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禁苑の花と影 ~皇帝の寵愛を失った下級妃は美貌の宦官によろめく~  作者: 極北すばる


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第四話 波立つ政局

 香炉の一件から、落寿苑の警備は目に見えて厳しくなった。それは、紫雲の警告通り、皇后と朱大臣が蓮月を単なる「冷遇の妃」ではなく、「警戒すべき対象」と見なし始めた証拠だった。紫雲は連日、太医院の職務を口実に蓮月のもとを訪れたが、その表情は疲弊の色を隠しきれていなかった。


「彼らは次の手に出た。陛下の腹心の部下である兵部尚書(ひょうぶしょうしょ)を、賄賂の罪で告発しようとしている」


 ある夜、竹林の石灯籠の影で、紫雲は声を潜めて蓮月に告げた。


「兵部尚書は陛下の数少ない忠臣だ。彼が失脚すれば、朝廷は完全に彼らの手中に入る。そして、陛下は守るべき盾を失う」


「冤罪なのですか?」蓮月は尋ねた。


「無論だ。しかし、彼らは緻密に証拠を積み上げている。私が手を回せるのは宮廷の裏側まで。朝廷の表の動きを、この宦官の身で阻止するのは難しい」


 紫雲は悔しそうに拳を握りしめた。彼は今、帝国を守る最前線に立っているにもかかわらず、その身分ゆえに身動きが取れない。


 蓮月は、ただ見ていることしかできない自分の無力さに苛まれた。彼女は宮廷で誰からも忘れられ、何の影響力も持たない。しかし、その「存在の軽さ」こそが、今、唯一の武器になるのではないかという考えが、頭をもたげた。


 その数日後、蓮月は翠蘭を伴い、庭を散歩するふりをして、落寿苑の裏門近くまで向かった。最近、この辺りを見慣れない一人の女官が巡回しているのを、彼女は気づいていた。その女官は、皇后宮の華やかな装束ではなく、むしろ下働きに近い地味な格好をしているが、その眼差しは鋭く、周囲を異常なほど警戒していた。


(あれは、私たちを監視しているのではない。むしろ、誰にも見られずに何かを運ぼうとしている……)


 蓮月はわざと、巡回に来ていた女官の近くで立ち止まり、庭の草花について語り始めた。


「翠蘭、あの石竹(せきちく)の根元を見て。新しい芽が出ているでしょう。冬を越すために、根が地中に深く潜ったのよ」


 蓮月が話す間、女官は石竹の根元を一瞬だけ凝視し、すぐに目をそらした。


 その夜、蓮月は紫雲から受け取った短剣を手に、石竹の根元へ向かった。紫雲は、緊急時の連絡手段として、特定の場所に印を残すことを事前に教えていた。


 蓮月が土を掘り起こすと、深さ数寸のところに、小さな絹の包みが見つかった。彼女はそれを拾い上げ、急いで部屋に戻って開いた。


 中には、朱大臣の署名がされた、一枚の紙切れが入っていた。それは、賄賂の受け渡しに関する詳細な手配書で、兵部尚書を陥れるための偽の指示書だった。


(まさか、監視役が、逆に彼らの「運び屋」を兼ねていたとは……)


 驚くべきことに、その紙切れの隅には、朱大臣の紋章に酷似した、しかしわずかに異なる、もう一つの印が押されていた。それは、紫雲が以前、先帝の時代の古文書で言及していた、皇帝の一族に連なる古い氏族の隠された紋様だった。


 紫雲が、朱大官僚の背後に、さらに深い血縁の影があるかもしれないと警戒していた、まさにその証拠だった。


 蓮月は手が震えるのを抑え、この極秘の文書を紫雲に渡す必要があると決意した。


 翌朝、蓮月は「太医院からの薬が切れた」という口実で、翠蘭に頼み、紫雲を呼び出させた。


 紫雲が落寿苑を訪れると、蓮月は彼の目の前で、水に溶けやすい特殊な染料で、絹の包みの内容を、自分の指先に書き写した。そして、それを手のひらで固く握りしめた。


「紫雲様、手を貸してください。薬を飲ませてほしいのです」


 蓮月は平然と装い、紫雲に薬を差し出す。紫雲は、彼女の目を見て、その緊張した表情の裏にある決意を理解した。


 彼は薬の杯を受け取り、蓮月の手の甲に自分の指を優しく滑らせた。その瞬間、蓮月は握りしめていた手が開くのを感じ、濡れた指先に書き写された情報が、紫雲の手のひらに写し取られた。


「ご心配をおかけいたしました、蓮月様」


 紫雲は低く囁き、情報が刻まれた手をすぐに袖の中に隠した。彼の顔は無表情の「宦官」に戻っていたが、一瞬、感謝と驚愕の光が瞳に宿ったのを、蓮月は見逃さなかった。


 その日の午後、朝議で兵部尚書に対する弾劾が始まったが、朱大官僚が提示した証拠は、なぜか決定的な部分で辻褄が合わなくなっていた。紫雲が朝議前に動いたのだ。


 兵部尚書は窮地を脱したが、朱大官僚は蓮月と紫雲の関係を知らず、ただ「何者かの妨害」を感じ取り、宮廷内の警戒を一層強めた。


 落寿苑の奥、一人になった蓮月は、手のひらを石鹸で洗いながら、ふと気づいた。彼女の手のひらに染みついていたのは、微かな染料の跡だけではない。


 それは、紫雲の指が触れた時の、熱と、かすかな血の匂い。


(この命は、もう私一人のものではない……)


 蓮月は、自分が禁断の共犯者となった代償として、自らの孤独な運命すら、紫雲に捧げてしまったことを知るのだった。

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