勘違いの反省?
勘違いの反省?
2023.09.10
創作の方の調子を少し戻してきましたので、久々に執筆中の作品を振り返りつつ反省というか、見直しというかをしようかと。自分で自分のことを見て、なんでこんなことを書いてるのかな?そういうことを考えてみます。
自分の作品の中には、傷ついた男の子が出てきて女の子に救われるとか、或いは傷ついた女の子が出てきて男の子に救われる。もしくは、どっちも傷ついていてお互いに、というパターンが多いのかな?
人の心理的な問題については看過できない人間。で、その理由が自分が所謂『弱い人』なので、同じような弱い人を主人公に置こうとする傾向があり、そして、その相方のヒーローかヒロインが、その弱い人を救うという基本設定があるようでして。
で、この勘違い。勘違いの中段の後書にも書いたのですが、かみさま①のやり直しです。
こっから自作のネタバレします。
自由奔放な食いしん坊暎万ちゃんは小学校の頃いじめられっ子だった。
ここで、いじめを書ききれず、そのやり直しとして誕生したのが芽衣ちゃん。
そして、ここまで書いてきて、前よりもう少しだけ書けたかなと思いつつ、それでもまだ足りないなと思ってます。
足りないけどまぁいいやとも思ってます。
なんでかっていうと、小説を書くというのも日々書いて、書いて、それでやっと少しずつ前よりも良くなるというか……。最初から自分がこうだと思うところに辿り着けないのは、これはもうしょうがないと思ってますので。
で、小説の中ではトシ君という優しい男の子が出てきて、芽衣ちゃんの過去に一緒に立ち向かってくれるわけです。
自分自身は小学生の頃に芽衣ちゃんほどひどくはないですが、いじめられたことがあって、それを克服するというのが人生の初期のテーマというか、目的というか……。だから、自分にとってはいじめというのはとても大切なテーマです。そこからどうやって立ち直るかというのが。
では、私も人生の中でトシ君のような優しい男の子がいて励まされたのかというと、違うんですね。
何人か優しいいい彼氏がいて、支えられたのは事実なのですが、今の主人を含め、みなさん私がいじめられっ子だったって話は知りません。ひたすらに隠していたわけじゃないので、もしかしたら知ってるかもしれないけど、ディテイルは知らない。積極的に語ったことはないし。
ですので、この勘違いの中に出てくる芽衣ちゃんとトシ君のやりとりというのは、私の願望なんです。トシ君というのは私の願望が生み出した人物。
勘違いは少女漫画の王道設定で、地味な女の子×イケメン王子 顔がいいだけじゃなく優しくて、傷ついた主人公を励ましてくれる、これはこれでいいですし、このままこの路線で書いていくんですけど。
ただ実際はさ、やっぱ、いじめられた経験とそれによって自分がどんなことを思ったか、これって普通に生きていたらそれこそ誰にも話さずに生きていく出来事なのじゃないかなと思いますよ。
で、ここに、もう少し書くといじめの経験だけじゃなくて、それと同列か或いはもっと酷い出来事。あまり書きたくはないけど、家族を不幸にして失ったとか、そういう悲劇ですね、こういう出来事って誰にも話さずに生きてゆくと言っても過言ではないと思ってます。
私が小説を書いているのは、誰にも話せないことを書いているという側面もあるなと。
誰にも話せないことをでも言語にする必要があって書き始めたのが、自分にとっては創作の第一歩だったと言ってもいい。
言葉にできない辛いことというのは、心の底に澱むものですから。
そして、傷ついた心について正確に言葉に写すというのは難しいものですね。
誰にも見せない日記というものを10代の昔、今よりももっともっと心が不安定だった頃に書いているのですが、それはもう自分の鋭すぎる感性をどう取り扱っていいかわからなくて苦しんで悩む、暗い日記です。もちろん他人が読んで面白いものでもなんでもない。
しかし、これは人に読ませるために書いていたものではないですから、そこでひたすら、自分の本当の気持ちというのを言葉にすることだけに集中しました。書いても違う、書いても違う。何度も書いて、やっと本当の自分の気持ちや考えに辿り着いた時、涙が出るのです。
その涙が、不思議な涙なんですよね。泣いてるのに、気持ちが暗くならない。泣き終わった後に心が必ず軽くなる。不思議な涙。
