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入生想談  作者: 上代朝哉
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 目を覚ますと知らない部屋にいる。知らない天井がある。僕は自分が寝ていたベッドから体を起こす。室内を見回す。どうやら男性の部屋らしいが、僕の部屋じゃない。ここはどこだ?


 枕元にはスマホがあり、これも僕の持ち物じゃない。この部屋に本来いるべき男性のスマホだろう。他にも、テーブルの上には雑誌などが開かれたまま置きっぱなしで、男性本人は自分の日常生活が途切れることになるだなんて思いもしていなかったふうだ。しかし実際にはその男性はいなくなっており、僕が代わりにこの部屋にいる。僕はどうしてここにいる?


 とりあえず、アパートの一室とかではなさそうだ。一軒家を構成している部屋のひとつのよう。窓から外を見遣ると、ここが二階であることもわかる。外の景色には見覚えがない。


 この部屋を出て、リビングなどに下りていった場合、誰が待っているんだろう? 僕の家族がいるんだろうか? でもここは僕の家ではないし……。


 もう少し状況を整理してから行動するべきだと判断し、僕は部屋にとどまり、まず今日の日付を確認する。六月二十二日。土曜日。そして、現在時刻は午前七時三十二分。ふうん。


 まだ少し寝ぼけているのか、今日が六月二十二日だとわかっても、僕はじゃあ昨日は六月二十一日だったっけ?と考えてしまう。記憶がぼんやりしている。僕には六月二十一日を過ごした覚えがない。もっと言うと、六月二十日の記憶もない。あれ? それを言うなら、僕ってなんだったっけ? 学生? 会社員? 子供? 大人? あれれ? なんにも思い出せない。名前は与時統太(よじとうた)。それははっきり思い出せる。だけど自分の年齢がわからないし、そういえば僕の家族って……誰だっけ? いたかな? いたような気はするし、さっき家族について考えたとき、家族のビジョンがぼんやりと頭に浮かんだはずなのだが、今となっては夢のようにおぼろげで記憶を掬い取れない。


 まずい。かなり自分という存在があやふやになっている。とどめとばかりに、姿見に知らない男の子が映り、僕は卒倒しそうになる。本当なら僕の姿が映るはずのところに、見知らぬ男の子が映っているのだ。つまり僕の姿はその男の子になってしまっているということだ。誰だ。


 この部屋の持ち主か? まさか、と思う。まさか僕の魂だけがこの部屋の持ち主に入り込んでしまっているのか? だからこの男の子のスマホが普通に置きっぱなしになっているのか。男の子は昨晩、今朝もここで目覚めるつもりで眠りに就いたのだ。当たり前だ。当たり前だよな? そんなの、この部屋のこのベッドで眠れば、翌朝も同じ場所で目覚めると思うよな? 僕だって思うし、だからこそ僕はそんな、自分が知らない男の子の体に入り込んでいるだなんて毛ほども考えなかった。


 どうする? とりあえず男の子のフリをしておくしかない。この男の子は誰で何歳なんだろう? 鏡で見た感じ、中高生くらいだ。小学生以下では絶対にない。大学生でもなさそうな雰囲気だ。


 具体的に調べた方が早い。僕は失敬して男の子の学生証を探す。スクールバッグのポケットに入っている。名前は斎川樂斗(さいかわらくと)。芳日高校生。誕生日から計算すると十六歳……二年生だ。斎川樂斗くん。僕は斎川樂斗くんの体に入ってしまっているらしい。


 斎川くんは部活をやっているんだろうか? 今日は土曜日だから学校はないはずだが、部活動ならその限りじゃない。斎川くんの所属する部活によっては今日も活動をしているかもしれない。僕が斎川くんのフリをするならば、部活動にも参加しなければならない。いや、しかしまだまったく気持ちの整理がついていないし、わからないことばかりだ。下手に大勢の知り合いがいる場へ出ていくとまずいかもしれない。ボロが出そう。まずは斎川くんの友達に現状を明かして、一人でも構わないから僕自身の味方を作ろう。斎川くんのフリをするに当たって、斎川くんがどういう人物なのかも知っておかなければならない。


 申し訳ないがもう一度失敬させてもらい、僕は斎川くんのスマホを開く。パスワードロックが立ちはだかったら一巻の終わりだったが、ロックはされておらず、普通に開く。僕は連絡先のリストを眺める。一番上に出てきたのが『あかね』で、名字なのか名前なのかすらわからないし、名前だとしたら女の子っぽいのでやめておく。まずは同性の友達に事情を説明しておきたい。画面を下にスクロールさせると『河口(かわぐち)まこと』という名前が目に入る。アイコンもサッカーボールだし、間違いなく男の子だ。僕は『河口まこと』にメッセージを送る。


