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禁苑の花と影 ~皇帝の寵愛を失った下級妃は美貌の宦官によろめく~  作者: 極北すばる


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第七話 皇帝への直訴

 夜明けを迎えようとする頃、落寿苑の門はすでに太医院の医官と皇帝直属の武官によって固められていた。皇后側の監視役だった侍女たちは、紫雲の手で拘束され、硬い表情で庭先に座らされている。


 紫雲は、厳重に布で包んだ香木と、そして最も決定的な証拠である蓮月を伴い、皇帝の私的な執務室へと向かった。


 皇帝は、早朝の緊急報告に目を覚まされ、事の重大さに青ざめていた。彼は、いつもは医官の白衣を纏う紫雲が、威厳に満ちた姿勢で報告する姿に圧倒されていた。


「陛下。これは、単なる妃嬪の病ではありません。皇后陛下の一族によって周到に仕組まれた暗殺未遂にございます」


 紫雲は、落ち着いた声で報告した。そして、包みを解き、問題の香木を机上に置いた。その微かな香りだけでも、執務室の空気が一変する。


「この香木には、北方に伝わる緩効性の神経毒が仕込まれております。時間をかけて中枢神経を麻痺させ、衰弱死に見せかけるための毒です」


 皇帝の顔は怒りで歪んだ。彼は、自身の後宮が、ここまで血なまぐさい争いの場になっていることに、深い衝撃を受けていた。


「なぜ、そこまで詳しい。そして、どうやって気づいたのだ」


「臣は、偶然にも、この毒の抽出に用いられる珍しい鉱石を知っておりました。そして、蓮月様ご自身が、命を賭して暗殺の意図を私に伝えられたのです」


 紫雲は、瑠璃の薬珠を取り出した。それは蓮月が回復した今、わずかに淡い輝きを戻しつつあった。


「蓮月様は、病に倒れながらも、臣の特殊な知識を信じ、この薬珠の反応で毒の種類と、私が救出に向かうべき正確な時機を示されました。この薬珠は、毒が中枢に達する直前に光を失う。この数刻前に起きたことです」


 紫雲は、蓮月を見た。顔色は蒼白だったが、その瞳には恐れではなく、確固たる決意が宿っている。


「蓮月、すべてをありのままに話せ」


 皇帝が言った。


 蓮月は、震える膝を正し、深く頭を下げた。


「陛下。私の侍女だった翠蘭が連行された後、皇后様より送られた侍女たちが、この香木を毎日焚くことを強く奨めました。私は体が弱いと知られていたため、それを怪しまなかった。しかし、数日前より激しい倦怠感と吐き気が始まり、瑠璃の薬珠の異変に気づきました。それは、私を病死に見せかけ、宮廷から消し去ろうとする企てに違いありません」


 蓮月は、自らの命と引き換えに、皇后の非道を告発した。彼女の弱々しい声と、それに反する強い意志が、皇帝の心を揺さぶった。


 皇帝は、即座に大監を呼び、皇后を私室に軟禁するよう命じた。


「直ちに、この香木を太医院の筆頭医官に調べさせよ! そして、この件に関わったすべての者を捕らえ、尋問せよ!」


 これは、表向きの勝利だった。しかし、紫雲の顔に安堵はなかった。


 その日の午後、紫雲は落寿苑に戻り、蓮月と二人きりで中庭に座っていた。中庭には新しい護衛が配置され、完全に安全が確保されていた。


「無理をさせてしまった。まだ休むべきだった」


 紫雲は、彼女の掌を優しく撫でた。


「いいえ。あそこで陛下に直接訴えなければ、香木の証拠は握りつぶされていたでしょう。あなたは……私を助けるために、自分の身を危うくした」


 蓮月は、紫雲が皇帝に語った「特殊な知識」という言葉が、宦官の身分を越えた、皇子としての知識であることを知っていた。


「私にとって、お前を失うことこそが、最も危ういことだった」


 紫雲は静かに言った。


「皇后は、一時的に軟禁されただけ。彼女の背後には、強大な外戚と、宮廷の有力者がいます。この勝利は、嵐の前の静けさです」


 蓮月は、目の前の男が、一介の医官ではなく、帝国そのものの運命を背負っていることを改めて痛感した。


「あなたは、なぜそこまでして……」


 蓮月が尋ねると、紫雲は遠い目をして、落寿苑の分厚い壁を見上げた。


「私の母は、些細な過ちで、この禁苑の奥で殺された。そして、私の姉もまた……皇后の策謀によって政略結婚の道具にされ、その命を絶たれた」


 紫雲の瞳に、冷たい怒りが宿った。


「この帝国は、皇后とその一族の貪欲な支配によって、内側から腐り始めている。彼らは、皇帝の威光すら手中に収めようとしている」


 紫雲は蓮月の手を取り、深く見つめた。


「私の目的は、皇后を排し、この国の政を正すこと。そして、その目的が達成された暁には、すべてを捨てて、お前と共に、この禁苑を出る」


 蓮月は、紫雲の壮絶な過去と、彼が背負う重い使命に、言葉を失った。彼は彼女を救っただけではない。彼女を、この国の命運を賭けた戦いの、最も重要な同盟者として選んだのだ。


「私は、あなたの決意を裏切りません。たとえ、私が陛下の妃であっても、私の心は常に、あなたと共にあります」


 蓮月は決意の眼差しを紫雲に向けた。この日、落寿苑の中庭で、彼らは、単なる愛人ではなく、互いの命と未来を預け合う、運命共同体となったのだった。


 彼らの戦いは、まだ始まったばかりだ。

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