こんな取り組みは、自分を立ち直らせるために行なっていたことで、別に創作のためでもなんでもありませんでした。
ただ、その日々が今の自分を作ったのだと思います。徹底的に自分の心を覗いたために、その副作用のようなもので、人の心も見えるようになった。
世の中、みんな、何かしら悩んでる。それぞれ悩みをもっているものです。
しかし、意外と悩みって誰にも話せないものですよねぇ。更に根深い深刻なものになると、自分が悩んでいたり傷ついていたりする事実ごと、人間は自分で見ないようにしてしまうものですから。
だけど、そんな自分の心を言葉にして自分で認識することができたら、そして、そこに少し違う角度から光が当たり別の側面が見えたら、解放されるような瞬間がある。
自分自身が自分のためにいろんな本を読み、それを自分の頭で考え直しながら自分を立て直してきた軌跡の中から、今度は自分を励ます物語を綴っているのだと思います。
その材料の一つは、誰にも見せないし、見せる必要はない私のあの暗い日記なのだろうな。
自分を励ますための小説が同時に、私と似たような他人を励ますことができたらなと思います。
暗い日記は材料の一つではありますが、もちろんそんなもの誰も喜んで読みませんから、普通に読んでいて面白くて、時々じんとするようなものが書けたらなと。しかし、その根底に流れるのは、自分が何度もダメになりそうになりながらでも必死で生きる中で見つめてきた、時折壊れそうになってしまう心を描くものでなくてはならないのだと思います。
小説は心理描写のみで成り立つものではないですが、自分はこの心理描写をやはり軸にいくべきなのだろうなと。
これを軸にそれを一番さらに磨きつつ、それ以外の要素を獲得してゆくべきと。
自分のスタート地点だった、あの、惨めさ。
この惨めさを恋愛で克服するようなものばかり書くのは嫌だなと思いつつ。
ただ、勘違いはこの路線ですからね。これはこれでちゃんといくところまでは書きましょうと。
そして、本日の最後にいじめについて思います。
私はですね、いじめは無くならないと思うんですよ。
これを、いじめられた経験のない人がいうとちょっとイラっときますが。というか、経験のない人がなくなるとかなくならないとかなくすべきとか、全てイラっときます。
私はいじめられた子が立ち直る話を書きながら、
「いじめられた子がどれだけ傷つくか、わかった?だからいじめなんてやめたほうがいいよ」
なんて陳腐なことは、口が裂けても言いませんよ。ま、でも、サバイバルナイフをそっと背中に当てられたらいうかもしれませんが。
そこまで突っ込んで書いた残虐なものでもないので、私が書いたもので罪悪感を覚えるいじめっ子はいないんじゃないかなと思いつつ、もし仮にいたとしてもね、その人が覚える罪悪感とかどうでもいいんです。そんなの自分でどうにかしろと思います。本人の問題なんだから。
私は、自分と似た人、いじめられた人のために書いていますから。
その人ならわかると思う。いじめはなくならないと思いますという私の気持ち。
いじめられた過去があっても、社会に出て生活をしていて大人になった目で周りを眺めていたら、人をいじめる人なんてどこにだっています。そういう人から戦わずにして身を守ろうとしたら、それこそ引きこもるしかないんですよ。
だから、自分は戦うことに決めたわけで。
子供の頃は世の中の人間を敵か味方かにわけて見ていました。これを言い換えるともっと単純で、いじめっ子かいじめられっ子かに分けて見ていたのです。ただ、その後の私の観察の結果によると、世の中はこうでもない。
三つに分かれます。
いじめっ子か、いじめられっ子か、見てる人か。
そして、いじめっ子には近寄らず、いじめられっ子と見てる人とは交流し生活をしながら、隠れて筋トレし、こちらからは近寄らないけれど向こうからやってきたら、やってやる、今度こそやってやるぅ。と、攻撃の機会を伺うように大人になった。
そして、自分に扱える武器を虎視眈々とたくわえたわけね。
で、大人になった今はもちろん出会う人間を敵味方に分けて見るようなことなんてしておりません。
ただ、基本的に全員を遠ざけて必要がなければ近寄らないという戦法でございます。向こうもそうだしね。
普段は槍も鉄砲も届かないような距離で対峙している大人も、必要があれば近づいてコテンパンにやり合う。或いは、自分の武器を見せつつ相手を威嚇して冷戦を続ける。
