第十一話 狼の精霊① ◆sideフィーナ
「はぁ~昨日も両親が尊かったわ」
「同感です」
初めての視察の翌日。
私は昨日の余韻に浸りながら、記憶がみずみずしいうちにお父様とお母様が恥じらいながら手を繋ぐ様子をノートに描いていた。
「やっぱり描けば描くほど昔の感覚が戻ってくるわね」
始めは四歳児の手の感じと大きさに慣れなくて、絵のバランスがずれちゃってたんだけど、それもだいぶ矯正されてきたように思う。
「うん! いいわ! 最高!」
ザッと下書きが完成し、両手で掲げてうーんと唸る。
私の背後でクロエも食い入るように下絵を見ている。ふふふ、よく描けているでしょう?
「うーん、でも、ちょっと寂しいわね……そうだ! 中庭に出てバラをスケッチしましょう。きっと二人の周りをバラで囲んだらもっと素敵な絵になるわ! 行くわよ、クロエ!」
「かしこまりました。あっ、お嬢様! 走ってはなりません!」
「走ってないもーん」
背中にクロエの叱責を受けつつ、可能な限り足を早く動かして廊下を進む。これは走っているわけじゃない。そう、早歩きだから!
そう心の中で言い訳をしていると、角を曲がったタイミングで誰かとぶつかって尻餅をついてしまった。
「ぶっ、いてて……」
「フィーナお嬢様!? 大変失礼いたしました。お怪我はありませんか?」
「あ、セバス」
ぶつかったのは執事のセバスチャンだった。いつも笑顔で優しいおじさま。綺麗な白髪を後ろに撫で付けて、片眼鏡を付けている。
セバスは尻餅をついた私を心配そうに覗き込んで眉を下げている。すぐにヒョイッと抱き上げて立たせてくれた。
「ごめんなさい。いそいでいたから……」
「いえいえ。お気をつけくださいね……っ!?」
終始にこやかにしていたセバスの表情が、急に険しくなった。え、どうしたの? 膝擦りむいてた?
もしかして私が怪我をしてしまったのかと足元に視線を落とすと、大事なスケッチブックを落としてしまっていたことに気がついた。
そしてセバスが見ていたのもそのスケッチブックで――ついさっきまで描いていた二人の絵が見開かれていた。
「お、お嬢様! それは……!?」
私が落としたお父様とお母様の絵を指差し、ワナワナと肩を震わせるセバスチャン。さすがに四歳児の画力ではないものね。不審に思っている……?
不安になってセバスチャンの様子を窺うけれど、どうやら少し様子が異なるようだ。
セバスは瞳を潤ませ、両手で口元を覆っている。乙女か。
「こ、この素晴らしい絵をお嬢様が……? ああ、アネット様の聖母のような柔和な美しさと、クロヴィス様の凛々しくも優しい雰囲気がとてもよく描かれております。お嬢様は絵画の才に秀でていらっしゃるのですね」
若干早口で捲し立てるように話すセバスチャン。心なしか頬が紅潮している。スンスン、これは同胞の匂いに他ならないわ!
ギラン! と自分の目がギラめいたのが分かる。
「セバス……もしかして、ほちいのですか?」
「なっ!? そ、そんな! 不肖セバスチャン、けしてそのようなことは……ぐうう」
執事としての矜持なのか、セバスチャンは自らの欲望と激しい戦いを繰り広げている。
「セバス、いいのでちゅよ? じぶんのよくぼうにはちゅうじつにいきるのです。その絵はセバスにあげまちゅわ」
構図はしっかりと頭に入っているし、後で中庭に出た時に描き直せばいいだけだもの。
スケッチブックから丁寧に先ほどの下絵を切り離す。
「お嬢様……っ! ぐっ、ありがたき幸せ……すぐに額縁を用意して自室に飾らせていただきます」
そこまで?
