第六話 瑠璃の沈黙
翠蘭が連行されてから、落寿苑は完全に皇后側の監視下に置かれた。蓮月を囲む新しい侍女たちは、表向きは従順で丁寧だったが、その目は常に蓮月の動きを追っていた。彼女たちの目的は、蓮月が紫雲と接触する機会を完全に断つことであった。
隔離と監視は、蓮月の心を深く蝕んだが、彼女の掌の中には、紫雲から託された瑠璃の薬珠があった。その冷たい感触が、彼女が一人ではない証しだった。
異変は、静かに始まった。
数日前から、蓮月は夜になると微かな頭痛と倦怠感に襲われるようになった。新しい侍女の一人が毎日焚くように勧めた、珍しい香木の香りが心地よかったため、最初は単なる疲れだと思っていた。
しかし、ある夜、湯浴みを終えて寝台に戻った蓮月は、手のひらに握りしめていた瑠璃玉を見た。
それは、まるで生命を失ったかのように、輝きを失っていた。深遠な瑠璃色は消え失せ、代わりに鈍い灰色の濁りが玉全体を覆っていた。
(毒だ……! しかも、瑠璃の薬珠がこれほどまで沈黙するとは、相当に強力な……)
蓮月は即座に悟った。この香木は、時間をかけて中枢を侵し、病死に見せかけるための、皇后側の策略だったのだ。
蓮月は激しい目眩を覚えたが、呼吸を整え、表情を隠した。ここで苦しむ姿を見せれば、侍女たちはすぐに「病状悪化」を報告する。
彼女は震える手で筆を取り、硯に墨を擦った。監視の目を欺く、一瞬の隙を作る必要があった。
蓮月はわざと、湯呑みを床に叩きつけ、大きな音を立てた。
「ああ、なんてこと! 夜中にこんな音を立ててしまったら、他の苑に迷惑がかかる。 早く、この湯呑みの破片を片付けなさい!」
蓮月の声は、弱々しいながらも、冷遇の妃らしからぬ、高貴な命令の響きを持っていた。破片を片付けさせることで、侍女たちの視線が足元に集中する。
その一瞬の隙に、蓮月はすでに書き上げていた短い一筆を、床に散らばった破片の陰に滑り込ませた。
それは、たった一文。
「助けはいらない」
侍女の翠玉が破片を布に包み、下働きの宦官に処理を任せるため、一瞬だけ外に出た。蓮月が仕込んだ小さな絹の布切れは、その布包みに紛れ込ませることに成功した。
夜半、太医院の片隅で、紫雲は眠れぬ夜を過ごしていた。そこに古参の宦官が、慌ただしく駆け込んできた。この宦官は紫雲の部下である。
「紫雲様…… 落寿苑の破片を運んできた下働きが、奇妙なものを置いていきました」
紫雲は渡された小さな布包みを開いた。そこには、湯呑みの破片と共に、血の一滴ほどに小さな絹の布切れが入っていた。そして、そこに書かれた一文を見た瞬間、紫雲の瞳の色は、激しい怒りと決意の色に変わった。
「馬鹿な……瑠璃玉が光を失うほどの毒を……!」
紫雲は、平静な仮面を捨て、医官の白衣を脱ぎ捨てた。彼の内側に隠されていた、皇帝の血を引く皇子の、冷たい炎が燃え上がった。
彼は、自分の部屋の壁に隠されていた、柄に精巧な龍の彫刻が施された短刀を抜き取った。その刃は月光を吸い込むように鈍く輝いていた。
「すぐに、私の名を騙って、陛下に『緊急の御用』を伝える使者を走らせろ。そして、私は、落寿苑へ向かう」
紫雲は、驚愕する部下にそれだけ告げると、夜の禁苑の闇の中を、まるで風のように駆け抜けた。その動きは、長年宮廷の雑務に埋もれていた宦官のものではなく、武芸に長けた皇子のものだった。
