第十三話 月潮にて
沈安の旅は、宮廷の静謐な空気とはまるで異なるものだった。馬と船を乗り継ぎ、十日余り。彼はついに南方の港町、月潮に到着した。
潮の香り、雑多な人々の喧騒、そして自由な活気に満ちたこの町は、宦官として生きてきた沈安にとって、眩しすぎるほど異質だった。彼は粗末な旅装に着替え、紫雲から預かった翡翠の飾りと、わずかな情報を頼りに、翠蘭の痕跡を辿り始めた。
宮廷の侍女は、多くの場合、貧しい家庭の出身である。沈安は、まず町の外れにある、貧しい漁民や職人が集まって暮らしていた古い地区を訪ねた。
「翠蘭という娘を知っているか?十年ほど前に都へ行ったきりの……」
人々の反応は鈍かった。十年前のことなど、誰も覚えていない。沈安は諦めずに、その地区の年配の者や、顔の広い行商人たちに声をかけ続けた。
三日目の夕暮れ、沈安は町の中心部から離れた小路に佇む、古びた薬屋の軒先で、一人の老婆に声をかけた。
「翠蘭?ああ、あの元気な娘っ子かい。十年前に都へ行ったが、病で亡くなったと人づてに聞いたね…」
老婆は懐かしむように言った。
「彼女の親族は?」
沈安は身を乗り出した。
「親族は皆、海難事故で亡くなったよ。ただ、彼女を娘のように可愛がっていた、梅芳という女がいた。今は小さな茶屋をやっているはずだよ」
沈安の胸は高鳴った。ようやく見つけた、手掛かりだ。
梅芳の茶屋は、海を見下ろす高台にあった。
沈安は、客のいない昼下がりに店を訪れた。梅芳は五十代ほどの女性で、皺の刻まれた顔には海の女の風情がある。力強い眼差しがあった。
「おや、旅のお方。こんな辺鄙なところに珍しいね」
梅芳は、茶を出しながら尋ねた。
沈安は、周囲に誰もいないことを確認し、深く息を吸い込んだ。彼は懐から、紫雲が渡した翠蘭の翡翠の飾りを取り出し、静かに卓に置いた。
梅芳の目が、飾りに触れた瞬間、彼女の表情は凍りついた。
「……これは。翠蘭が肌身離さず持っていたものだ。あんた、いったい誰だい」
彼女の声は低く、警戒に満ちていた。
「私は、都の宮城から来た。紫雲総管の命で、あなたにお会いしに来たのです」
沈安は、正直に名乗った。
梅芳は立ち上がると、店の奥へ入っていいった。沈安は生きた心地がしなかった。数瞬後、彼女は戻ってきたが、手には一本の細い小刀を握っていた。
「翠蘭は、都で死んだことになっている。あんたが誰であろうと、宮廷の犬なら帰ってもらう」
「お待ちください!」
沈安は慌てて言った。
「私は、翠蘭様の仇ではありません!紫雲総管は、彼女が命を懸けて守ろうとした、蓮月妃の……協力者です。この飾りは、翠蘭様から蓮月妃へ託されたものです」
沈安は、紫雲が用意していた蓮月からの短い手紙を、震える手で差し出した。それは、翠蘭との宮廷での約束を思い起こさせる、ごく私的な言葉で綴られていた。
梅芳は小刀を下ろし、ゆっくりと手紙を読んだ。読み終えたとき、彼女の目には涙が滲んでいた。
「……分かったよ。翠蘭は、都へ行く前に言っていた。『もし、心から信じられる人が現れたら、この里にある『月の窓』を教えろ』とね。あんたの主人は、一体何を望んでいるんだい?」
沈安は、静かに、そして決然と答えた。
「紫雲総管と蓮月妃は、今おられる落寿苑を出て自由になることを望んでいます。そして、あなたはそのための唯一の道筋を知っている」
――数日後、都では。
近衛隊長・趙斉の腹心の部下が戻り、彼の私室で跪いていた。
「沈安は、特産品の調査などしていません。彼は港町の古い地区を回り、『翠蘭』という十年前に都へ行った侍女を探していました。そして、最終的に『梅芳』という茶屋の女に接触しました。そして『月の窓』なる道筋を探っているようです」
報告を聞いた趙斉の顔から、血の気が引いた。彼は、紫雲が蓮月妃を連れて逃亡しようとしているという恐ろしい仮説が、確証へと変わったのを感じた。
「翠蘭は、蓮月妃が宮廷に入った直後、謎の病で死亡した。そして、紫雲総管は蓮月妃と密通している。彼らはもしや……」
趙斉の心は、激しく揺れた。彼は皇帝の忠臣であり、帝室の秩序を守る義務がある。しかし、紫雲は皇后一族の腐敗から国を救った恩人でもある。
『もし今、皇帝に告発すれば、紫雲は即座に捕らえられ、蓮月妃も巻き添えになるだろう。国を救った英雄を、私情のために殺すことになる』
趙斉は剣の柄に手をかけた。忠誠心と、正義感、そして密かな憐憫の情が、彼の胸でせめぎ合っていた。
「沈安は、まだ月潮にいるか?」
「はっ。まだ滞在している模様です」
趙斉は決断した。自ら動くことを選んだ。
「沈安を追跡していたことは、誰にも漏らすな。私は、極秘裏に南へ向かう。紫雲総管が、何のために『月の窓』を探しているのか。そして、その『月の窓』が何であるのか、この目で確かめる必要がある」
忠実な武官の趙斉は、ついに紫雲の逃亡計画を知って動き出した。




