苦しくない道は道じゃない
苦しくない道は道じゃない
2023.11.18
誰かのために何かをしなくてはならない、そんな課題を抱えて生きる人にとって、道と言うのは非常に大切なものなのかもしれません。
たぶん人間が本来のエネルギー以上に自分のエネルギーを発揮するのができる時というのは
つまりは頑張れるときというのは
自分から自由になって他人のために頑張れるとき。他人と言われてもピンと来ないときは、自分の子供といいかえてもいい。
無我の心持ちになってわかることがある。
昔、謝謝と对不起しかできない状態で、中国へきて、中国語を使わない直説法という教授法で日本語を教え始めた頃、日本語を教えていた子で今は深圳を離れ地方の日系企業の工場で品質部の部長をしている子がいます。近くに出張できた時に一緒にご飯を食べようと誘ってくれた。
誘われたその時は、平日に深圳の街中から東莞まで行くんかーいと正直乗り気ではなかったのです。ただ、なんとなく会った方がいい気もしてタクシーに乗った。都会的な街並みがどんどん走り去り、深圳から東莞に入る。
GDPの成長率が 5%なんかじゃなくってもっともっと激しかった頃、高度経済成長真っ只中だった頃、深圳ではおさめきれないその経済の波の余波を受けて発展した東莞。その勢いがピークアウトし、そして、コロナになり、コロナ後も調子の悪い中国の経済。
東莞の街の明かりはポツポツと少ない。
「たくさんの会社が潰れたんだよー」
訛りの強い運転手が高速道路から見える寂しい風景に説明を添える。
この風景を私は知っている。
流れ去る光の流れを見ながらそう思う。そして、私は時間を遡ったのです。
昔、来たばかりの頃の深圳は今のような大都会ではなく、砂漠の真ん中に街ができたというような、暗くて垢抜けない街だったのです。最近深圳を離れ近郊の東莞とか恵州へ行くとそこに一昔前の深圳を見る。
渋滞の中をやっとこさ指定のホテルまで辿り着く。ホテルのロビーに教え子ともう二人男の子がいる。
「久しぶりー」
見違えるように太った(中国ではこれを立派になったという。太っているってことはお金持ちになったってことだからね)教え子に手を振る。横にいた二人の我々より一回り以上年下の子たちが、私を見てちょっとポカンとした。
「会社の人?」
「はい」
「邪魔してよかったの?」
「いいの、いいの」
この態度を見て、私はこの若い子は二人とも中国人の彼の部下なのだろうと思い込みました。ところが実際は、彼が品質部長、残りの二人は技術の人で、そして、うち一人は技術部長で日本人だったのです。
「すみません。日本人の方だと思わなくて」
「ああ、いえいえ」
中国人に対してと日本人に対してで態度違うんかいって話ですが、彼の部下で日本語もわかんない人だと思ってましたから、挨拶も適当にしてましたし、ね。ところで、この技術部長さん、日本から来て数ヶ月だったのですが、なんか、中国語がめちゃめちゃうまかったんですよ。
「お上手ですね、中国語」
「ああ、いや、実は」
それで、自己紹介を受ける。この方ね、12歳で日本へご家族で移住して帰化された人だったんです。つまりは中国系日本人。日本語も中国語もペラペラなわけだ。
「へー」
生ビールのジョッキ片手に感心した。そして、日本へ向けて中国を離れた西暦を聞いてみたら。
「あ、その頃、私もう中国にいる」
「長いっすね!」
今度は感心された。やれやれ。ビジネスの現場で、こんな若いこと巡り会うのにももう慣れてきたぜ。
その後にですね、3人は地方から東莞まで高速鉄道で展覧会に来ているのですよ。材料とか設備とか展覧会で見たものについて想像していたよりも中国のものが先進的だったという話で盛り上がるのを傍でビール片手に聞いている。教え子の会社をちょっと興味があって調べてました。国内にもいくつかの工場を持ち、そして、海外は中国に三つこの他の二国にそれぞれ一つずつ工場をもつ。年商連結200億の結構おっきな会社だったんです。
今の会社に移ってから、お客さんの財務諸表を覗いて複数の日系の会社を財務諸表の数字から見てますね。200億って結構大きい会社だなとこの歳になってやっと実感した。もっと小さい会社の財務諸表をいくつも覗いてみてやっとです。200億と言えば、必要に応じて上場を検討してもいい規模ですね。
