第十六話 秘密の船出
馬の蹄の音は、瞬く間に近衛隊長・趙斉が立つ茶屋の前にまで迫った。
「沈安、行け!彼らは私兵だ。問答無用で斬りかかってくるぞ!」
趙斉は扉を蹴破るようにして外へ飛び出し、手にした剣を抜き放った。月の光が、彼の研ぎ澄まされた刃を冷たく照らした。
茶屋の前に現れたのは、十数名の武装した集団だった。彼らは近衛の制服ではなく、黒い闇に溶け込むような深灰色の武具を身につけ、顔をマスクで覆っている。彼らの殺気に満ちた眼差しは、皇帝の勅命ではなく、私的な怨念と報酬によって動かされていることを示していた。
「道を空けろ。我々の獲物は、お前ではない」
集団の先頭に立つ、大柄な男が低く威嚇した。
「俺は近衛隊長の趙斉だ。朝廷の命なくして、この地を通ることは許さない」
趙斉は嘘をついた。彼は今、私的な正義のために立っているが、彼を突き動かすのは、武官としての誇りそのものだった。
「近衛隊長だと?笑止。お前がここにいる時点で、ただの裏切り者にすぎん。斬れ!」
先頭の男の号令と共に、私兵たちは一斉に剣を抜き、趙斉目掛けて突進した。
趙斉は、帝都で最も優れた剣の使い手の一人である。彼は、一歩も動かずに静かに相手の攻撃を受け流した。刃と刃がぶつかり合う甲高い音、肉を断つ鈍い音が、辺りに響き渡る。
趙斉の剣は、皇后一族の腐敗した権力、そして沈安たちに迫る理不尽な悪意を断ち切るかのように、的確かつ無駄のない動きで、私兵たちを次々と薙ぎ倒していった。しかし、多勢に無勢。集団の猛攻は止まらず、趙斉の腕や肩にも、浅からぬ傷が刻まれていく。
その間、茶屋の奥では、沈安と梅芳が脱出の準備をしていた。
「申し訳ございません、趙斉隊長にこのような無理を」
沈安は、外から聞こえる激しい斬り合いの音に、胸を締め付けられながら言った。
「感謝する暇があったら、走れ!あんたの主人の命は、あの武官の命が尽きるまでの、ほんの数刻にかかっているんだよ」
梅芳は沈安の背中を押し、茶屋の裏口を開けた。
裏口は、家の軒が密集する、細い裏道に通じていた。住民たちは、すでに異変に気づき、固く戸を閉ざしている。
「この道をまっすぐ。突き当たりは崖だが、海へ降りる細い抜け道がある。そこに、海燕党の合図を出してある」
梅芳は、沈安に小さなランタンを手渡した。
「この光を振って、『南の風を待つ』と叫びなさい。そうすれば、船が迎えに来る」
「梅芳様は?」
「私は茶屋に戻るさ。ここが私の居場所だ。逃げ隠れはしない。さあ、一刻も早く!」
沈安は深く一礼し、梅芳がくれた時間を無駄にしまいと、全力で暗い裏道を走り出した。
茶屋の前では、趙斉が息も絶え絶えになっていた。彼の周りには、四、五人の私兵が倒れていたが、残りの私兵もまた、趙斉を包囲し、彼の体力を削り取る戦法に切り替えていた。
「この男……精鋭中の精鋭か。だが、終わりだ」
趙斉は最後の力を振り絞り、向かってきた二人を同時に斬り伏せた。しかし、その隙に、背後から振り下ろされた剣が、彼の右肩を深く切り裂いた。剣が手から滑り落ちる。
「沈安、逃げろ」
趙斉は崩れ落ちながらも、倒れた私兵の剣を掴み、茶屋の入口を必死に守る構えを崩さなかった。彼の目は、自らの選択に一片の悔いもなく、ただ燃えるような忠誠の炎だけを宿していた。
沈安は、裏道を走り抜け、ついに海沿いの岩場にたどり着いた。断崖絶壁の下には、激しい潮騒が轟いている。
彼は、梅芳から教えられた通り、細い岩の階段を滑るように降りていった。足は傷つき、息は切れ、全身の感覚が麻痺しそうだった。
ようやく、水面近くの小さな岩場に到達した時、彼は最後の力を振り絞って、ランタンを高く掲げた。
「南の風を待つ!」
暗い海原の遥か彼方から、何の音もなく、一艘の小型の船が静かに岩場へと近づいてきた。帆は下ろされ、漕ぎ手たちは音を立てずに櫓を漕いでいる。
船のへさきには、精悍な顔つきをした男が立っていた。梅芳の甥であり、海燕党の頭領だと沈安は直感した。
「あんたが、翠蘭の伝言を持ってきた者か。紫雲総管と蓮月妃はどこだ?」
頭領は低い声で問うた。
「お二人はまだ都に……。しかし、追っ手が来ています!海燕党よ、どうか私を都へ戻し、お二人を助けるための力を貸してください!」
沈安は、岩場から船に向かって叫んだ。
頭領は沈安の真剣な瞳を一瞥し、静かに頷いた。
「分かった。この船で、私と共に都へ行こう。風は今、南から吹いている」
その瞬間、沈安は紫雲と蓮月の命を繋ぐ者として、海燕党と禁苑へ戻ることになった。