「そ、そう……その絵はもうセバスのものでちゅから、すきにかざってくだちゃい」
「お嬢様っ!」
感動に打ち震えるセバスチャン。長年アンソン家に仕える執事だもの。その主人夫婦たる二人を推していないはずがないわよね。下書きで申し訳ないし、着色した絵を今度贈りましょう。
密かに設立を目指しているクロアネファンクラブ会員番号三番の席が埋まるのも、そう遠くなさそうね。
もちろん会員番号一番は私! そして二番はクロエよ!
内心ほくそ笑みつつ、天使の笑みを携えてお父様とお母様の絵を差し出す。
セバスチャンは涙ぐみながら両手で絵を受け取り、皺をつけないように丁寧に胸に抱いた。
「後生大事にいたします」
「大袈裟よ」
うっかり素が出てしまったじゃない。
「じゃあ、いくわね」
「はい! 心から御礼申し上げます」
セバスチャンの最敬礼を背に受けつつ、クロエと中庭に向かった。今度はちゃんと歩いているわよ?
「お嬢様、その……」
道中ずっと、クロエはどこかソワソワした様子だった。
「あら、あなたも欲しいの?」
「よ、よろしければ……」
ほんのり頬を染めるクロエが可愛いわ。いつもクールで感情を顔に出さないクロエが少しずつ表情豊かになっている。そうさせる推しカプの存在の尊さをしみじみと感じる。
「いいわ! できたらあげるわね。描いて欲しい構図とかあるの?」
「そうですね……恥じらいながら見つめ合うお二人が、とても……尊うございます」
「分かりみが深い。任せて」
なんて話しながら中庭に出る。
アンソン家の中庭は広い。優秀な庭師によって季節ごとの花々が美しく咲き誇っている。
今はちょうど薔薇がきれいに咲いている季節なので、薔薇の花壇へと向かう。
「うん、いいわね! 創作意欲が沸るわ!」
私は中庭の所々に配置されているベンチにピョンっとお尻から腰掛けて、シャシャシャッとペンを動かす。
すると、なになに? と言ったようにチカチカと瞬きながら精霊たちが手元を覗き込んでいる。
この中庭には、精霊がたくさん暮らしているみたい。中庭で遊んでいると、必ずと言っていいほど精霊が周りを飛んでいる。まるで一緒に遊んでるみたいでちょっと嬉しいのよね。
私の絵に興味津々のようなので、彼らも小さく絵に取り入れることにした。
サラサラッと描いていくと、明らかに興奮したように私の頭上を旋回し始めた。ちょ、風が吹くからやめて!
「もう……お話しできたらもっと楽しいのになあ……ん?」
紙がバタバタして線が安定しないので、ちょっと休憩しようと顔を上げると、何か違和感を抱いた。
いつもの中庭だけど、何かが違う。いや、何かがいる?
スケッチブックとペンをそっとベンチに置いて、私は違和感の正体を確かめるべく中庭を横切った。
「お嬢様?」
クロエがどうしたのかと後ろをついてくる。
美しく剪定された生垣の下。うん、やっぱり、何かいるわ。
「……え?」
少し空洞ができているところを覗き込むと、そこに横たわっていたのは美しい狼だった。
青みを帯びた白く美しい毛並み。私よりも少し大きな狼が苦しそうに胸を上下させている。
「もしかして怪我してるの? それとも病気?」
カサカサッと葉を手で避けて様子を確認する。目立った傷はなさそうだけど、随分と苦しそう。どうしたんだろう……
そっと手を伸ばすと、警戒したように「ウォルルル……」と力なく唸り声を上げたが、私の手を振り払ったり噛み付いたりする元気はない様子。大きさからして、まだ子供かしら?
どうしよう。このまま放っておいたら死んじゃう?
部屋に連れ帰って看病をしたいけど、流石に許可は降りないわよね……だって狼だもん。お母様が見たら卒倒しかねないわ。
近くの森から降りてきたのだろうか? それとももっと遠くから来た?
とにかく、せめて寝床だけでも用意をしてあげたい。
「お嬢様? 先ほどから蹲って何をしているのですか?」
「え? クロエには見えないの?」