『おはよう』


 数分後に返事がある。『おはよう。何?』


『相談したいことがあるんだけど』


『何?』


 何?ばっかりだな。斎川くんは河口くんとあまり仲が良くないんだろうか? でも連絡先の登録はあったし、まあ下手に大親友とかに相談するハメになるよりかはいいんじゃないか? 大親友の場合、僕が斎川くんに入り込んだことに激怒したりするおそれもある。程よい間柄の相手の方がスムーズに相談できそうだ。その点で河口くんは具合がよさそうだった。もちろん、メッセージの履歴を辿れば斎川くんと友人達の親密度をそれぞれ個別に測ることだってできる。でも僕は斎川くんの個人情報をそこまで根掘り葉掘りはできない。そして時間的な余裕もそこまでない。心の余裕も。


 僕は本題に入る。『大事な相談だから会って話したいんだけど、出てこれる?』


『ええ? なんの話?』


 乗り気じゃなさそうだな。『申し訳ないけど会ってからしか話せない。忙しい? 無理にとは言いません』


 別に河口くんじゃなくても構わないのだ。無理なら無理でいい。五分くらい待つと『わかった』と返事が来る。続けて『どこで待ち合わせ?』との質問が来る。


 どこがいいんだ? 僕はこの地域の地理はさっぱりだ。

『どこがいいですか? お任せします』


 すると『じゃツースターで』と指定される。


 けっきょくどこ? 僕は斎川くんのスマホでツースターを検索する。コーヒーショップが出てくる。そして位置情報から、ここが鷹座の芳日町らしいということもわかる。


『芳日町のツースターでいいですか?』と僕は確認する。


『はい』


『ありがとう』


『何時?』


 おっと、時間。今が八時だから……『九時でお願いします』


『九時半で』と訂正される。


『九時半でいいです』と僕はオーケーする。


 よし。そうと決まれば準備をしなければならない。僕は着替えて部屋を出る。すぐ傍にあった階段を下り、洗面台を探すが、先に斎川くんのお母さんに見つかる。たぶん斎川くんのお母さんだ。僕の母親ではないと思う。母親の顔をイマイチ思い出せない僕だけれど、さすがに視認したらピンと来るだろう。ピンと来ないということは僕の母親ではなく、斎川くんのお母さんで違いない。というか、そもそも普通に考えたら斎川くんの家に僕の母親がいるはずない。


 僕は斎川お母さんに「おはよう」と挨拶しておく。「九時過ぎに出掛けるよ」


「…………」斎川お母さんは目を丸くしている。


 あれ? 僕が息子の樂斗じゃないっていきなりバレた?

「どうかした?お母さん」


「あんた、大丈夫?」と笑われる。「挨拶なんて何年振りにした? しかも『お母さん』だなんて」


「え」なるほど、その段階でもう既に不審なのか。どうやら斎川くんは親とそこまで仲良くなかったらしい。「……別にいいでしょ?たまには」


 僕が誤魔化すと、斎川お母さんは「もちろん。いいよ」と機嫌よさそうに言う。危ない。


 斎川樂斗くんと斎川お母さんがそこまで仲良くないんだったら、僕の事情を斎川お母さんに説明してしまっても問題ない気もするが……やはりやめておく。仮に険悪な仲だったんだとしても、息子の中身が替わってしまっているという現実は母親にとってはきっとかなりショッキングであるはずなのだ。少なくとも今はまだ明かせない。


 一階をぶらぶらし、発見した洗面台で身だしなみを整える。鏡の前に立ったとき、自分じゃない誰かの姿が映し出されるというのは、とんでもない違和感だ。これにも慣れなければならない。いや、最善は僕が自分自身の体に戻り、斎川くんもここへ戻ってくることなのだが、方法がわからない以上、今は現状を生きやすく改善していくしかないのだ。


 斎川お母さんが出してくれた朝食を摂り、余った時間で斎川家の間取りを確認してから僕はコーヒーショップ『ツースター』を目指して家を出る。鷹座なんてテレビでしか見たことがないし芳日町なんて知りもしなかったけど、スマホの地図アプリのおかげで迷わず歩ける。住宅街から大通りに出て、ずっと進んでいくと、ある。コーヒーショップ以外にも生活に便利な店がずらりと並んでいて、この辺りは随分と暮らしやすそうだなあと感じた。


 店内に入ると、さっそく店員から人数を訊かれるが……待ち合わせをしているんだけど、そういえば河口くんの顔がわからない。だから、もう来ているのかまだ来ていないのかも不明なのだった。


 心細げに店内を眺めていると、軽~い感じで手を振っている人がいるけれど、あれは女の子だ。僕ではない別の誰かに手を振っているようだ……と、最初は思ったのだが、女の子は僕の方を睨むように見て延々と手を振っている。もしかして、河口くんって男の子じゃない? いや、そんなはずないよな?