私の前の会社も同じぐらいの規模の会社で、海外にも四つ工場を持ってたのですよ。別れた夫を思い出すように、昔の会社をしみじみと思い出す。よく分かってなかったけど、うちの会社って、大手まではいかなくともおっきい会社だったんだな。全然、ありがたがってなかったぜ。つうか、分かってなかったな。ま、いいか。別れた夫のことはさ。そして、会話にもう一度参加する。
「会社の景気の方はどうですか?」
「ダメダメ。うちは人海戦術だから。中国の工場はどんどん人を削減して、今はもっと人件費の安いところで生産してる。生産移管してるんだよ」
「ああ……」
深圳や上海という都会から外れた地方の工場なので、深圳の企業よりはまだマシなようですが、それでも人件費の高騰は経営を圧迫している。これは、大多数の日系がそうなので、みなまで聞かなくとも理解できました。
「自動化とかに取り組まないの?」
「うちはダメだなぁ。今まで通りのやり方にこだわって、別の国に逃げるしか脳がないんだよ」
そう言って、つまらなさそうな、暗いともいえるような独特な表情をする中国人の子たち。
「昔は良かったよね、先生。先生に日本語を習いながら頑張ってた頃が一番楽しかった」
その時、彼の貫禄のある様子から大人の顔が消えて若い頃の顔が垣間見えた。
私は中国に来たばかりの頃、日系の工業団地で働いていました。お昼は工業団地の入居企業のお世話をする会社で仕事をして、夜は入居企業の中国人社員の皆さんを集めて日本語の授業をしていた。お預かりする学生はみんな、それぞれの日系企業の幹部候補の中国人の人たちでした。時は高度経済成長に入ってゆくところ、みんな若くてやる気があって輝いていた。
その中でもこの教え子はずば抜けて頭が良く、性格も温厚で、努力家でした。
理性的であろうと思っても、情にあついところのある自分は、この時不意に泣きそうになりました。
私の前の会社もこの子たちの会社も似ているのです。日本の人件費が高騰し、また、ブルーワーカーの担い手不足もあって、コストダウンを目当てに中国へと進出してきた数々の企業たち。頭がいいので要求は多いですが、まじめで働き者の中国人の人たちに助けられて、工場はどんどん大きくなり、品質はどんどん安定し、いい時代を過ごしてきました。日本は中国に助けられてきたはずです。
そして、役目が終わったら、中国の工場をたたんでゼロにして、別の国へ逃げるのですかと。
日本人だけが良ければそれでいいのですかと。
本当はですね、私の前の会社もこの子達も、母体がしっかりしていて資金のある会社ですね。無闇に中国を閉じて別の国へ行こうとなんかしてないと思いますよ。ただ、今、中国で、この工場を使って何をするか、という問いに真っ向から答えられる日本人の方たちは少ないのだろうなと。将来の明確な指針を与えられないまま、現状維持の状態、あるいは緩やかな縮小を繰り返しながらの運営を行なっているのではないでしょうか。
ここで、本当に、できることはないのか。
「一度投下した資本を簡単に諦めるような時代じゃないよね」
そこで、そういうところに一石を投じるのが私だと言う訳です。
「確かに今までのような利用の仕方で中国にいることはできないけど、でも、中国には今別の機会があると思う」
そうすると、水の与えられない花のようになんだか元気のない子が少し変わった。
「そうなんですよ。今日、展覧会に行っても思ったんです」
そして、若い技術部長さんが勢いづく。聞くに、日本の工場で働いていた頃は、変化のない同じような日々が続くことに嫌気がさしていたのだとか。新しい方法を導入しての改善に関しては、もっと年上の上の方達からよく見当もされずダメ出しをされていたとか。
「時代は変わっているし、同じことをただ繰り返しているだけでは、この先立ち行かなくなると思うよ」
「そうなんですよ」
「私は中国と日本を比較しているから思うのだけど、日本には今、投資力が足りないと思うんです」
中国の政府のやり方を見ていても、企業のやり方を見ていても思う。中国人というのは止まらない。日本人が考慮に考慮を重ねて失敗しない損しない策をうとうとしている間に、3回も4回もサイコロを振り、数々の手を打っているのが中国人です。
中国人のうつ手というのが、5個あったとして、中国人はその5個が全部せいこうするとは思っていない。5個のうち3個失敗したとしても、2個成功し、そして、トータルで投資額をカバーできるリターンが収められれば、それはすなわち成功です。
日本人はこれができない。失敗を恐れて、何もできない。そして、ジリ貧になっていくのです。
