第八話 禁苑の夜と謀略
皇后が軟禁されてから数日が経った。宮廷は表向きは静けさを保っていたが、その実、水面下では激しい攻防が始まっていた。毒殺未遂の真相が明るみに出ることを恐れる皇后一族は、太医院からの毒の鑑定結果を待ちながら、皇帝への圧力を強めていた。
落寿苑は、この数日間、紫雲の護衛によって厳重に守られていた。蓮月は回復に向かっていたが、その心は晴れなかった。彼女は、目の前の男が、愛する宦官である紫雲であると同時に、不義を犯しているという自責の念にかられていた。捨てられたも同然とはいえ、自分は皇帝の妃。紫雲との恋は許されない。
中庭で、紫雲はあくまでも宦官として、蓮月に告げた。
「皇后一族は、必ずこの証拠を握りつぶしにかかります。太医院を掌握しているのは、皇后の弟、柳尚書です」
夜風が、彼の纏う宦官の衣を微かに揺らしていた。
「毒の鑑定報告書が柳尚書の手に渡れば、結果は必ず改竄される。そうなれば、我々が陛下に訴えたことは、皇后を陥れようとした虚言と見なされかねません」
蓮月は、その重圧に息を呑んだ。彼女の命がけの告発が、逆に二人の破滅を招く可能性があった。
「では、どうすれば……」
「太医院には、私の母を知る古参の医官が数人残っています。彼らは、私の正体までは知りませんが、皇后一族の横暴に反感を抱いている者たちです」
紫雲は、一枚の古い文を懐から取り出した。それは、紫雲の母が死ぬ前に残した、ある医官への感謝の文だった。
「今夜、私は彼らに接触します。鑑定報告書が作成され次第、それを柳尚書の手が届かない、信頼できる場所に隠蔽してもらうよう依頼します。そして、その写しを陛下に直接提出する……」
蓮月は、紫雲の冷静な戦略眼に驚かされた。彼は、宮廷の複雑な人間関係を、宦官という立場から長年観察し続けていたのだ。
「私にできることはありますか?」
蓮月は尋ねた。彼女は、ただ守られるだけの存在でいたくなかった。
紫雲は、蓮月の目を見て、わずかに微笑んだ。その眼差しには、愛情と、そしてある種の期待が込められていた。
「あります。非常に危険な役目です。皇后は軟禁されていますが、彼女の侍女だった者たちは、まだ宮廷内に多く残っています。彼らは、皇后への忠誠心から、蓮月様を裏切り者として憎んでいるはずです」
「それは、私を監視していた侍女たちですか?」
「いいえ。別の人間です。それ以外にも敵は多いです。皇后がこれまで排除してきた妃嬪たちの侍女たちです。彼女たちは皇后の没落を願っていますが、同時に、自分の主を失ったことで、宮廷内の地位を失っていますから」
紫雲は、地図を広げるように静かに言葉を続けた。
「柳尚書が次に取る手は、証拠の改竄か、あるいは……蓮月様と私が男女の関係にあるという噂を流すことです。宦官と妃の密通は、重罪。陛下も聞き流すことはできない」
蓮月は血の気が引くのを感じた。彼らの間で交わされた抱擁と口づけは、愛の証であると同時に、宮廷では死罪を意味する。
「だからこそ、蓮月様には、皇后側の侍女たち、特に立場の弱い者たちに、敢えて接触していただきたい」
「接触、ですか?」
「ええ。彼女たちに、翠蘭の行方や、皇后がどれほど冷酷な手段を使ったか、陛下の耳に入るよう話すのです。もちろん、噂の形で」
紫雲は蓮月の手に、再び瑠璃の薬珠を握らせた。
「この薬珠は、あなたの命を救っただけでなく、皇后の悪意を映す鏡です。彼らが最も恐れるのは、皇后が帝位を狙っていると陛下が疑うこと。弱者への酷い仕打ちの噂を広めれば、陛下の疑念は深まります」
「つまり、私は、自らを囮にし、皇后側を刺激して、彼らが次にどのような反撃をしてくるかを探るのですね」
蓮月は深く頷いた。彼女の覚悟が、迷いを打ち消した。
「この命は、あなたに救われたもの。そして、あなたと共に、この腐敗した宮廷を出るためのものです。私は、あなたの剣となりましょう……凛。本当の名を呼ぶのはいずれ……」
「……蓮月様」
紫雲は、蓮月の額に、短く感謝の口付けを落とした。それは、彼らの関係が、愛人という枠を超え、志を共にする戦友となった証だった。
その夜、紫雲は太医院の裏口から、音もなく闇の中へ消えた。彼の腰には、再び短刀が隠されていた。
一方、蓮月は、自らの手で淹れた茶を手に、かつて皇后に使えていた侍女の待機部屋へと向かった。彼女の美しい顔には、わずかな憂いと、深い決意が浮かんでいた。
蓮月が扉を開け、皇后陣営の侍女たちの前に姿を現した瞬間、宮廷の静かな夜は、次の血なまぐさい陰謀の始まりを告げたのだった。
深夜の太医院――。
紫雲は、信頼する古参の医官二人と、薬草蔵の薄暗い一室で密会していた。机上には、すでに厳重に封印された香木の鑑定報告書が置かれている。
「皇子、この報告書には明確に毒物が含まれていることが示されていますが、柳尚書は明日早朝、これを押収するはず。どうされますか」
医官の一人が震える声で尋ねた。
紫雲は静かに報告書に手を伸ばした。
「この原本は、あなたたちの命を守るために、最も安全な場所へ隠してください。そして、明日、陛下に提出されるのは……この写しです」
紫雲は、懐から取り出した、精巧に作られた別の報告書の写しを、原本とすり替えるよう指示した。その写しには、毒の検出結果は正確に記載されていたが、鑑定者の署名と太医院の印が、意図的に曖昧にされていた。
「なぜ、原本を直接渡されないのですか?」
「原本を渡せば、柳尚書は証拠を改竄するだけでなく、鑑定した君たちを罪に陥れ、暗殺するでしょう。これは、あなたたちを守るための策です。写しであれば、柳尚書はそれが偽物だと主張し、鑑定者を追求できません。時間稼ぎができる」
紫雲は、太医院の医官たちの忠誠心と、彼らの安全を両立させる、冷徹な戦略を練っていた。彼は、一歩ずつ、皇后側の喉元に刃を突きつけようとしていた。