 ともかく僕はその女の子の席へと向かう。長い黒髪の女の子が両手をテーブルの上に置き、姿勢よく座っている。姿勢がいいからか、座っているにも関わらずすらりと長身に見える。体つきも華奢ではなく、かといって大柄でもなく、なんというか、健康的に引き締まっていてアスリートみたいだ。確定的に女の子だった。服装という観点からも、どう見ても男の子じゃない。綺麗な子だったので、思わずそのまま「綺麗な子」と感想をつぶやいてしまう。


「はあ!?」と顔をしかめられてしまう。


「あ、ごめん」まさかの予期せぬ女の子だったので僕は焦っている。僕だって男なので、いきなり綺麗な女の子の前に放り出されると緊張するのだ。「あの、おはよう。来てくれてありがとう」


「おはよ」と河口くん……じゃない、河口まことさんは簡素なトーンで挨拶を返す。「大丈夫?斎川くん」


「うん、大丈夫大丈夫」と反射的に言うが、全然大丈夫ではないので「いや、やっぱり実はちょっと困ってるんだよね」と言いなおす。


「うん。なんか様子が変」


「……ところでその前に、『まこと』ってどういう字なの?」


「……なんで?」怪訝そうに見られる。


「いや、僕のスマホの電話帳、『まこと』がひらがなになってるから」


「……本当の『真』に、お琴の『琴』」


「ああ……」河口真琴。これだと女の子っぽい字面だ。これで登録されていたら、例えアイコンがサッカーボールだったとしても僕は『河口真琴』さんには連絡しなかっただろう。「わかった。ありがとう」


 僕が斎川くんのスマホの『河口まこと』を『真琴』に修正していると、「相談って何?」と質問される。「っていうか、大事な相談をなんであたしに?」


「……やっぱり、僕と河口さんって全然仲良くない?」


「……仲いいと思う? ねえ、斎川くんホントに大丈夫? なんか恐いんだけど」


「いや……」だとしたらこれからもっと恐い思いをさせるかもしれない。斎川くんと河口さんの関係は、交流の少ないクラスメイトといった感じで、本当に打ち解けた空気がわずかもない。なんなら河口さんは僕を超警戒してしまっている。「あの、朝早くから呼び出してごめん。来てくれて助かったよ」


