第十五話 夜会に向けて
雪解けの季節にアンソン家に嫁いできてから、早くも半年が経とうとしている。
避暑地としても有名な辺境伯領の夏は、王都よりもずっと涼しくて過ごしやすい。
緑が青々としていて、精霊が多く住まうからか、心地よい風がよく吹いている。
つばの広い帽子を被って街に出たり、大きな木の下でピクニックをしたり、小川で水遊びをしたり――家族三人で楽しく平和に過ごした。
そしてそんな夏の終わりが近づき、とうとう秋の社交シーズンが目前となっていた。
私とクロヴィス様は、来る社交シーズンに向けての話し合いのため、執務室のソファで隣り合って座っている。
「アネット、基本的に社交シーズンの間ずっと王都に留まることはできないのだが、今年はシーズンの始まりの夜会――王家主催の夜会にだけは必ず参加しなくてはならない」
「ええ」
王都まで馬車で十五日かかる。往復で三十日。王都での滞在時間を加えると四十日近くは領地を離れることになる。
クロヴィス様は夏の始まり頃から準備を進めていて、クロヴィス様の決済が必要な事案や指示監督が必要な現場仕事を積極的に片付けていた。クロヴィス様が不在の間の領地の管理はセバスチャンに一任している。新しく採用した人材も着実に育ってきてくれているので、しかと留守を守ってくれるだろう。
セバスチャンは「しっかりと奥様のお披露目を務めてくださいませ」とクロヴィス様にかなり圧強めに懇願していた。
セバスチャンといえば、最近よく緩んだ表情で手帳を見ていることが多い。声をかけると慌てて胸ポケットにしまい込むのだけど、孫の姿絵でも入れているのかしら。今度見せて欲しいとお願いしてみましょう。
「それで、長旅になるのだが……アネットには俺に同行してもらいたい。もちろん王城での夜会にも参加してほしい――俺のパートナーとして」
「クロヴィス様……!」
お優しいクロヴィス様のことだから、長旅を懸念して私を置いて行ってしまうのでは? と一瞬脳裏に嫌な考えが掠めたけれど、連れて行ってくれると言う。
「結婚後初めての夜会だ。国王陛下にご挨拶もせねばなるまい」
「はい。もちろん、ご一緒させてください」
とびきりの笑顔で承諾すると、クロヴィス様は安心したご様子で胸を撫で下ろしていた。
「ああ、よかった。断られたらどうしようかと思った」
「まあ。私はクロヴィス様の妻ですよ? お隣に立たせてくださいまし」
「アネット……ああ。俺の隣に立っていいのも立って欲しいのもただ一人、君だけだ。だが、美しい君を他の男の目に触れさせるのはいい気分ではないな……君に見惚れる輩がいたらその目をくり抜いてしまいたくなるに違いない。難しいところだ」
何やら物騒な物言いに不安になるけれど、熱を孕んだ瞳に見つめられ、面映さを感じる。
でも、そうか。それを言うならクロヴィス様こそ、王都の煌びやかなご令嬢方の目を釘付けにするに違いない。
普段社交の場に姿を見せないクロヴィス様。デビュタントの時も、あちこちから黄色い声が上がっていたことを思い出し、わずかに気分が沈む。
すっかり魅力的な大人の男性に成長したクロヴィス様は、きっとまた女性陣の注目を集めるのだろう。
私よりも気立のいい女性は星の数ほどいる。もし、クロヴィス様が誰か他の女性を見初めたら――
「アネット、何か余計なことを考えてはいないか?」
「えっ、いえ、そんな」
考えが暗く沈んでいたところに図星を指されてドキッとする。クロヴィス様のまっすぐな瞳に射抜かれて、思わず視線を逸らしてしまう。こんなの、肯定しているようなものなのに。
クロヴィス様を独り占めしたい。私以外をその澄んだ瞳に映して欲しくない。なんて嫉妬深くて醜い感情なのだろう。
「俺の心も身体も全てアネットのものだ。他の女性が付け入る余地はない。それに……二人の夜は、目一杯愛を囁いてきたつもりだったのだが……そうか、足りなかったようだな」
「えっ!? そ、ええっ!?」
俯いていると、睦言を耳元で囁かれ、弾かれたように顔を上げてしまった。
「あっ……」
鼻先が触れるほどの距離にクロヴィス様がいて、息を呑む。
慌てて離れようとした時にはもう遅かった。腰をガッチリと抱き寄せられて、気づいた時には唇を塞がれていた。
「ん、もうっ、クロヴィス様……!」
「ふ、この後仕事がなければ寝室に連れて行きたいところだが……今はこれで我慢しよう」
「……クロヴィス様、最近随分と甘いことをおっしゃいますよね」
ぎゅうぎゅうと抱き締められながら、私はこの半年のことを思い返す。
私ほどじゃないとはいえ、クロヴィス様もあまり心の内を表に出さないお人だったはず。
それが今ではこの有様だ。嬉しいのは嬉しいけれど……どうしても反応に困ってしまう。何か心境の変化でもあったのだろうか。
「いや……その、フィーナにな」
