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――記録を遡る。事件の、少し前。


これは、失敗の記録ではない。

全てを失っても、正しかった選択の記録だ。


穏やかだった、あの日常へ……



人工空域の景観を横目に、通勤する。



人々は、


清掃アンドロイドが剪定を時々失敗している姿も、

サービス提供ドローンが前方不注意で壁に激突する稀少な瞬間も、

観察しない。少なくとも、立ち止まる者を私は見たことがない。



「おはよう、ナズナ。挨拶は?」


ニヤニヤと通路を塞いでいる大柄な男は、幼馴染の桐生だ。


「おはよう、桐生」


「挨拶が出来るなんて、人間の証明ができたな」


「挨拶は社会的儀礼だよ。人間性の証明にはならない。

君も今わたしに話しかけているけど、

それだけで人格が保証されるわけじゃない」



「はいはい、朝からめんどくさい奴だな」



桐生は軽口を叩く。



彼はこういう時、怒らない。



幼少期から行動傾向は変化していない。


世話焼きで、情に脆く、陽気であり、


他者との距離を詰める速度が異常に速い。



人間だけでなく、ドローンやアンドロイドにも頻繁に話しかける。

結果として、評価が高い個体として認識されている。


私とは性質が大きく異なる。


それでも彼は、定期的に私へ接触を試みる。



理由は、いまだ特定できていない。

継続年数から判断して、一時的な気まぐれではないらしい。


「で、また徹夜で読書か?」


わたしが抱えている旧時代の貴重な本を見て、桐生は笑った。


「三時間は睡眠を取った。医学的には最低限の範囲内だよ」


わたしは充血している目を誤魔化すように、瞬きを多めにした。



「最低限すぎるだろ。倒れるぞ」


「想定の範囲内である。問題はないよ」


「……君が毎朝ここで通路を塞ぐ確率の方が問題だね」


「あら? 心配してくれてるの?」


「違う。観測結果の共有だよ。

……桐生、君はわたしに時間を使わなくていい」



桐生は数秒沈黙し、それから吹き出した。


「なあ、ナズナ。もうちょっと可愛く心配しろよ」


わたしは少し考える。



「『可愛い』の評価軸が不明確だよ。君の期待には応えられない」


「しかし、君の健康状態が悪化した場合、わたしの日常の変数が増える。


したがって、それは望ましくない」



「……それ、遠回しに"心配してる"ってやつじゃないのか?」


「違う」


「君はもう少し健康状態に気を遣うべきだ。

特に、過剰摂取しているプロテインは推奨しないよ」



桐生は言葉を失い、大げさに胸を押さえて、

衝撃を受けた顔のフリをした。



「……筋肉は裏切らないんだぞ。それだけ頭が良くて知らないのかよ?」


「桐生。筋肉は裏切らないのではない。

適切な負荷と栄養と休息を与えた場合、期待通りに反応するだけだ」


「うわ出た、屁理屈」



「裏切らないのは筋肉ではなく条件設定だ。

筋肉にあだ名を付けても答えはくれない。それだけは伝えておく」


桐生は肩を震わせ、笑いを堪えきれず吹き出した。


「ほんと、お前と話してると……世界の見え方が変になるな」


「それは君の認知の補正が行われているだけだ。異常ではないよ」


わたしの発言と同時に、桐生は鞄に手を入れた。



制止はしない。過去の統計上、阻止の成功率が低い。



「どれどれ。どうせまた効率重視の飯だろ?」



弁当箱の蓋が開く。


パン、バナナ、サプリメント。


桐生の予測と一致した。



「……お前、餌か? 食を楽しむって概念ないのか。

仕方ない、今日も弁当は交換。いい加減まともな弁当作れ、俺みたいに」


彼は自分の弁当箱をわたしの鞄に押し込み、代わりにわたしの弁当を持っていく。


拒否は試みない。同じ結果が繰り返されるだけだからだ。



この行動は昔から変わらない。



幼少期、私は固形物の摂取量が極端に少なかった。

それを知る者は少ない。



――桐生は例外だ。



現在の行動は、その延長と推測できる。

だが、わたしは彼に対して対価を支払っていない。



「桐生。私の弁当は"私が生存するための量"だ。君が食べると不足する」


「非効率だよ」


桐生は口の端を上げた。


わたしの発言が予測通りだった場合に出現する表情だ。



「はいはい。じゃあ一緒に昼飯食うしかないな。

俺の弁当、最初から二人分だし」


「昼、迎えに行くから。逃げたら社内放送で呼ぶぞ」


私は立ち止まり、上を見る。


わたしは数秒考える。



「桐生」


「君の時間配分は非効率だよ。

昼休憩は対人関係を拡張する機会として有用性が高い。


私に割り当てる利点は少ない。

――君にとって、だ。意味は理解できるだろ?」


彼を見つめる。


「……他の人間に使う方が、有益だよ」


――次の瞬間、視界が上昇した。



床との距離が急に変化する。


身体が浮いている。


「ぼっちの癖に生意気言うな! このまま研究室まで運ぶぞ」



わたしは肩に担がれていた。

大きなジャガイモ袋のように。


腹部が彼の肩骨に接触し、呼吸がわずかに制限される。


「……降ろしてほしい」


「却下だ」



通路を歩く足音が増える。

複数人の歩行が停止し、視線がこちらへ向いたと推測できる。


会話音量が低下している。


観察対象になっている可能性が高い。



「桐生。現在、我々は非常に注目を集めている」


「だろうな。みなさん、おはようございます!」


「ほら、ナズナも大きな声で挨拶、挨拶」


「……おはよう、ございます」



想定より音量が小さい。



彼は、わははは、と豪快に笑った。

私は心拍数が上昇した。



この反応は、想定していなかった。


人々の視線が、


少しだけ旧時代の人々の「好感」表情に似ていた。


――そう、わたしには見えた。



〜ふんわり観測メモ〜


■清掃管理アンドロイド

街中に多数存在する。

景観維持が主目的と思われるが、たまに失敗する


■サービス提供ドローン(企業広告機)

広告を流す代わりに、道案内や交通検索をしてくれる。

便利だが、広告が長い。

サービス提供ドローンは、壁に衝突しても謝らない


■ヒアラブルデバイス《SEAL》監視補助AI

耳に装着する高機能端末。

個体IDも見えるため、悪用はできない仕様らしい

(詳細な規約は読んでいない)

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