第五話 訣別の夜
兵部尚書が危機を脱した後、宮廷の空気は一時的に静寂を取り戻した。しかし、それは嵐の前の静けさだった。朱大臣と皇后は、自らの計画に予期せぬ亀裂が入った原因を鋭く追及し始めていた。
「落寿苑の蓮月妃は、確かに寵愛を失っているが、先帝の時代から仕える忠実な侍女、翠蘭を傍に置いている。あの妃から情報が漏れることはあり得ないとしても、あの侍女は油断ならない」
皇后はそう断じ、次に打つべき手は蓮月を直接攻撃することではなく、彼女の目と耳を奪うことと判断した。
数日後の朝。落寿苑に新しい監督役の女官が配属された。顔に微笑を浮かべたその女官は、かつて皇后宮に仕えていた者で、蓮月に丁寧な挨拶をした後、すぐに翠蘭の些細な行動を観察し始めた。
そして、事件はすぐに起こった。
翠蘭が太医院へ薬を取りに行った際、彼女が持っていた薬袋の中に、皇后宮の蔵から盗まれたとされる高価な伽羅の香木が、まるで偶然のように紛れ込ませられていたのだ。
新しい監督役の女官は、直ちに翠蘭を「妃の薬の横領と、宮廷の宝物を盗んだ」として糾弾した。
蓮月は、必死に抗弁した。
「翠蘭がそのような卑しい真似をするはずが! 誰かの罠です!」
しかし、蓮月には力がない。冷遇されている妃である彼女の言葉は、宮廷の役人には届かなかった。
「蓮月様。これは宮廷の規律です。証拠物件がある以上、調査が必要です」
翠蘭は、蓮月の手を握り、静かに微笑んだ。
「蓮月様、私のことはお気になさらず。私は、潔白を証明してみせます。どうか、お一人になっても、ご無理をなさいませんよう」
翠蘭は、連行される寸前まで、蓮月を守ろうとする眼差しを向けた。それは、蓮月にとって、母の次に大切で、心の安寧を保つ唯一の存在との、突然の別れとなった。
翠蘭が去った後、落寿苑には皇后側から送り込まれた新しい侍女たちが配置された。彼女たちは蓮月に恭しく仕えたが、その一つ一つの動作は、彼女の監視を怠らない冷たい監視者のものだった。
蓮月は、完全に孤立した。書物を読むふりをしていても、茶を飲むふりをしていても、すべての行動が監視されていることを肌で感じた。静かな落寿苑は、巨大な監獄と化した。
その夜遅く、紫雲が訪れた。彼の顔には、隠しきれないほどの焦燥と苦渋が浮かんでいた。
「すまない、蓮月」
紫雲は、いつものように冷静な「宦官」の仮面を捨て、本心からの謝罪を口にした。
「翠蘭を助けられなかった。助けようと動けば、私の動きが彼らに読まれ、すべての計画が崩壊する。そして、その結果、あなたも私も、翠蘭も……」
蓮月は、涙をこらえ、首を横に振った。
「責めていません。翠蘭は無実です。私を狙った攻撃だと、分かっています。私の身辺に、あなたを追い詰める手が伸び始めたということでしょう」
紫雲は、蓮月を強く抱きしめた。この瞬間だけが、二人が偽りの身分を忘れ、男と女として通じ合える唯一の時間だった。
「私のことを信じてほしい。必ず、翠蘭を救い出す。そして、この国を蝕む膿を、根こそぎ出し切る」
そう言って、紫雲は自分の袖口から、小さな、美しい瑠璃色の玉を取り出した。
「これは、瑠璃の薬珠。毒を中和する力はないが、強い薬効を持つ毒気、特に神経系の毒素が近づくと、一瞬だけ光を失う。私の安全を守るためのものだ」
紫雲は、その瑠璃玉を蓮月の手に握らせた。
「今は、私よりもあなたのほうが危険だ。これを常に身に着けていろ。そして、もしこの玉が輝きを失ったら、すぐに『助けはいらない』と一筆したため、太医院にいる私の元へ、誰の手を使っても届けさせろ」
「『助けはいらない』……?」
蓮月は、その暗号の意味を理解できなかった。
「それは、私に『動け』という合図だ。玉が輝きを失うほどの毒が近くにあれば、それはもはや、あなたが助けを求める時間すら残されていない状況だ。その紙が届けば、私は、すべてを捨ててでも、あなたを救いに向かう」
紫雲は、彼女の目を真っ直ぐに見つめ、強く誓った。
「私の命よりも、あなたを優先する。これが、月下の誓いだ」
そうして、紫雲は闇の中に消えた。蓮月は、手のひらの中の冷たい瑠璃玉を握りしめた。翠蘭を失い、監視の檻の中で、彼女に残されたものは、この小さな玉と、破滅を覚悟した皇子の、切ないほどの愛の誓いだけだった。