「え?」
途端に歯切れが悪くなったクロヴィス様を腕の中で見上げる。心なしかクロヴィス様の耳が赤い。
「どれほど愛していても、言葉や行動にしなければ相手には伝わらないのだと言われてな」
「まあ」
あの子ったら、私だけでなくクロヴィス様にまで……本当に大人びた言動をする子だわ。
だけど、ここは感謝するところよね。
二人で額をくっつけて照れ笑いをしていると、重要なことに思い至った。
「クロヴィス様……それほどの長期間、私たちと離れて……フィーナは大丈夫でしょうか? 寂しい思いをさせてしまわないでしょうか……」
王都と辺境伯領を往復するのはとても大変だ。
輿入れの時も、長く馬車に揺られすぎて少しお尻が痛くなったぐらいだもの。先日五歳を迎えたとはいえ、子供には厳しい道のりだろう。となると、フィーナは屋敷で留守番が妥当なところ。
「ああ、そうだな……あとでここに呼んでしっかりと説明するしかないだろうな」
「ええ……」
クロヴィス様との夜会には胸が躍るけれど、残されるフィーナを思うと胸が張り裂けそうになった。
「およびでしょうか?」
「きゃあっ!? フィーナ!? どうしてここに?」
扉を薄く開けてフィーナがこちらをジッと見ていたので思わず小さく飛び上がってしまった。
まだ呼び出していないと言うのに、なぜ。
「むふふ、もえのはどうをかんじまちたので」
「もえ……?」
また奇妙な言葉を使っているわね。クロヴィス様と顔を見合わせて、互いに首を傾げる。
「ま、まあ、いいだろう。フィーナ、こっちへおいで」
んんっ、と喉を鳴らしたクロヴィス様がフィーナを手招きした。
「はいっ!」
フィーナは笑顔を咲かせて執務室に駆け込んできた。
フィーナの後ろから音もなくクロエが現れ、深く頭を下げて室内に滑り込んできた。できる侍女だわ。
クロヴィス様はソファに深く座り直して、フィーナをご自身の膝の上に横抱きで乗せた。
「フィーナ、父さんと母さんは王都の夜会に出席するために、近々屋敷を留守にする。いつもは理由をつけて欠席しているのだが、結婚して間もないからな。夫婦円満だというところを国王陛下や他の貴族どもに示す必要があるんだ」
「おとうたま! おかあたまをつれてやかいに! きちんとおさそいできてえらいでちゅ!」
「んお? あ、ああ……頑張ったぞ」
なぜかクロヴィス様がフィーナに誉められているわ。
クロヴィス様も目を瞬かせながら話を合わせている。
「ここからが本題だ。王都までは馬車で十五日かかる。そんな長旅に幼いフィーナを連れて行くことはできない。だから、少々長い期間となるが、この屋敷で俺たちの帰りを待っていてくれるか?」
クロヴィス様の話を聞いたフィーナは、顎に手を添えて考え込んでしまった。
「お母様が同行するならヒロインが付け入る隙はない? 原作の展開を回避できそうだけど……ううん、この目で見るまで安心はできないわね。それにヒロインがもし原作を知る転生者だったら? ダメね。悠長に留守番なんてしていられないわ」
「なんて?」
フィーナはモゴモゴと何やら呟いているけれど、うまく聞き取れなかった。随分と流暢に話していたような……
そんなことを考えているうちに、フィーナの中で答えが出たらしい。
ガバッと顔をあげ、ビシッと右手を挙げた。
「フィーもいきまちゅ!」
「えっ!? 話を聞いていたか?」
まさかの回答に、クロヴィス様はギョッと目を剥いた。
「はい! きいてまちた! とおいのでちゅよね? だいじょうぶ、フィーはつよいこですので!」
ムンっと突き上げていた右手で力瘤を作ってみせるフィーナ。得意げな顔をしているけれど、その腕はぷにぷにもちもちでしかないのよ?
さて、どうやってフィーナを説得しようか。そう逡巡していると、不意にフィーナの表情が翳った。
「ひとりでおるすばんは、いやでちゅの」
ハッとして、私とクロヴィス様は顔を見合わせた。
そうだ、日頃元気なフィーナを見ているから、つい忘れてしまいそうになるけれど、フィーナは親を亡くしてまだ間もない。一人残しても大丈夫だと、少しでも考えた自分たちの浅慮さを反省する。
王都までの馬車旅。小旅行だと思って楽しんでもらおう。
「そうね。一緒に行きましょう」
「やったあ! ありがとうございましゅ、おかあたまっ! うふふ、さっそくじゅんびしなくっちゃ!」
バンザイをしたフィーナは、ぴょんっとクロヴィス様の膝から飛び降りると、そそくさと扉へと向かっていく。
「王都でクロアネ布教のチャンスでもあるわね……チラシでも作る?」
ブツブツとまた何か呟きながら、フィーナは執務室を出て行った。
「と、とにかく、王都へ向かう準備を進めよう」
「え、ええ。そうですね」
この後もクロヴィス様と打ち合わせを続け、十日後には王都へ向けて出発することとなった。




