第五十四話 祖母襲来 ◆sideクロヴィス
フィーナがソナスの実を採ってきてくれてから、アネットの体調はみるみるうちに回復した。
穏やかに年を越し、ようやく安定期に入ったことでアネットにも少し余裕が出てきたように思える。最近では、フィーナやセバスチャンたちと赤子のためのぬいぐるみを作っているらしく、毎晩楽しそうに進捗を教えてくれる。
寝所もアネットの自室から夫婦の部屋へと戻し、毎晩身体が温まるハーブティーを飲みながら語らうのが日課となっている。
ちなみにハーブティーは何種か用意されていて、全てカロライン嬢が特別に取り寄せたものである。妊婦の身体にも優しいものばかりを揃えてくれていて、彼女の細やかな配慮には感謝の念が尽きない。
そして今日、仕事を片付けた俺が寝室に入ると、すでにベッドに腰掛けていたアネットの腕には完成した二つのテディベアが抱かれていた。
「完成したのか」
「はい! セバスチャンが丁寧に教えてくれたこともあり、上手に作れたかなと思います」
アネットは嬉々としながらテディベアを掲げて見せてくれる。触れさせてもらうと、生地はとても柔らかで、ふっくらと丸みを帯びたフォルムはとても可愛らしいものだった。
「きっとこの子も喜んでくれるだろう」
そっとアネットのお腹に手を添えて囁くと、アネットも俺の手に重ねるように手を添えた。
「そうだと嬉しいです」
アネットのお腹を撫でながら寄り添い合っていると、どうしようもなく愛慕の情が溢れてくる。
しばらくお腹に手を重ねていると、不意にぽこんとアネットのお腹が脈打った。
「あっ」
「も、もしかして今のは……」
驚いた様子のアネットと顔を見合わせる。と同時に、再びぽこんとお腹が動いた。
「胎動かもしれませんね。ふふ、元気な子のようです」
「これが胎動……! なんだか感動するな」
「ええ、とても」
アネットは僅かに目元を赤らめながら、愛おしそうにお腹を撫でている。まるで慈愛に満ちた女神のようで、無性に胸が詰まって苦しくなった。
たまらずアネットをギュッと抱き寄せる。身体に負担をかけないように気を付けることは忘れない。
「クロヴィス様?」
アネットが戸惑いながら身じろぎして腕の中からそろりとこちらを見上げてきた。愛おしさが溢れてしまいそうだ。以前からどうしようもなくアネットを愛おしく想っているが、その気持ちは日々降り積もり、幾重にも重なっていく。愛しいと想う気持ちには際限がないのだと、アネットとフィーナが教えてくれた。
「そうだ、安定期にも入ったし、そろそろ近しい親族には妊娠の知らせを出そうかと思うのだが、どうだろうか?」
気持ちを落ち着かせるため、アネットに相談しなくてはと考えていたことを聞いてみた。
俺の問いを受けて、アネットはこくりと頷く。
「ええ、そうですね。出産が夏になるので、今年の社交シーズンは王都には行けませんし……早めに伝えておくべきかと思います」
社交シーズンに王都に赴くとなると、前回のようにアネットの生家であるランディル侯爵家の別邸に滞在することになる。そうなると事前に綿密な打ち合わせや調整が必要になる。滞在期間や滞在中の使用人の手配、社交会に着ていくドレスの手配などなど、去年も初夏の頃から準備を進めていた。
「分かった。お互いの両親と祖父母、それから国王陛下に手紙を書いておく」
「ありがとうございます。私からも両親に手紙を書きたいので、同封していただけますか?」
「ああ、もちろんだ。準備ができたら教えてくれ」
表情を和らげるアネットの頭をそっと撫でる。知らせを受けたみんなはきっと大いに喜んでくれるだろう。
祝いの返事が今から楽しみだ。
――この妊娠を知らせる手紙をきっかけに、アンソン辺境伯領がますます賑やかになることをこの時の俺は知る由もなかった。
◇
手紙を出してから二週間ほどが経っただろうか。
アネットの両親から熱烈な返事が届き、やはりところどころ涙のような水滴の跡で文字が滲んだ手紙をアネットが嬉しそうに読んでいた。
俺の両親は現在隣国で過ごしているため、返事が届くまでもうしばらくかかるだろう。
しんしんと雪が降り積もる中、変わらず穏やかな日々を過ごしていたのだが――
「坊っちゃま! 大変です!」
「おい、セバスチャン。坊っちゃまはやめろと……一体何があった?」