落寿苑では、蓮月が既に意識が朦朧とし、呼吸が浅くなっていた。侍女たちは、彼女の病状が悪化しているとして太医院へ「紫雲以外の」医官を呼ぼうとしていた。これは、蓮月を確実に葬るための手筈だった。
その時、閉ざされた苑の門が、地を揺るがす勢いで蹴破られた。
突入してきた紫雲の姿は、いつもの穏やかな太医院の医官ではなかった。彼の纏う空気は殺気立ち、鋭い眼光は侍女たちを射竦めた。
「そこを動くな」
低い声が響き渡った。侍女たちはその威圧感に足が竦み、動けなくなった。
紫雲は一直線に蓮月の寝台へ向かい、彼女の脈を診た。神経毒による中枢の麻痺が始まっていた。
彼は、懐から小さな銀の箱を取り出し、中に収められた真っ赤な丸薬を無理やり蓮月の口に含ませた。
「これは、北方の秘薬だ。全てを吐き出せ、蓮月!」
薬の効能は凄まじく、蓮月は激しい嘔吐と共に、体内に蓄積されていた毒素を吐き出した。
紫雲は、冷静に部屋を調べ、例の香木を見つけ出すと、それを厳重に布に包み、証拠品として確保した。
「この件は、陛下の直々の裁定を仰ぐ。お前たち、一歩でもこの苑から動けば、反逆罪と見なす」
紫雲は、監視役の侍女たちを睨みつけ、厳しく告げた。その顔は、もはや宦官のものではなく、皇帝の血を引く高貴な皇子のものだった。
数時間後。夜明け前の、最も深い闇の時間帯。
紫雲の献身的な介抱によって、蓮月はゆっくりと意識を取り戻した。彼女の掌の瑠璃玉は、再び深い青色を取り戻し、かすかな光を放っていた。
「……紫雲」
蓮月の声は掠れていたが、その瞳は彼を真っ直ぐに捉えた。
紫雲は、安堵からくる深い息を吐き出し、蓮月の額をつたう汗を拭った。彼の表情は、先ほどの戦闘的な皇子の顔から、ただ一人の女性を愛する男の顔に戻っていた。
「もう大丈夫だ。よく耐えた」
蓮月は、彼の顔に手を伸ばした。その手はまだ力が入らなかったが、紫雲は自らの頬を彼女の手に押し付けた。彼が、自分の命と立場を賭して、暗殺の危機から自分を救い出したという事実が、蓮月の胸を締め付けた。
「あの時、あなたが来てくれなかったら、私は……」
「来るに決まっているだろう」
紫雲は蓮月の言葉を遮り、身をかがめて、震える彼女を優しく抱きしめた。
「翠蘭を失い、孤立し、どれほど怖かったことか。お前を毒牙にかけるほど、奴らは追い詰められている。私は、もう二度と、こんな思いを味わいたくない」
彼の腕の力は、愛惜と、決意と、そして諦めにも似た情熱に満ちていた。蓮月は、彼の首筋に顔を埋め、彼の心臓の激しい鼓動を聞いた。それは、命の危機を乗り越えた生と愛の鼓動だった。
紫雲はゆっくりと蓮月の顔を持ち上げ、その唇を塞いだ。それは、激しさよりも、深い安堵と、失いかけた命への切なる思いが込められた口付けだった。二人は身分も立場も超え、今この瞬間だけは、互いの存在を確かめ合うように深く抱き合った。
やがて、紫雲は深呼吸をし、わずかに離れて表情を引き締めた。
「これで、彼らの手は、最早隠しようがない。香木の証拠もある。私たちは、宮廷の表舞台で、戦う時が来た」
紫雲は、蓮月が握る瑠璃玉を優しく指で触れた。
「私たちが共に生き、この禁苑を出るために……」
夜明け前の落寿苑の薄明かりの中、二人は、自分たちが今、帝国の、そして自分たちの運命の転換点に立たされていることを悟った。この命を懸けた一戦は、避けられないものとなった。




