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禁苑の花と影 ~皇帝の寵愛を失った下級妃は美貌の宦官によろめく~  作者: 極北すばる


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第十一話 権力の虚像

 皇后一族の失脚後、紫雲、いや宦官の凜の名は宮廷全体に轟いた。彼はもはや「医官」ではない。皇帝の信頼を一身に集め、皇后を倒した「智謀の宦官」として、誰もが恐れる存在となった。


 皇帝は、紫雲を太監の地位に抜擢し、さらに内廷(後宮)の全てを統括する内廷総管の地位を与えた。これは、かつてないほどの権力集中であり、宦官が外廷の政治に介入するのを防ぐという帝国の不文律を破るものだった。


 紫雲は、その中で躊躇なくその権力を振るった。


 まず、皇后一族に与していた者たちを徹底的に排除した。彼の粛清は血なまぐさいものではなかったが冷酷無比だった。職位を解き、遠方へ追放し、二度と宮廷に戻れぬようはかった。その手腕は完璧で、皇后派の残党は息を潜めることしかできなかった。


 しかし、紫雲の急速な昇進と、彼が放つ冷たい威圧感は、新たな反感と恐怖を生み出していた。宦官に対する古くからの蔑視と、彼の「あまりに有能すぎる」能力が、彼を異質なものとして際立たせた。


「あの紫雲は、ただの宦官ではない。まるで、朝廷に潜む影の皇帝のようだ……」


 そんな囁きが、宮廷の至る所で交わされるようになった。


 一方、皇帝の執務室は、重苦しい空気に包まれていた。


 皇后の裏切りは、皇帝の心に深い傷と不信を残した。彼は政務に対する意欲を失い、すべてを紫雲に委ねるようになった。紫雲は、皇帝の命を受け、全ての重要文書に目を通し、裁可を求める形式的な手順を踏みながら、事実上、政務を取り仕切っていた。


 ある日の夕刻、皇帝は紫雲を呼び寄せ、静かに尋ねた。


「紫雲よ。そなたは、朕を救ってくれた恩人だ。そなたがいなければ、朕はどうなっていたことか……」


「陛下。臣は、ただ陛下にお仕えしているに過ぎません」


 紫雲は、宦官の礼を崩さなかった。


「だが、朕は思うのだ。そなたは、あまりに有能すぎる。そなたには、この宮廷の内外に何か大きな望みがあるのではないか?」


 皇帝の鋭い眼差しが、紫雲の深淵を覗き込もうとする。紫雲は動揺したが、すぐに平静を取り戻した。


「陛下のご懸念はごもっともでございます。ですが、臣の唯一の望みは、陛下が安心して玉座に鎮座されること。そして、この国が泰平であること。それ以外はございません」


 このやり取りは、二人の間に生まれた、新たな主従関係の歪みを象徴していた。皇帝は紫雲を信頼せざるを得ないが、同時に彼の力を恐れていた。紫雲は、その恐怖と不信を逆手に取り、皇帝の猜疑心を満たすために、自らを「忠実で、恐ろしいほどに有能な影」として演じ続ける必要があった。


 紫雲が真に安らげるのは、落寿苑の奥、蓮月の部屋だけだった。


 深夜、紫雲は密かに、蓮月の部屋を訪れた。蓮月は、彼をそっと抱きしめることで、彼が宮廷で纏っている冷たい「内廷総管」の虚像を溶かそうとした。


「あなたは今、宮廷で最も恐れられる人になってしまったわ」


 蓮月は、彼の顔に触れた。


「これは必要な虚像だ。誰もが恐れ、誰もが私に疑念を抱く。それが、私の真の目的を隠す盾となる」


 二人は、逃亡計画の第一歩を進めていた。


「まず、都を離れるための通行許可証が必要だ。内廷総管の権限を使えば偽造は可能だが、後で追跡されるリスクが高い」


「では、私たちを匿ってくれる、信頼できる外の協力者を見つけては? そうだわ、翠蘭の故郷、南方の港町はどうかしら。彼女の家族が、まだいるかもしれない」


 蓮月が提案した。


 紫雲は頷いた。


「南方の港町……いい考えだ。あの地の検問は比較的緩い。だが、そのためには、私たちがこの宮廷から消えた後、追っ手をかけられないような完璧な偽装が必要だ。それには死んだことにするのが一番いい」


 彼らは、逃亡後の「紫雲と蓮月の死」をどのように偽装するか、詳細な計画を練り始めた。


 しかし、彼らの秘密の逢瀬は、既に監視の目に捉えられ始めていた。


 落寿苑の警備を司る近衛隊長、趙斉(ちょうせい)は、皇后派が倒れて以降、紫雲の動向を静かに観察していた。彼は皇帝に忠誠を誓う武官であり、宦官が持つ異常な権力を警戒していた。


 ある夜、趙斉は巡回中、落寿苑の裏手にある古びた庭園で、不自然に揺れる木々の影を見た。彼は隠れて様子を伺った。


 そして見た。厳重に警備されているはずの蓮月妃の居室から、全身を黒い布で覆った凜総管が出てくる姿を。彼はすぐに姿を消したが、その立ち居振る舞いは、病を診る医官のそれとは程遠く、まるで恋人の部屋を後にする男のようだった。


 趙斉は、心の中で戦慄した。


「宦官が、妃嬪の部屋に忍び込むだと? いや、紫雲は既に宦官の域を超えた権力者だ。この密会は、大逆罪なのでは」


 彼は、この情報を誰にも漏らさず、己の胸に秘めることを決めた。皇帝へ告げるには、紫雲の権力が強大すぎた。


 趙斉は、ただ静かに、紫雲の次の動きを待った。紫雲と蓮月は、自分たちが築いた「権力の虚像」によって、新たな、そして最も危険な監視者を生み出してしまったことを知る由もなかった。

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