第十二話 南方の風と監視者の眼
内廷総管となった紫雲は、公務に忙殺される日々を送っていた。彼は皇帝の影として完璧に振る舞い、朝廷の重臣たちを支配下に置きながらも、そのすべてが「皇帝のため」という大義名分のもとに実行された。これにより、彼の権力は磐石に見えたが、それは彼の真の目的を隠すための巨大な仮面に過ぎなかった。
紫雲の私室。彼は一人、古い地図を広げていた。彼の指が止まったのは、かつて翠蘭がいた南方の港町「月潮」だった。
「蓮月が言うように、この町が突破口になるかもしれない。翠蘭の家族、あるいは、彼女と深い関わりがあった者が、まだこの地にいるはずだ」
逃亡計画の鍵は、外部の信頼できる協力者、そして完璧な身分偽装だった。内廷総管としての権限で通行許可証を偽造しても、それは一時的なものにしかならない。もし都の外で正体が露見すれば、紫雲の十年にわたる努力は水泡に帰す。
紫雲は、極秘裏に信頼できる腹心の宦官、沈安を呼び寄せた。沈安は、紫雲がまだ一介の医官見習いであった頃からの付き合いで、彼の真の目的を知らぬまま、その知恵と胆力に心酔していた。
「沈安よ。緊急を要する密命がある。陛下の勅命として、南方の港町、月潮へ向かえ」
「月潮にございますか?」
沈安は驚いた。そこは宮廷からはるか遠く、交易を除けば、中央の役人が踏み込むことのない地だった。
「表向きの任務は、南方の特産品である香木と薬草の品質調査だ。しかし、真の目的は、十年ほど前に宮廷に入ったある侍女の家族を探すこと。彼女の名は、翠蘭。彼女の親族、もしくは親しい知人を、秘密裏に見つけ出せ」
紫雲は沈安に、翠蘭のわずかな特徴と、彼女が持っていた小さな翡翠の飾りを渡した。
「宮廷の記録には、彼女は既に亡くなったとある。これは極秘中の極秘。誰にも知られてはならぬ。もし露見すれば、お前だけでなく、私も危うくなる」
沈安は、紫雲の並々ならぬ気迫に圧倒され、深く頭を下げた。
「承知いたしました。命に代えても、必ずや翠蘭の痕跡を見つけて参ります」
沈安の密命の準備が進められる中、紫雲は新たな緊張に晒された。
近衛隊長、趙斉は、あの夜の密会を目撃して以来、紫雲の動向を影から監視していた。趙斉は、武人としては誠実で、宮廷の腐敗を嫌っていた。彼は、紫雲が皇后を倒したこと自体は評価していたが、その後の異常な権力掌握と、妃嬪との密会という大罪を見過ごすことができなかった。
趙斉は、紫雲の動向を細かく記録し、皇帝に報告するタイミングを慎重に計っていた。彼は、紫雲が皇帝の最も信頼する側近であることを知っているため、軽率な告発は逆に自らの破滅を招くと理解していた。
「紫雲総管は、毎朝、太医院の古参医官と密かに接触している。夜半、落寿苑の周辺の警備が極端に手薄になる……」
趙斉の記録は、紫雲が内廷総管の権限を使い、逃亡準備を着々と進めている証拠を積み重ねていった。
ある日、趙斉は、紫雲の私室から一人の宦官が、急ぎ足で都を離れるための公的な通行許可証を持って出ていくのを目撃した。沈安である。
許可証には「南方の月潮へ、特産品の調査のため」と記されていた。
趙斉の眉間に皺が寄った。
「月潮……翠蘭という侍女の出身地だと噂されているところだが。何を企んでいる?」
趙斉は、沈安が単なる調査官ではないと直感した。紫雲が何か決定的な行動を起こす前に、真実を突き止めなければならない。
彼は、腹心の部下を密かに呼び寄せ、厳命した。
「沈安という宦官が、南方の月潮へ向かった。表向きは調査だが、裏がある。お前は彼を追跡せよ。ただし、一切の接触は禁じる。彼の行動、彼が誰と会うのか、すべてを詳細に報告せよ」
数日後、蓮月の部屋。
紫雲は、月潮へ沈安を送り出したことを報告した。
「これで、一筋の光が見えた……ような。翠蘭の故郷……」
蓮月は希望に満ちた目をしていた。
しかし、紫雲の表情は硬かった。
「希望は見える。だが、同時に危険も増した。趙斉という護衛隊長が、私の権力集中を警戒している。彼ほどの武人が、私を静かに監視している可能性がある」
蓮月は不安を覚えた。
「もし、彼が沈安の動きを察知したら?」
「その時は、すべての計画が崩壊する」
二人は、連絡を待つ間、この落寿苑が自分たちを閉じ込める、より冷たい牢獄へと変貌したことを痛感した。彼らの逃亡計画は、すでに宮廷の影の監視下に置かれ始めている。
沈安の旅は、紫雲と蓮月の運命を握る、最初の賭けとなるのだった。