「種は今蒔かねば。10年後、20年後がないんだよ」
「そうですよね」
それから、若い技術部長さんは会社について語りました。とある定年を迎えた日本人社員の話です。
「定年後の再雇用は、こっちからお願いして残ってもらいたいような優秀な方もいれば……」
とある人は定年前からやる気がない。毎日パソコンの前に座っては仕事中にネットニュースを読んでいるような御仁だったらしい。
「それでも老後資金が足りなかったんでしょうね。会社も頼まれてしょうがなかったのかもしれないけど、再雇用されて今もいるんです。その人の会社でやってる仕事なんか、朝会社に来て、工場の正面の門の鍵を開けるぐらいですよ」
その様子と、また、会社全体の売り上げが年を追うごとに少しずつ落ちてきているのだとか、色々な意味で彼と同年代の同期の人たちがこのままこの会社にいていいのだろうかと疑問に思ってるらしい。
会社に利益を生まない年長の人を保護する一方で、若い子育て世帯の人たちの昇給は抑えられ、定年まで勤め上げても会社が好況だった頃に勤め上げた人たちと同じ程度の生涯年収をもらえる可能性は低いのです。そしてまた、海外では有能も無能も関係なく中国人の社員がバッサバッサと切られている。
中国人の人たちの労働賃金の安さに支えられて、日本の会社は安定した経営ができた。極論を言えば、毎日何をしているのかわからないような社員を雇う余裕は、中国人の賃金の安さから支払われていたわけです。それが、賃金給与の水準がどんどん上がりもう当初予定していたビジネススキームが組めなくなった途端に、まるで、イナゴが稲田を食い尽くして次の餌場へ向かうように去っていくのかと。
ビジネスだものそれがしょうがないでしょう。植民地主義でもあり、奴隷を買っていたようにすら思える。重要なのは、安価な外国人労働者から搾取しているのみではなく国内でだって日本人労働者から搾取する構造があるということだと思いますね。
日本は賃金が上がらない国ではないですか。
その反面、無駄な人員が飼われている。そういうことに対してものをいうのは外国人労働者だけではなく、日本人の若い世代の人たちでもあるでしょう。定年まで逃げ切ることしか考えていない年代の人たちではないのです。
定年まで逃げ切ることしか考えていない人たちは、頑固に保守的で、損失を出すかもしれない新しいことに対しては否定的です。自分が逃げ切るその退社のその日まで決済権限を下には渡さず、しかし、若者から奪い続けているのです。
まぁ、ただ、恨みつらみをこんなところに書いていてもしょうがない。
GDPが中国に引き続きドイツにも追い抜かれそうで、そして、このまま3位には戻らずそれどころか4位より下へと落ちてゆくかもしれない。少子化に歯止めは効かず、内需による盛り上がりも頑固に賃上げされない状況では期待できない。
少子化によって労働力が足りない。でも、一方で、活用できていない人材資源が日本の会社の中に既にいると考えています。若い世代を生かし切っておらず、また、女性の活用は限定的で、また、海外にいる人材も野放し。
彼らは横で、会社の中でやる気を失ってまじめに働かない社員について話していました。お客さんが急ぎのオーダーを飛ばしてきて、夜勤で頑張れば受注できる量だったのに断った人がいる。
「昔はこうじゃなかった」
それから、コロナの時期に生産停止に追い込まれた別の国の海外拠点のオーダーを引き受けて、一日3時間か4時間しか寝ないで連日連夜生産し続けた時の話をしている。その頃に比べ今年の売り上げが良くないようなのです。だからこそちゃんとやるべきだったのにと熱く語っている。
そんな熱心な討論を横で眺めながら、頭に浮かんできた言葉がある。
会社はわたしの家
私が前の会社にいた時に立ち上げの当時からずっとうちの会社で勤め上げてきた部下の中国人の子の言葉。30人前後で始めた最初から一番多い時で1000人の大工場になった。今は少しずつ減っている。だけど、立ち上げの当時からいる中国人の子達にとって、中国の工場は生まれてきた時から育ててきた家のようなものなんです。
ビジネスの局面が変わり日系企業がこの地を離れることもあるでしょう。ただ、働いていた工場が消えるというのは工場が生まれた時から一緒に成長してきた人にとって、どういうことなのか、その気持ちだけはわかっていてもらいたい。
給料がなくなるショックではないのです。
工場を閉めるという選択肢しか本当にないのですか?
