第三十六話 つわりのはじまり ◆sideフィーナ
「あれ、お母たまは?」
「それが……」
お母様の妊娠が発覚して数日。
これまで通り、お父様が朝早くから視察に出る日以外は三人一緒に朝食を食べていた私たち。
しかし、いつも私より先に席についているお母様の姿が見えない。
同じ寝室で寝起きしているはずのお父様に視線を向けると、お父様はものすごく眉を下げて心配そうに息を吐いた。
「アネットは体調が優れないからと、まだベッドで横になっている。後でセバスチャンに食事を運ぶように言伝ている。今日は二人で食べよう」
「お母たま……心ぱいですね」
「そうだな……」
妊娠初期の体調不良。つまり、つわりが始まったんじゃないかしら。
私は前世では推し活に邁進する華の独身貴族だったので、妊娠や出産の経験はない。だから、つわりがどれほど辛いものかは知識でしか知らない。いや、知識ですらあまり詳しくは知らない。
とにかく、後でセバスにくっついてお母様の様子を見に行くことにしましょう。
私はそう心に決め、朝食のコーンポタージュにスプーンを沈めた。
この日の朝食は、私もお父様もお母様のことが心配で、いつもより口数が少なく、カトラリーが時折立てる音がやけに響いたのだった。
◇
コンコンコン。
「奥様、食事をお持ちいたしました」
セバスが恭しく扉をノックし、微かに聞こえた入室を許可する声を受けて室内に入った。もちろん私の後ろからクロエが続く。
「ああ……フィーナ、あなたも来てくれたの? ごめんなさいね、こんな姿で」
「寝起きのお母様もいつもと違った色気があってたまらないです」
「うん?」
おっと、いけないいけない。お母様が肌の露出が控えめなネグリジェを身に付けて寝起きのとろんとした目で見つめてくるものだから、我を忘れてしまうところだったわ。
「ん、ううっ……」
「お母たま! むりはしないでくだしゃい」
私の姿を認めたお母様は、身体を震わせながら起きあがろうとした。
私はベッドまですっ飛んでいってお母様の肩に手を添え、ゆるゆると首を横に振る。そして再び横になるように促した。
「フィーナ……ありがとう」
枕に頭を沈ませると少し楽になったのか、お母様は深く息を吐いた。
「ごめんね、朝食を一緒に食べられなくて。急にすごく気分が悪くなっちゃって……うっ」
お母様は弱々しく微笑んだ後、顔を青くして口元に手を添えた。
「お母たま! セバス、ボウル!」
「かしこまりました!」
念の為ワゴンに積んでいたボウルをサッと差し出すセバス。
私はお母様の身体を少し横に向けて背中をさする。
「……はあ、ごめんなさい。お腹が空きすぎているのかも」
水差しの水を口に含み、少し落ち着いた様子のお母様が口を開く。
「奥様。お食事をお持ちしましたが……お召し上がりになりますか?」
セバスがワゴンに載せて運んできたのは、優しい味付けの野菜スープ。それと柔らかなパン。食欲がない時にお母様がよく食べているメニューで、ふわりと美味しそうな香りが鼻腔をくすぐる。食べ物の匂いがダメな場合もあるから、お母様の表情の変化をよく観察しておく。
「ありがとう、いただくわ」
私とクロエでお母様の身体を起こし、少しでも楽になるように枕元にクッションをたくさん置いて背を預けられるようにした。
お母様はゆっくりとスープを数口飲んだ後、またぐったりと横になってしまった。
「少しずつでも、気分が落ち着いたタイミングで何かお腹に入れてください。温かなスープをいつでもお出しできるよう準備しておきますので」
「ありがとう。セバスチャン」
セバスはとても優しい笑みを浮かべた後、音を立てずに食器を片付けた。
お母様はそのままうとうと微睡み始めたので、私とクロエもセバスに続いて部屋を出た。
「あれ、お父たま」
そっと扉を閉じて振り返ると、部屋の前で落ち着きなくウロウロしているお父様の姿が目に入った。お父様は私たちに気づいて、大股で近づいてくる。
「アネットの様子はどうだった?」
これでもかと眉を下げ、行き場をなくした腕を上げたり下げたりしている。
私は思わずセバスを見上げ、こちらを見ていたセバスとパチリと目が合った。
心配なら、中に入ってこればいいものを。セバスの目がそう言っていた。私もそう思うわ。
まあ、大人数で部屋に押しかけるのも気が引けるし、お母様には気を遣わせたくないし、でも心配で部屋の前まで来てしまった、というところかしら。
「少しですが、スープを飲まれました。今は横になっておられます」
セバスが胸に手を当てて恭しく報告する。お父様は少しホッとした顔を見せてから、キリッと表情を引き締めた。
「そ、そうか。では、俺は執務室に戻る。何かあればすぐに知らせてくれ」
「かしこまりました」
お父様はそう言って、そそくさと執務室に向かってしまった。
「顔ぐらい見ていけばいいのにね」
「おっしゃる通りです」
私とセバスは再び顔を見合わせ、やれやれと肩をすくめてその場を後にした。




