第二話 凜の禁じられた素顔
蓮月が凛の残した危険な予感に心を囚われてから、数日が過ぎた。落寿苑の静寂は以前と変わらないが、蓮月はもはや心穏やかではいられなかった。庭の睡蓮を見るたび、凛の熱い視線が脳裏に焼き付いて離れない。
ある晴れた日の午後、上級妃が住まう中央の宮殿から、一人の女官が訪れた。
「蓮月様。皇后様より、珍しい香炉を賜りました」
女官が恭しく差し出したのは、白磁に繊細な金細工が施された、見事な香炉だった。中には、西域から伝わったという、伽羅にも似た甘く複雑な香が焚かれている。冷遇されている蓮月には場違いなほど豪華な「賜り物」だった。
「皇后様から? ありがたく頂戴いたします」
蓮月が礼を述べ、女官が退出した後、翠蘭がさっそく部屋の中央に香炉を置いた。
「まあ、何と良い香りでしょう。落寿苑にも、ようやく良い風が吹いてきたのかもしれません」
翠蘭は喜んだが、蓮月は妙な胸騒ぎを覚えていた。冷遇されている妃に、なぜ今、皇后が贈り物をするのか。
香が部屋に満ちるにつれ、蓮月の頭が重くなり始めた。最初は心地よかった香りが、徐々に締め付けるような頭痛に変わり、次第に視界が揺らぎ始める。
「翠蘭……この香、少し、強すぎやしませんか……」
蓮月が声を絞り出した瞬間、扉が乱暴に開かれた。そこに立っていたのは、薬を届ける口実もなく、ただならぬ剣幕で駆け込んできた凛だった。
凛は一瞬で部屋の状況を把握した。彼の瞳は鋭く、香炉に向けられた視線はまるで毒物を見るかのようだった。
「すぐに香炉を外へ!」
凛は荒々しい声で叫ぶと、自ら香炉を掴み、中庭の石畳に叩きつけた。美しい白磁の香炉が砕け散り、中の燃えさしが土の上に飛び散る。
「凛殿!何ということを!」
翠蘭が狼狽する。
しかし、蓮月は凛の行動に抗議する言葉が出なかった。香炉が割れた瞬間、頭痛が急速に引いていくのを感じたのだ。
凛は香炉の破片を冷ややかに見下ろし、顔の筋肉一つ動かさずに言った。
「これは『香毒』です。即効性はないが、数日かけて頭痛と倦怠感を引き起こし、最終的には判断力を奪う」
蓮月は青ざめた。誰かが、彼女に宮廷を追放されるか、あるいは死に至るほどの罪を犯させようと仕組んだのだ。皇后からの贈り物を疑う余地もなく受け入れた自分の愚かさを悔やんだ。
「なぜ、あなたがそれを知っているのですか。これは、太医院の知識ではない。これは……宮廷の奥深くで使われる、秘術なのでは」
蓮月の震える問いかけに、凛は翠蘭を外へ下がらせるよう促した。二人きりになると、凛は先ほどまでの冷たい威厳を消し、静かに跪いた。その動作は、宦官ではなく、忠誠を誓う武官のそれだった。
「蓮月様、あなたは私の、そして真の帝国の唯一の希望となった」
彼はそう言うと、静かに胸元を覆う衣を緩めた。
蓮月は息を呑んだ。宦官であれば、その身は去勢された虚しいもののはず。しかし、凛の胸板は厚く、その下には鍛え上げられた男の体躯があった。
「私は、宦官などではない」
凛の声は、深遠な夜の湖から響くように重々しかった。
「私の名は紫雲。先帝の時代、権力争いに敗れて『死んだ』とされた、陛下の腹違いの弟、すなわち皇子だ」
蓮月の心臓は止まりそうになった。目の前の男は、宮廷の主である皇帝と血を分けたきょうだい……。
「私を殺そうと企む派閥は今も陛下の周りにいる。私は身を隠し、皇后と官僚の動きを探るために、この姿で宮廷に戻った。最も安全で、最も情報が集まる場所……それが、誰からも忘れられた『影』の場所、そして誰からも警戒されない『宦官』の身分だった」
凛、すなわち紫雲は、蓮月の手を握り、その目に熱を込めた。
「落寿苑は、私の隠れ蓑だった。そしてあなた、蓮月。あなたは、この宮廷で唯一、寵愛を求めず、心を清く保ち続けた人。私は当初あなたを監視するつもりだった。だが、気づけば、あなたの清らかな心に惹かれていた」
紫雲は、その瞳に宿した熱を隠そうともしなかった。それは、禁忌の愛を求める男の、純粋で、しかしあまりに危険な情熱だった。
「蓮月様、知ってしまったからには、あなたはもう安全ではない。しかし、私の大切な秘密となった今、私が命に代えてもあなたを守る」
彼の言葉は、蓮月の静かな人生を砕き、彼女を巨大な嵐の渦の中心へと引きずり込んだのだった。