「うん。で、相談って?」


「僕のこと、信じて聞いてほしいんだ。信じてくれる……?」


「内容によるけど。話してみて」


「えっと……」どう話そうか少し迷うが、とりあえず核の部分を言ってしまう。「僕、斎川樂斗じゃないんだ。斎川樂斗の体に入り込んでしまった、与時統太です」


 河口さんはまた顔をしかめ、うつむき、嘆息する。「……本気で言ってる?」


「本気」と僕は力を込めて頷く。


 うつむいたまま、河口さんは考え込むようにしている。「たしかに、雰囲気からして全然違うんだよね……」


「うん」

 だって、僕は斎川くんじゃないんだから。しかし、パッと見の雰囲気だけで別人かと疑われかねないのはあまりにまずい。


「だからあたしに連絡してきたの? 斎川くんが誰と仲いいかわからないから。電話帳の上の方にあったあたしに?」


「そう。河口さんは『か』だから電話帳のほぼ先頭だった。で、河口さんは男の子なんだろうって勘違いしてたから。女の子だってわかってたら呼ばなかったよ。ごめんなさい」


「…………」


「もしも嫌だったら、このまま帰ってもらってもいいし」


「……帰らないよ。わざわざ化粧もしてきたのに」


「化粧するの?」と僕は無関係な部分に反応してしまう。「しなくたっていいんじゃない? お肌綺麗だし。すっぴんでも可愛いよ」


 河口さんはより深くうつむいてしまう。「……ホントに斎川くんじゃないっぽいね。マジなの?」


「マジだよ」


「斎川くんの体に入っちゃったの?」


「入っちゃった与時統太です」


「いつから入ってるの?」


「今朝起きたら、いつもと違う部屋だなって思って、鏡見たら、斎川くんだった」


「斎川くんはどこ行ったの?」


「わからない」


「……ちなみに相談ってのは?」


「斎川くんのフリをしなくちゃいけないから、斎川くんのことをいろいろ教えてほしいんだ。そしてできたら、僕のこれからの生活をさりげなくサポートしてほしい」


「悪いけど、あたし斎川くんのことほとんど何も知らない」河口さんはシンプルに言う。


「仲良くないんだね」


「ただのクラスメイトだし」


「それでもわかることはあるでしょ?」とにかく河口さんから斎川くんの情報を得たい。その質と量に応じて、次の予定を決めたい。


「別に……超目立つわけでもないし、目立たないわけでもないし。友達と普通に仲良くやってる普通の男子だよ」


「真面目?」


「普通。授業をサボったりとかはないかな」


「僕のこの性格とどれくらい違いがある?」


「ええ……? 斎川くんの細かい性格、あたしそんなに知らないからな。斎川くんの方がもうちょっとヤンチャっていうか、賑やかかな」


「明るいってこと?」


「うるさいっていうか」河口さんは平淡だ。「あと、『僕』って言わないよ、斎川くんは」


「『俺』って言ってる?」


「たしか」


「ふうん」


「……あたしは今の斎川くんの方が話しやすいけどね」


「斎川くんって女の子から嫌われてた?」


「さあ? あたしは別に。他の子からもそういう話は聞いたことないけど。好かれてもないし嫌われてもないと思うよ」


「トラブルを抱えてたりとかは?」


「それはなんとも言えない。抱えてないように見えたけど、そんなのあたし目線じゃわかりっこないし」


「そっか」


「櫻田くんとかに訊いた方がいいよ」河口さんは頬杖をつき、少し落ち着いた居住まいになる。「櫻田茜(さくらだあかね)。わかる?」


「あ、あかね?」


「女の子みたいな名前だけど。斎川くんの親友だよ」


「あー……」電話帳の一番上にあった名前だ。すると、『あかね』に連絡した方が正解だったんだろうか? 「茜が男で真琴が女で……ややこしいな」


「真琴は女でしょ。どう考えても」


「……そうだね。ごめん」


 僕がいったん口を閉ざすと、河口さんは僕を眺め、それから「とりあえず注文しよ」と言う。「うちら今、何も飲まずに場所だけ使ってる人になってるから」


「ああ、うん」


「なに飲む?」河口さんが注文用のタブレットを操作し始める。


「うーん……あ!」


「うわ、なに……?」


「お金持ってきてない……」

 斎川くんの私物はできるだけ持たないようにしようと思っていたが、コーヒーショップで待ち合わせておいて手ぶらで来るのもどうかしている。


 河口さんは肩をすくめ「奢るよ」とだけ言う。


「あとで返すから」


「別にいいから……あたしこれ」河口さんは早々に選択を済ませ、僕の方にタブレットを向けてくる。「斎川くんは?」


「ん、んー……」

 僕は斎川くんじゃないんだけど、斎川くんの体に入ってしまった以上は『斎川くん』と呼ばれることにも慣れなければならない。いや、でも河口さんには僕の正体を明かしているんだから『与時統太』扱いをしてほしい。しかしそれも難しい話か。河口さんは親しくないながらもクラスメイトととして斎川くんを知っていて、唐突に中身が替わってしまったからといって斎川くんを斎川くんじゃないものとして仕切り直すのは簡単ではないのかもしれない。


 僕も適当に注文をして、タブレットを定位置に戻す。すると河口さんが「あたしからも質問していい?」と訊いてくる。


「いいよ」


「斎川くんは……あ、斎川くんじゃない」


「与時統太です」


「……あなたのもともとの住所は?」


「!」

 僕はびっくりしてしまう。答えられない。僕は自分がどこかで暮らしていた記憶もはっきりあるのに、しかしそれがどこなのかまったく覚えていない。覚えていない? この表現自体が合っているのかもイマイチ自信がないけれど。


