第三話 月下の誓い
「皇子様……紫雲様」
蓮月は、目の前で跪く男の、偽りのない熱意に胸を打たれた。彼が「凛」という宦官ではなく、皇帝の血を引く皇子であるという事実。二人の間に横たわる危険は、ただの密通というレベルを超え、帝国そのものの根幹を揺るがす反逆の罪ではないのか。
「あなたはすぐにここを離れるべきです」
蓮月は、震える声で懇願した。
「落寿苑は、冷宮同然とはいえ、陛下のお住まいから最も遠い場所。しかし、あなたがここで正体を明かすことは、私にも、あなた自身にも、取り返しのつかない破滅をもたらします」
紫雲は立ち上がり、ゆっくりと蓮月の肩に手を置いた。その手に込められた力強さは、彼の決意の固さを物語っていた。
「蓮月。私の安全は、この『宦官』という役割にある。誰も私を疑わない。そして、あなたは私の秘密を知った唯一の人だ。私は、あなたを危険に晒すために、この秘密を明かしたのではない」
紫雲は窓の外、冷たい月に照らされた庭に目をやった。
「あの毒は、皇后の独断ではない。彼女の背後には、朝廷で権勢を振るう文官の長、朱大臣がいる。彼らは、陛下を意のままに操り、帝国の実権を完全に握ろうとしている」
紫雲の言葉は、まるで氷のように冷たかった。
「彼らの真の目的は、陛下を廃し、傀儡となる幼い皇子を擁立することだ。彼らにとってはあなたのような妃ですら、陛下の恩情を受けたという一点だけで、利用の対象となる。今回、あなたが毒で失態を演じれば、彼らは『陛下は妃の選定すらまともにできない』と朝廷で騒ぎ立て、陛下の権威をさらに貶めることができる」
蓮月は息を詰めた。ただ生きているだけのつもりが、いつの間にか巨大な権力闘争の盤上に置かれていたのだ。
その夜、紫雲は再び落寿苑を訪れた。しかし今度は、薬箱を持たず、ただ月明かりの下、竹林の陰で蓮月を待っていた。
蓮月は翠蘭を早々に寝かせ、静かに裏門を開いた。二人は庭園の隅にある、古びた石灯籠の傍で向かい合った。
「お礼を言いに来ました。あなたが毒を見抜いてくれたから、彼らは次の手を考えざるを得なくなった」
「お礼など必要ありません。私は、己の命がけで知った真実を、あなたと共有しなければならないだけです」
蓮月は、冷たい夜風の中で、紫雲の顔を初めてしっかりと見つめた。そこには、宦官として振る舞う仮面の下に隠されていた、皇子としての憂いと、一人の男としての激しい情熱が混ざり合っていた。
「紫雲様。私が何をできるか分かりません。私はただの妃。しかし、もし私の立場が、何かの役に立つなら……」
紫雲は、蓮月の言葉を遮るように、そっと彼女の頬に触れた。
「あなたは何もしなくていい。ただ、この落寿苑という静かな場所で、心安らかに待っていてほしい。私の唯一の秘密を知る者が、安全であること。それこそが、私の心の支えとなる」
彼はそう言うと、蓮月の額にそっと唇を寄せた。
それは、宮廷の誰にも許されない、禁忌の口づけだった。蓮月は、彼の体温と、夜風に運ばれた竹の香りに包まれながら、初めて、孤独ではないという感覚に満たされた。彼女の心は、破滅の淵に立たされているにもかかわらず、甘く燃え上がった。
「月が、私たちを見ています」
蓮月は囁いた。
「月は、最も遠く、最も見ている。そして、何も語らない」
紫雲はそう答え、蓮月を抱きしめた。
しかし、そのとき、落寿苑の外れの小道から、微かな砂利を踏む音が聞こえた。誰かが、苑の周囲を巡回している気配。
紫雲は即座に蓮月から離れ、彼の顔から情熱の色が消え、再び冷徹な「宦官」の表情に戻った。
「彼らは、失敗を認めない。次は、より大胆な手を打ってくるでしょう。あなたも用心を。私が呼ぶまで、決して落寿苑の敷地から出てはならない」
紫雲はそう警告すると、闇の中へ音もなく消えていった。残された蓮月は、自分の人生が、もはや後戻りのできない、危険な陰謀と禁断の愛の道へと踏み出してしまったことを悟るのだった。




