第十七話 一路、都へ
沈安が乗り込んだ海燕党の小船は、音もなく波を切り、暗い海原を進んでいた。月潮の町の灯りが遠ざかる。
沈安は膝から崩れ落ち、荒い息を整えた。あの武官が命懸けで守ってくれた時間は、何物にも代えがたい。彼の忠義は、皇后一族の腐敗した政治とは、全く異なる高潔なものだった。
船の首に立つ男は、沈安の様子を静かに見守っていた。
「船は速い。この南風に乗れば、三日と持たずに都の近郊まで行ける」
男は言った。
「あなたが……海燕党の頭領でいらっしゃいますか」
沈安は尋ねた。
「烏鳴だ。翠蘭の甥になる。我々は元々はこの海域の特産品を運ぶ行商人だが……。翡翠の飾りは、光を守るための道標だと言ったそうだな。その光、蓮月妃を、都から連れ出すの我々の役目だろう」
沈安は深く頭を下げた。
「感謝いたします、烏鳴殿。状況は急を要します。皇后一族の私兵が町に参りました。紫雲総管と蓮月妃の命は、今この瞬間にも危険に晒されています」
烏鳴は険しい表情で夜の海を見つめた。
「紫雲総管の居場所は?」
「宮廷内の、総管の私邸……ではなく隠れ家と呼べる場所です。いつまで持ちこたえられるか……」
沈安の脳裏に、紫雲総管から託された、宮廷内の隠し通路の地図が蘇った。それは、歴代の宦官たちだけが受け継いできた、帝室の裏庭、禁苑を縦横に走る秘密の経路だった。
「烏鳴殿。海燕党の力は、この船の速さだけではないと聞いています。陸上での潜入能力にも長けていると」
「我々は山地にも慣れている。都の周囲の林野を抜けて、城壁に近づくことなら可能だ。だが、後宮となると話は別だ。あそこは、帝室の聖域。武官でさえ、総管の許可なくしては、立ち入ることはできん」
「そこに、希望があるのです」
沈安は声を絞り出した。
「落寿苑には、代々宦官だけが知る、秘密の抜け穴が存在します。それは、数百年前の築造時に、帝の遊び心で設けられた、庭園の泉の底に隠された通路です。この道を使えば、正面からの衝突を避け、内庭にまで潜入できます」
烏鳴は沈安の顔をじっと見つめた。ただの宦官が、国の根幹に関わる秘密を知っている。この男の覚悟が、並々ならぬものであることを悟った。
「その抜け穴を使っても、蓮月妃の隠れ家まで辿り着くには、武官の目を掻い潜る必要があるだろう。何人同行できる?」
「多くても三名です。この作戦は、奇襲と速さが全て。人数が多すぎると、かえって目立ちます」
沈安は、烏鳴と二人、そして海燕党の中で最も俊敏な者一人を仲間に加えることを提案した。彼は、自らがその秘密の通路を案内し、蓮月妃を船まで連れ出すことを誓った。
「分かった。あんたの忠義を信じる。南の風は、都へ向かって吹いている。だが、船出の時、我々は東の海へ向かった。今一度、我々の船は、西へ舵を切ることになる。それは、もう後戻りはできんという意味だ」
烏鳴は、夜空の下で、深く、力強く頷いた。
「沈安、お前に我々の命に預けよう」
沈安は、夜風に吹かれながら、こぶしを強く握りしめた。紫雲総管と蓮月妃を救い出す。その決意が、沈安の足を奮い立たせた。
彼らの船は、都を目指して、海図にない逆行の旅を続けた。