あのセバスチャンがノックもせずに執務室に飛び込んできたということは、よほどの緊急事態だ。俺はすぐに立ち上がって、髪と呼吸を乱したセバスチャンに歩み寄る。
「あ、あのお方が……ここに……」
セバスチャンは息も絶え絶えで、途切れ途切れにしか言葉が聞き取れない。
「あのお方? 誰のことで――」
「クロ坊!」
とにかく水を飲ませようと水差しに手を伸ばした時、身体の芯まで震わせるような凛とした声が響いた。
古い記憶を奮い起こさせる馴染みのある声に、懐かしさを覚えつつも思わず目を丸くして扉の方を振り向いた。
そこには、腕組みをして仁王立ちをした初老の女性が佇んでいた。
ローアンバーのたっぷりの髪は三つ編みにされて後ろに束ねられている。前髪を撫で付けるようにスカーフでまとめ、遮るものなく顕になった茶色い瞳は彼女の意志の強さをよく表している。背筋はシャンと伸びていて、肌は健康的な小麦色だ。
「お、お祖母様⁉︎」
動きやすそうな素朴なワンピースを身に纏った女性は、俺の祖母であるジュエンナ・アンソンその人であった。確か年齢は六十近かったはずだが、年齢を感じさせないほど若々しく活力に満ちている。
「ジュエンナさんとお呼びと言っているだろう!」
「いっ……!」
思わず禁止されていた呼び名を叫んでしまい、間髪入れずに脳天にゲンコツが降ってきた。
相変わらず機敏な動きで拳も鋭い。腕は衰えていないようだ。
「す、すみません……ジュエンナさん」
目尻に滲んだ涙を指で弾きながら、まじまじと目の前で胸を張る祖母を観察してしまう。
彼女は父が辺境伯の爵位を継いだタイミングで屋敷を出て、現在は領内の村で暮らしているはず。
元々男爵家の生まれで、自ら畑を耕して領民と近しい生活をしていたこともあり、土いじりをして余生を過ごしたいという彼女たっての希望だった。
デビュタントで祖父が一目惚れして猛アプローチの末の嫁入りだったと聞いているが、自由奔放で豪快な祖父は今でも祖母に頭が上がらない。いわゆる肝っ玉母ちゃんという気質の女性なのだ。
祖父はジッとしていられないたちなので、今でも国中のあちこちを放浪しているのだが、定期的に最愛の祖母の元へと帰って二人の時間を過ごしているらしい。
今暮らしている村に骨を埋めるつもりだと笑っていた祖母が、どうして屋敷にいるのだろうか?
「どうして私がここにいるのか分からないって顔だね」
「え、ええ……突然のことで困惑しています」
図星を指されてドキリとする。幼い頃のイタズラは全て祖母にお見通しだったことを思い出す。
彼女に隠し事はできないのだ。
「そうですよ! ジュエンナ様! せめて先触れをくださってもよいではないですか!」
水差しの水を飲み、呼吸を整えていたセバスチャンが思わずといった様子で口を挟んだ。
いつも冷静で穏やかなセバスチャンが声を荒げる様子は珍しく、俺は別の意味で困惑してしまう。
「おや、セバスチャン。元気そうで何よりだよ」
「つい先ほど寿命が十年縮みました」
「あっはっは! それは困った。あんたにはこれからもアンソン家を支えてもらわないとね」
そういえば聞いたことがある。
祖母が屋敷に居た頃、セバスチャンは見習い執事だった。執事としての素質を見込まれ、当時から執事のイロハだけでなく田畑の耕し方や花の手入れ、裁縫などなどあらゆることを叩き込まれたらしい。算術から護衛術までそれはもう幅広く。
手加減も容赦もない祖母にみっちり叩き上げられ、今ではアンソン家になくてはならない存在であるが、人生の師範である祖母にはめっぽう弱いというところだろう。
今だって恐縮しきりだが、まあ、どこか嬉しそうにも見えるな。本人も複雑な心境を持て余しているのだろう。
「そ、それで……一体何をしにいらしたのですか? 別邸で暮らすよう御子息からあれほど説得されたにも関わらず、村で一生を終えるとおっしゃっていたではありませんか」
貴族としての生活よりも農村での生活を選んだ祖母は、俺とアネットの結婚式にこそ参列してくれたが、その日のうちに馬に乗って村へ帰ってしまったほどだ。
そんな祖母がどうして急に屋敷を訪ねてきたのか。とにかくその理由を説明してほしい。
「何って、赤子を取り上げにきたんだよ」
「はい?」




