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禁苑の花と影 ~皇帝の寵愛を失った下級妃は美貌の宦官によろめく~  作者: 極北すばる


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第十五話 二人の忠臣の対峙

 月潮は、潮騒の音に包まれていた。梅芳の茶屋に、夜の海風が吹き抜けていく。


 沈安は、梅芳が用意してくれた奥の小部屋で、火の消えた燭台を見つめていた。頭の中に、翠蘭の悲劇、蓮月妃の苦境、そして紫雲総管の命を懸けた決意が渦巻いている。彼らの行為は大逆罪だが、沈安の心は、彼らが正しいと叫んでいた。


 その時、静寂を破って、格子戸の外に一つの影が立った。


 影は、木造の廊下を歩く音を一切立てず、風のように近づいてくる。沈安の鋭敏な感覚が、その人物が尋常ならざる武術の使い手であることを察知した。


 沈安は静かに立ち上がり、格子戸を開けた。


 月の光が差し込む廊下で、一人の男が立っていた。粗末な旅人服を着ていたが、その立ち姿、腰に下げられた剣、そして何よりも、彼の目から放たれる厳格な光は、宮廷の武官のものだった。


「近衛隊長……趙斉様」


 沈安は、息を詰まらせた。


 趙斉は一歩、前に踏み出した。海風が彼の旅装を揺らし、武官の威圧感を増幅させた。


「沈安。特産品の調査と称して何をしている。紫雲総管の命で行った行為は、もはや謀反と呼ぶにふさわしい」


 彼の声は低く、沈安の心臓を直接掴むようだった。沈安は跪くことなく、ただまっすぐ隊長の目を見返した。


「趙斉隊長。我々は、帝室に牙を剥くつもりはございません。蓮月妃の心はすでに皇帝陛下にも宮廷にもなく。紫雲総管と共に生きたがっておられる。落寿苑という名の監獄に留まることは、お妃様の死を意味します」


「黙れ!」


 趙斉は声を荒げた。一瞬で、彼の剣が鞘から半分引き抜かれ、鈍い光を放った。


「言い訳は無用だ。お前たちが接触しようとしている『海燕党』は、南方の武装勢力。彼らの力を借りて逃亡すれば、追っ手は必ず彼らを反乱分子と断定し、この街は火の海となる。無実の民を巻き込むことは真の忠義ではない!」


 沈安は、その言葉に反論できなかった。趙斉の懸念こそ、最も正しい武人の論理だった。


 その時、奥から梅芳が現れた。彼女は小刀ではなく熱い茶を持ってきていた。


「隊長殿、お茶でもいかが」


 梅芳は卓に茶を置き、沈安と趙斉の間に入った。


「あんたの忠義は分かっている。だがね、忠義なんてものが何の役に立つのか」


 梅芳は、茶屋の軒先から海を見つめた。


「翠蘭は、都へ行く前に言った。『もし私が帰れなくなっても、大事な人を助けてくれるなら、私の命は無駄じゃない』とね。彼女は、たぶん都で蓮月妃が唯一の光だと信じていた。この翡翠の飾りは、光を守るための命懸けの道標なんだ」


 梅芳は、翠蘭が海燕党との連絡役を務めてきた経緯を静かに語った。


「あんたは、皇帝の剣だ。だが、あんたの剣は、皇后一族が振りかざす悪意を斬り捨てたことはあるのかい?この人たちは、その悪意から逃げたいんだ」


 趙斉は、茶の湯気が立ち上る卓を睨みつけたまま、唸った。彼もまた、内廷の腐敗を知っている。


『私が彼らを捕らえれば、彼らは処刑される。そして、皇后一族は復権し、朝廷を私物化するかもしれない』


 趙斉は、ゆっくりと剣の柄から手を離し、茶を一口飲んだ。熱い茶が、彼の喉を通り、迷いを消し去った。


「……紫雲総管の目的は、国外への逃亡で、軍を動員して皇帝陛下に逆らうことではない、と保証できるか」


 沈安は、趙斉の目を見て、決然と答えた。


「誓って。総管の望みは、この国を出てただ静かな場所で、蓮月妃と共に生きることだけ」


「分かった」


 趙斉は、深いため息と共に答えた。彼の武官服は、重い鎧のように見えた。


「沈安。私は、この一件を見なかったことにする」


 沈安の目が、驚きと感謝に満ちた。


「隊長……」


「しかし、そううまくはいかないだろう」


 趙斉は鋭い視線で沈安を見た。


「私の知る限り、紫雲総管の命を狙うものは私だけではない。おそらく皇后一族は、近衛隊とは別の、柳家の私兵を放っている。この町に、彼らが到着する前に、総管を連れてゆけ」


 趙斉は、沈安たちの逃亡を黙認するだけでなく、彼らに迫る真の危険を警告してくれたのだ。


「感謝いたします、趙斉隊長。あなたの恩義、決して忘れません」


 その直後だった。


 町へ降りる山道の方角から、低く、しかし明確な馬の蹄の音が聞こえてきた。数頭ではない。数十数の、武装した集団のものだ。


 趙斉の顔が、にわかに緊張で強張った。


「もう来たか……!皇后の私兵だ。彼らは町の人間ではない。沈安、急げ。彼らは茶屋を目指してくる!」


 趙斉は、一瞬の沈黙の後、自らの剣を抜き放った。彼は、沈安たちを逃がすため、一人で追っ手と対峙することを決めたのだ。

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