「あなたが斎川くんじゃないとしたら、斎川くんはあなたと入れ替わってるんじゃない? 漫画みたいに」


「なるほど」

 僕の体の方に斎川くんが入り込んでいるかもしれないということか。それは思いつかなかった。なぜだろう。


「あなたのもともとの住所がわかれば、斎川くんの無事も確認できるでしょ?」


「…………」

 でも僕は実家の住所がわからない。地元の町の景色などは思い出せるが、そこがどこなのかがわからない。


「そういえば、あなたは何歳? なんとなく同い年だって考えてたけど、そうとは限らないよね」


「…………」

 それもわからないのだ。僕は子供なのか大人なのか、さっぱりなのだ。学校に通っていた気もするし働いていた気もする。


「あたしの思ってること言っていい?」河口さんが確認してくる。「衝撃的なこと言うかもしれないけど」


「どうぞ」僕は手で促す。一応身構えておく。


「あなたは斎川くんの別の人格とかじゃなくて?」


 多重人格ってやつか。「いや、それはないよ」


「斎川くんに入り込んだんじゃなくって、斎川くんの内側から生まれてきたんじゃないの? だから住所も年齢もわからないんじゃなくて?」


「ありえない」

 僕はそこだけは自信満々に否定できる。だって僕はずっと存在していて生きていたわけだし、その記憶もある。斎川くんに入り込んだことでだいぶあやふやな記憶になってしまったが、仮に僕が斎川くんの別人格だったとしたら、そんな記憶は一切ないはずだ。可能性の話で言うなら、斎川くんの記憶を引き継いだりするかもしれないけれど、斎川家は僕にとって未知だったし、僕は櫻田茜くんのことも河口真琴さんのことも少しも覚えがなかった。


「じゃ、探そう」河口さんはスマホを取り出す。


「どうするつもり?」


「あなたが斎川くんと入れ替わってるなら、斎川くんは今あなたの家にいるんじゃない? 自力でここまで帰ってくるかもしれないけど、あなたみたいに記憶が曖昧になってたら帰れず途方に暮れてるかもしれないでしょ? だから呼びかけてみる。あなた、自分のスマホの番号とかわかる?」


「……わからない」


「だよね。SNSとかやってた?」


「やってないと思う」


「じゃ、この匿名掲示板に書いとくか。それから念のため、あたしのSNSでも……」


 僕はスマホをポンポンタップしたりフリックしたりしている河口さんをぼんやり見ている。「ありがとう」


「んー?」


「信じて、いろいろやってもらって」


「別にいいよ」河口さんはスマホに目を落としながら少し笑う。「これドッキリとかだったらマジで絶交するけど」


「ドッキリじゃないよ。現実だよ」


「ふうん」


「それに絶交するほどもともと仲良くないんでしょ?僕と河口さん」


「仲良くないね。喋ったこともほとんどないよ」


「じゃあ今朝の連絡、驚いたんじゃない?」


「うん。誰かと間違えてるのかと思ったんだけど」


「……斎川くんって、恋人いるのかな?」


「いないんじゃない? 聞いたことないし」


「そっか」


「残念?」


「え、いや。ホッとした。いたら困るよ。できるだけ斎川くんのものには手をつけたくないんだから」


「真面目。斎川くんはもうちょっと砕けてる感じだよ?」


「そうか。僕は斎川くんにはなりきれないかもなあ」


「まあいいんじゃない? 少し違ったって」


「多少なら誤魔化せると思うけど、来週からは気合い入れて登校するよ」


「ん。頑張れ」


「何かあったら、助け船とか出してほしいかも」


「えー? いいけど。できる範囲でね」


「ありがとう」


「お礼はさっき聞いたよ」


「一回だけじゃ足りないと思うから。来てくれたのが河口さんでよかった」


「どうかな。なんか面倒なことに巻き込まれた気もする」


「できる限り迷惑はかけないようにするから」


 注文したコーヒーが運ばれてくる。僕の方から呼び出したのに、奢ってもらってしまったコーヒーだ。いや、お金はあとで払うつもりだけど。でも、いくら斎川くんのプライベートを荒らさないようにしようと心掛けても、それで他人に不利益を被らせていたら元も子もないのだ。その辺りはバランスを見極めながらやっていくことにしよう。もしたしから、僕はこのままずっと斎川くんの中にいなければならないかもしれないんだし。けれども逆に、明日になったらすべてもとに戻っているかもしれない。どうなるかわからない。やれることをやるしかない。


 僕は「真琴って呼んでいい?」と尋ねる。


「え、嫌」


「え」


「なんで?」


「だって、初めて出来た友達だし」


「友達かな」


「協力者?」


 河口さんは僕を窺い、「そんなベッタリ馴れ合う関係にはならないんでしょ?うちら」と確認してくる。「学校では、あたしにはあたしの友人関係とかがあるし。あんまり話しかけてこないでね?」


「はい」


 僕が勢いを折られて気落ちしていると「名前は好きに呼んでいいよ」と言ってもらえる。「相談もしてきてくれればいいし。あたしが乗れる範囲の内容で」


「うん」


「掲示板とかSNSはあたしが独断で処理する。何か情報が出てきたらあなたに渡す。それでいい?」


「いいよ。ありがとう」

 僕は何度目かのお礼を言い、コーヒーを飲む。真琴はそんな僕を眺め、ちょっと笑ってから自分もコーヒーを飲む。

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