眠る場所すら定まらぬままに。

記憶はぼやけていく。

激しい雨に打たれた絵画のように、大切だったものは形を失っていった。

炊き出しでは、出自など誰も気にしない。

イギリス人もフランス人も同じように、栄養粥とゴムのようなスクランブルエッグを与えられる。

その酸っぱい味を、心の底から嫌悪していた。

だが、その感情を表に出すことはなかった。

もはや、味などほとんど感じていない。

思考は、別の場所へと漂っている。

あの息苦しい屋根裏。哀しげに響くイディッシュの歌声。

そして、四年以上にわたって視界と希望を奪い続けた、終わりなき闇。

かろうじて現実につなぎ止めているものは、たった二つ。

凍えた手に握られたヴァイオリンと、

サクレ=クールへ毎日登らずにはいられない、逃れようのない衝動だった。

——もしかしたら、戻れるかもしれない。

そんな狂おしいほどの希望に、すがりつくように。

その日もまた、同じように丘を登る。

神経をすり減らしながら、夜になるまでそこに留まり続ける。

急で危険な石畳のテルトル広場を横切る。

戦前は画家たちで溢れていた場所だ。

無邪気な笑い声、流れるワイン、黄金色に輝く幸福。

かつては、それらが確かに存在していた。

だが今は、墓のように空虚だった。

魂は追放され、喜びは消え失せている。

坂を上る。

モンマルトルを見下ろすサクレ=クールの巨大な影が、まるで裁きを下すかのようにそびえ立っていた。

その周囲には、威圧するように鉄柵が巡らされている。

ようやく頂上へ辿り着いた瞬間、身体が限界を迎えた。

冷たく刺すような大理石の階段へと、崩れ落ちる。

——そのときだった。

堰を切ったように、記憶が溢れ出す。

荒々しく、苦悩に満ち、止めようもなく。

ヴァイオリンケースを傍らに落とし、

震える指で乱れた髪をかきむしる。

嗚咽に似た息を吐きながら、

使い古されたヴァイオリンを持ち上げた。

しばしの沈黙。

やがて、弓を構える。

何かにすがるように。

——1947年、冬のパリ。容赦のない夜。

独り、演奏を始める。

選んだのは、かつて二人を結びつけた曲。

共に作り上げた旋律。

レナール・ヴァルミーが囁いた約束。

——「もう一度、ここで弾こう」

すべてが始まり、

そして、すべてが壊れた場所で。

________________________________________

二人が出会ったのは、一九三六年の春だった。

レコード会社に雇われ、「キンテット・デュ・ホット・クラブ」と共に演奏することになったときのことだ。

仕事は、アメリカのヒット曲をマヌーシュ風に編曲し、録音すること。

本来であれば、薄汚れたパリの酒場でジャズを演奏するなど、引き受けるはずのない仕事だった。

だがロンドンでは仕事が乏しく、金も必要だった。

弟のグレゴリーはすでにアメリカで成功を収め、「年間最優秀作曲家」として称えられている。

将来に不安などない存在だった。

それに比べて——ブラン・アッシュダウンは違う。

仕事は、見つかる場所で探すしかなかった。

父にとって、兄である彼が弟に先を越されたことは、長く尾を引く屈辱でもあった。

レナール・ヴァルミーに抱いた第一印象は、最悪だった。

そのギタリストは、初日から遅刻してきたのだ。

バンドリーダーは激怒している。

顔をしかめる。

フランス人の音楽家と仕事をした経験はあった。

彼らがどれほど当てにならないかも、理解しているつもりだった。

だが——

皆が待っていた「主役」は、その誰よりもひどかった。

二時間後、ようやく現れたのは、ぼさぼさの髪に無精ひげの若者。

手には、擦り切れたギターがぶら下がっている。

ディレクターの叱責を浴びても、

当人はただ、飄々と笑うだけだった。

「そんなに大げさな話じゃないでしょう、ボス」

気だるげな声。

「大げさだと? 二時間も遅刻しておいて、このジプシー野郎!」

後になって知ることになる。

彼はジプシーではなかったが、その生き方は確かにそれに近かった。

持ち物は、あの古びたギターと、セーヌ川沿いの荷車だけ。

調弦を始める様子を見ながら、強い軽蔑が湧き上がる。

貧しさと無頓着さに、思わず冷たい笑みが浮かんだ。

——こんな放浪者より、自分の方がはるかに優れた音楽家だ。

そう、信じていた。

だが、その確信は長く続かなかった。

ほんの数小節で、覆される。

ディレクターの合図。

「イット・ドント・ミーン・ア・シング」が始まる。

その瞬間——空気が変わった。

荒々しく、それでいて正確無比なコード。

思わず入りを逃しかける。

それに気づいたのか、

リズムをわざと崩してくる。

追いかけるしかない。

演奏は次第に、音による対決へと変わっていく。

猫と鼠のような駆け引き。

一節ごとに、より大胆に。

最後の和音が響いたとき、

椅子に崩れ落ち、額の汗を拭った。

何が起きたのか、理解できない。

一方で、レナールは満足げだった。

イギリス人の敗北を楽しむように、軽く笑う。

「このまま汗をかき続けたら、セーヌ川があふれますよ」

小さな笑いが起こる。

顔が熱くなる。

「ヴァルミー!」

ディレクターの怒号。

「ふざけるな。次は『月の光』だ」

ギターに戻る背中を見ながら、屈辱を噛みしめる。

——だが。

次に流れたのは、ドビュッシーではなかった。

レナール自身の曲だった。

短調で、どこか幽玄な旋律。

ゆっくりと、感情豊かに。

そして、息を呑むほど美しい。

言葉を失う。

あれほど粗野に見えた男から、

これほど繊細な音が生まれるとは。

さらに——

まるで、この演奏が一人のためだけにあるかのように。

視線を逸らさない。

最初は目を背けようとした。

だが、途中で諦めるしかなかった。

灰青色の瞳から、逃げられなかった。

曲が終わる。

完全に、心を奪われていた。

「現実に戻れ、アッシュダウン」

ディレクターの声で我に返る。

謝罪し、楽譜を渡して立ち去ろうとしたとき——

呼び止められる。

「紹介がまだだったな」

軽く笑う指揮者。

「レナール・ヴァルミー。フランスで一番時間にルーズなギタリストだ。

 そしてこちらが、ブラン・アッシュダウン。ロンドンの神童だ。

 時間厳守と礼儀は、彼から学べ」

一歩、近づいてくる。

差し出された手。

不遜な笑み。

「はじめまして、ミスター」

「……こちらこそ」

________________________________________


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