そういう気持ちで工場を存続させるためにどうにかしろというオーダーを待っている中国人スタッフが何人もいるかもしれない。
能力もある守りたいという気持ちもある。だけど、会社から何も期待されずただ飼われている。そんな人たちを見るとなんとも言えない気持ちになるのです。
なるのですけれどね、ただ、こんなところでしんみりと終わらないのが私でして。
合理的な戦術でなければ合理的な結果など得られない。安い人件費を求めて漂流している間に、設備や技術にばかり投資してヒューマンリソースの確保のままならないままに少子化で深刻な労働力不足になり、資金もジリジリと減っていく。
立ち行かなくなった時にどうなるか。
日本人だけが良ければいいのか、その時選択した報いを受けるでしょう。
日本の会社は技術ごと、資金力のある中国の会社に買われるのではないでしょうか。
その時、中国人経営者のもとで、役に立たない日本人が今度はカットされてゆく。
因果応報かもしれません。
ただ、そんな目も当てられないような未来が見たいわけじゃない。
複数の国に渡って会社を経営されている方々にわかってもらいたい。
政治的な意味での国と国、そして、関係というのもありますが、それと、企業としての外国との関係というのはまた別だと思うのです。
実際にはある国とは別に、会社というのも一つの国のようなものです。いるのは日本人だけではない。ただ一方的に利用していらなくなったら捨てるようなそんなふうにしてもらいたくない。
日本人だけが良ければいいのか?
私はこの問いの延長線上に今世界を揺るがしている戦争があるような気がしてならないのです。
日本人だけが富むというのはいつか、日本人が下の立場に立った時にかつて与えなかったものを奪われるという未来を示唆するでしょう。
究極な話は、工場を閉じてもいい。いいけど、工場を一緒に守り育ててくれた人たちに対して何かできることはないのかと。
工場という建物と人材をそのままセットで売却するという形の企業譲渡の形もあるらしいのです。
資金もなく行き先が見えなくなったとしても、なんらかの形での生き残りの道を模索し提示する。
それが、かつて助けてくれた相手に対しての礼儀ではないでしょうか。
宴も終盤、転職した方がいいかもなんて若者特有の悩みに囚われている技術部長さんに一言。
「あなたの会社はお話を聞いていると、結構しっかりした会社だと思います」
「はぁ」
「今年なんて多くの日系はまっかっか、その中で余裕のあるのは珍しいですよ」
「そうですか?」
「うちの会社は問題ばっかりって思って転職しても、他の会社も似たようなもんですよ」
「えっ?」
「だからね、まず喧嘩しなさい」
「喧嘩?」
「何もしようとしない年寄りの人たちと思い切り喧嘩して頑張ってください」
「はぁ」
「喧嘩してもうまくいかなかった時だよ。辞めるのは」
ちょっと考えて……
「わかりました」
わかってくれたらしい。頼みましたよ。私の優秀な教え子がもっと会社で活用されるように。日本人であるあなたがみんなと一緒に頑張ってくださいね。
帰りのタクシーから教え子にウェイシンをいれる。
「苦しくない道は道じゃない」
彼はおそらく非常に優秀な人なのです。自分の能力をかけてやってきた工場が最後に閉じられた時、どんな気持ちになるでしょうか。一緒にやってきた部下の人たちと一緒に、何を思うだろうか。
もっと別のところで、別の会社で自分の能力を活かし、もっと世の中で貢献したかった。
才能を一つの会社に預け、それが無にきしたと思い、また、自分より若い下の人たちのために、会社の同朋たちのためになんらできなかったことにきっと非常に苦しむでしょう。それが可哀想でならない。
ただですね。彼の所属している会社には安定した経営の基盤がある。その会社の次の10年、或いは20年のブレイクスルーのきっかけを担えるのはもしかしたら中国の人たちかもしれない。そこに可能性はあるではないですか。
苦しくない道は道じゃない
最初から楽に通れる道などなく、彼のように優秀な能力を持った人は、後ろの人が通れるように道なき道を進むべきなのです。
成功するかどうかは紙一重です。ただ、うまくいって、会社にも利益が入り、あの3人の中国人と日本人の子たちが元気に頑張れますように。
未来は見えない。見えないからこそ未来なのです。
また、そこには決してうまくいかない未来しかないわけではない。
わたしたちの選択にかかっているのだと思っています。
汪海妹