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禁苑の花と影 ~皇帝の寵愛を失った下級妃は美貌の宦官によろめく~  作者: 極北すばる


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第一話 落日の妃

 広大な紫禁城の宮廷、その後宮は、まさに煌びやかな籠だった。玉砂利を踏む音、絹擦れの囁き、そして皇帝の寵愛をめぐる女たちの華やかな闘争。しかし、その喧騒から遠く離れた後宮の北西の隅に、「落寿苑(らくじゅえん)」と呼ばれる一画があった。


 そこに住まうのは、下級妃の一人、蓮月(れんげつ)


 彼女は先帝の代に後宮へ入ったが、現皇帝・景泰(けいたい)が即位してからは、しばらくは寵愛を受けた。しかし今では、皇帝の目に入ることもなく、存在を忘れ去られていた。


 落寿苑は、その名が示す通り、「寵愛を失って、ただ寿命を終える」場所と陰で囁かれていた。豪華絢爛な他の宮殿に比べ、ここは質素で、手入れも行き届いていない。しかし蓮月は、その寂れた美しさを愛していた。


「今日も、誰も来ませんね」


 侍女の翠蘭(すいらん)が、窓辺で刺繍をしながら寂しげに呟く。蓮月は奥の棚から古い書物を取り出しながら、静かに笑った。


「来なくて結構。ここは、この静けさが何よりの馳走。主上の寵愛とは、煩悩の渦の中にあるもの。私には、この静けさのほうが、よほど尊い」


 蓮月は生まれつき控えめな性格で、宮廷の華やかな装飾や女たちの嫉妬深い視線に辟易していた。彼女にとって、この冷遇は、むしろ権力争いから距離を置くための保護膜となっていたのだ。彼女は日々、読書と庭の手入れ、そして琴の稽古に没頭し、その心には一輪の気高い蓮の花が咲いていた。


 落寿苑の庭は、他の宮殿のように派手な牡丹や芍薬は植えられていなかったが、静かに竹が生い茂り、蓮池には睡蓮が咲いていた。彼女は、この蓮池を眺めている時が一番心が穏やかだった。


 しかし、その穏やかな日常に、ある日、一つの「影」が差し込んだ。


「蓮月様、太医院からお薬を届けました」


 声の主は、宦官だった。後宮には数千の宦官が仕えているが、その中でも彼の存在は異質だった。


 名を(りん)という。


 彼は二十代前半に見えるが、正確な年齢は誰も知らない。身分は下級宦官だが、その美貌と立ち居振る舞いは、まるで高位の貴族のようだった。細身でありながら鍛えられた肢体、色白で整いすぎた顔立ちは、むしろ宮廷の女性たちよりも目を引くほどだった。特に、その瞳は深遠な夜の湖を映したように深く、宦官特有の柔和さよりも、鋭い威厳を宿していた。


 凛は蓮月に薬を差し出すと、他の宦官がするようにすぐに頭を下げて下がることはせず、ただ静かに彼女を見つめた。


「凛殿、恐れ入ります」


 蓮月が目を伏せ、薬を受け取ると、凛は一歩踏み出し、声の調子を落として言った。


「蓮月様、この処方は少し冷えすぎる。夜の冷え込みには、もう少し血の巡りを良くする薬草を足すべきでしょう。私が個人的に太医院に掛け合います」


「えっ? そ、そこまでしていただくには及びません。太医院の処方に従うのが筋ですから……」


 蓮月は戸惑った。宦官が妃の個人的な健康状態にここまで立ち入るのは異例中の異例だ。しかも、彼は蓮月に仕える専属の宦官ではない。にもかかわらず、凛は蓮月に会う口実を探すかのように、頻繁に落寿苑を訪れるようになっていた。夜伽の準備のための灯油の補充、季節の変わり目の薬草の手配、庭の竹が折れた際の修繕。全てが、彼が蓮月に近づくための、巧妙な言い訳のように見えた。


「筋、ですか」


 凛は冷笑のような、寂しげな笑みを浮かべた。


「この後宮に、筋などありません。あるのは、寵愛という名の風向きだけ。そして、その風に逆らってでも、守るべきものはあります」


 凛の視線は熱く、まるで蓮月の心の奥底を覗き込もうとしているようだった。その視線に触れるたび、蓮月の胸はざわつき、全身の血が熱くなるのを感じた。


(いけない。この人は……何かが違う)


 宦官でありながら、蓮月を一人の女として見ているような、大胆で露骨な視線。それは、皇帝の寵愛よりも、遥かに危険な禁忌の領域を感じさせた。


「私には、あまり深入りなさらない方がよろしいかと思います。私は、冷遇されている妃。あなたが関われば、あなたまで危険に晒すことになります」


 蓮月が、できるだけ冷たい口調でそう言うと、凛は再び静かに微笑んだ。


「それは、お優しいお言葉。ですが、私は己の危険を承知でここにいるのです」


 凛はそう言って一礼すると、振り返り、落寿苑の荒れた庭を静かに去っていった。その背中は、宦官のそれとは思えないほど堂々としており、遠ざかる彼の姿は、まるで権力の中枢に立つ帝王の影のように、蓮月の目に焼き付いた。


 凛が去った後も、蓮月の心臓の鼓動は激しく、その熱は引かなかった。彼女は、この美貌の宦官が、ただならぬ秘密を抱えていることを直感していた。そして、その秘密と、彼の危険な視線が、やがて自分の平穏な日々を根底から揺るがすことになるだろうと、予感せざるを得なかった。

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