第05話 君に贈る言葉
その夜、屋敷の裏庭には、虫の音と木々のざわめきが静かに響いている。
レオナールは、薪をくべる父の背中をしばらく無言で見つめており――話しかけるには、少しだけ、勇気が要った。
「……父さん。少し、いいか」
ユリウスは火ばさみを置き、軽く顎を動かして『話せ』と示す。
変わらない、無口な父の背中。けれどその寡黙さに、何よりの信頼があった。
「……クラリスの、あの頬の傷。……あれ、ただの傷じゃなかった」
レオナールは淡々と語り始めた。
構造式は三重螺旋。中層に仕込まれた精神誘導の術式。
術者は、おそらく強い支配欲と、自己認定欲求の持ち主。
印の目的は『拘束』であり、『所有』であり、何より『他人に近づかせないこと』。
「……呪いなんかじゃなかった。ただの、悪意だ」
火のはぜる音が、短く響いた。
ユリウスはしばらく無言のまま火を見つめていたが、やがて短く言った。
「……解けるか?」
「ああ。解析は終わった。再干渉は必要だけど……僕がやる。いいかな?」
「ああ、そうしろ」
その言葉には、疑いも、命令も、なかった。
ただ、『託された』という感覚だけが、レオナールの胸に残った。
「……父さん」
「……ん」
「俺は、クラリスを守る。研究者としてでも、男としてでも……そのつもりでいる」
ユリウスは、火の灯りに照らされながら、ゆっくりと振り返った。
そして、ひとこと。
「……お前の好きにしなさい」
それだけを言って、再び薪をくべる。
それが、この家で交わされる『最大の承認』だった。
レオナールは、そっと胸の内で息を吐いた。
冷たい夜気の中で、父の言葉は不思議と温かく、火の揺らぎよりも確かに、彼の背中を押してくれたのだった。
▽
森の奥でレオナールが魔術印の解析を終えた翌日、クラリスは、ひとりで村の市場に向かっていた。
ほんの少し――自分でも不思議なほど、『誰かに会いたい』と思えた。
だから、勇気を出して人の多い場所へ足を運んだのだ。
――だが。
村の広場に差し掛かったとき、冷たい視線が刺さった。
「……あれ、『呪いの令嬢』じゃないか?」
「誰が許可して外に……っ」
「触れたら不幸がうつるって……」
言葉は刺のように突き刺さる。
体がすくむ。足が止まる。
視界がにじむ。
動けなくなったクラリスだったが、その時声が聞こえた。
聞きたかった声が。
「その辺にしておいてもらおうか」
人垣の中から、静かに、けれど確かに響く声――レオナールだ。
黒いローブに、いつもの気だるげな歩調。
けれど、目だけが鋭く冴えていた。
「この女性に刻まれていた魔術印は、すでに無効化済みだ。呪いでも、病でもない。悪意によって作られた術式だ。それを放置したのは――周囲の無知と、無関心だ」
静寂が広がる。
「……君たちは、呪いを恐れて彼女を遠ざけた。けれど、『恐れ』は罪じゃない。『知ろうとしないこと』が罪なんだ」
ざわつき始めた村人たち。けれどレオナールは、一歩前へ出て宣言した。
「この人は、僕の婚約者だ」
「…………え?」
まるで雷が落ちたかのような、衝撃。
誰もが言葉を失い、その場が静まり返る中――クラリスはただ、立ち尽くしていた。
今、レオナールはなんていっただろうか?
「……なんで」
「必要だからだよ」
レオナールは振り返り、彼女の前に立つ。
その姿は凛々しく、クラリスの両目には輝いて見えていた。
「君に必要なのは、『他人の評価』じゃない。『君自身がどう生きたいか』だ。僕は、君と一緒に生きたいと思った。それだけだ」
「……でも、私は……傷があって、呪いって呼ばれて……」
「僕だって痣がある。偏見だって受けた。でも、それでも生きてるし、今こうして君に触れられる」
レオナールはそっと、クラリスの手を取った。
「怖いなら、逃げてもいい。ここからでも、どこへでも。でも――」
彼の言葉は、真っ直ぐだった。
「俺は君の味方でいる。何があっても、何を失っても。それが、婚約者ってやつだろ?」
「れお、なーるさま……」
クラリスの瞳から、涙がこぼれた。
今度は、嗚咽ではなかった。
ただ、静かに――温かく、流れる涙だった。
その場にいた誰かが、息を呑んだような音を立てる。
それが引き金となって、周囲の空気がほどけていった。
「……婚約者……なんだってさ」
「痣持ちの魔術師って、あの変わり者?」
「でも、すごく……まっすぐだったな」
ざわつきが、ゆるやかに変わっていく。
そして、最前列にいた母、オリヴィアが声を荒げた。
嬉しそうに、そして笑顔で。
両手を握りしめながら
「よっしゃあああああああああああ!! よくやったレオおおおおおお!!」
――歓声をあげている姿に、妹のアナスタジアも嬉しそうに隣に姿を見せる。
「うちにようこそおおおお!!」
「おかあさま、声が大きいですわ!」
「ああ……おめでとう……これからが大変だなぁ……」
アナスタシアは号泣、リヒトは泡を吹きかけている。
そんな騒がしさの中で、レオナールはクラリスの手を握ったまま、そっとささやいた。
「大丈夫。俺の家族、ちょっとうるさいけど、優しいよ」
ちょっと変わっている、と言う言葉を付け加える事がなかったが、レオナールは笑顔でそのように言った。
クラリスはそんなレオナールの姿を見て泣きながら、こくりと頷いた。
そして、初めて――心からの笑顔を見せ――その時、レオナールは気づいた。
「……あれ? 俺、今なんて……?」
レオナールが、ぽつりと呟いた。
「……『婚約者』って、言ったよな。うん。言った。聞こえた。周囲も聞いてた。母も喜んでた。アナスタシアは泣いてた。リヒト兄さんは泡吹いてた……うん、全部事実」
彼の顔からさっと血の気が引いていく。
「でも、待てよ……あれ、プロポーズしてない。してないよな?……うん、してない。してないのに、『婚約者』って言ったのか、俺……何やってんだ……」
顔を手で覆いながら、レオナールはぶつぶつと呟き続ける。
「……これ了承されてないじゃん?勝手に?公衆の面前で?大声で?クラリス本人の前で?あああああああ……っ」
小声で、だがしっかり頭を抱えてしゃがみ込む。
「いやでも彼女、怒ってなかったし、笑ってたし……笑ってた……笑顔可愛かった……あああああでも無理だ、無理無理無理、これ『了承された』とは言えないよな!?そもそも、そもそも俺は……!!」
「……レオナール様?」
「はいっ!? なんでもないです!!」
クラリスの問いかけに条件反射で立ち上がり、笑顔を貼り付けるレオナール。
その頬は、魔術暴走ではない、真っ赤な熱に染まっていた。
それを少し離れたところで見ていたリヒトは、手元の胃薬をそっと増量した。