そんな中で人間を見ていると、ですね。
人間を、いじめっ子といじめられっ子と見てる人で分けて、いじめっ子を強い人、いじめられっ子を弱い人と思っていたのは間違っていたなと思います。一見強いように見えるいじめっ子にも弱点はあるんです。
向こうが強くて自分が弱いと思い、最初から負けているからいけない。
弱い方の人間の勝ち方というのもありますね。基本的にはぶつかり合いはさけ、でも戦いが避けられない時のために相手の弱点というのは常に探る。それと、弱い人間は徒党を組むべきです。或いは、自分たちを守ってくれる強い人の下に入るべき。
弱い人間には弱い人間の生き残り方があるわけで、そしてまた、きちんと目を凝らしてみていれば、強い人間にも強い人間の危うさや弱さがある。あれも、人間ですからね。
自分には強いリーダーシップという名の強引さはありませんけど、弱い立場だったことから周りの人の顔色には敏感で、人が何を考えているのかについてはよくわかる。また、馬鹿ではないですね。
生き残るために自分の武器がなんなのかを考え、常に内面では戦ってきた人なので。
そんな自分から見たら、たかが罪悪感ぐらいで、ま、でも、いじめっ子なんて人種は罪悪感なんて持ち合わせてないと思うけど、ヒイヒイ言われてもそんなん自分でどうにかしたら?と思います。
そういう意味では私という人間は、普段はニコニコと目立たないようにしていて、誰も見ていない2人っきりの時に嫌いないじめっ子的な相手を崖から突き落とすタイプの人かもしれませんよ。
しかし、崖から落とそうとすると、腕力で負けるかもしれませんから、やはり私のような人間は自分では表に出ず、表に出る人間にさりげなく進言をし、また、流言などを操って、表に出る人間の権力でもって首を落としてもらうのが一番でしょうな。
はっはっはっは!
しかし、直近でそれがうまくいかず自分が逃げる羽目になってしまいましたが……。
基本的には、平和主義者なのですが、その反面、人と人は争うようにできているというのも理解してまして……。自らは戦意をもっていなくとも、攻撃をうけることなんてざらな世の中でございます。
世の中からいじめなんてなくなりません。
戦いたくなくても戦わなくてはどんどん奪われそして最後は家から出られなくなってしまう。
だから、自分にとっての武器は何なのかということをとくと考え、自分で前へ進むしかないんですよ。
この場合の武器は威圧感だけではないのです。
流石にここまでの自分の人生観は、勘違いには微塵も出ておりませんね。作品がまだ現実の私に追いついていないということでしょうか。
自分のあの、惨めな気持ちを忘れたくないのです。
世の中というものが謎でした。
もともと自分は学校に全く興味がない。
家で好きな本だけ読めてれば満足な人間だったけど、学校に行かされ、目をつけられていじめられた。
その短い期間の経験を払拭するために非常な努力をしてきました。
あの時、私は幼稚な人間関係の中で、人間の獣性というものを見たのです。
そして、今はっきり言えることは、あの獣性は自分の中にもあるということなのですね。
そういう点では、私は自分自身に何の期待もしていないのです。
あの、私が憎んだいじめっ子の中にあった獣性は私の中にも奥の方にあるなと。
そして、私はある意味、他人にも何の期待もしていません。誰の心の中にもあの獣性はあるなと。
人間というのは、心の中にそんな獣性を持ちつつ、綺麗事を本心から思っているかのように口にしていると思って生きています。そんなに人間というものに失望し、軽蔑しているのかと言われると、それも違う。
つまりは自分は仏教で言うところの、人の本性は善であるか悪であるか、という問いに対して悪であると言う立場を取ってるにすぎません。
若い頃は、この隠れたところにある獣性について悩みました。感情の起伏が激しく、何かにつかれたように有頂天になり理想的な思想について滔々と述べた後、自分のその嘘臭さに反吐が出る。この頃の自分が自分で大嫌いだった。
今はちょっと違う。私は人の本性は悪であると思っていますから、自分の心が底の底まで澄んではいないことについて受け入れているのです。そして、他人に対してもその心がそこまで澄んでいることを求めてはいません。
ただ、自分の中にも獣は住んでいるなと言うのを忘れずに、その獣の鎖を離さないのです。
それが、生きるということではないでしょうか。だって、私たちは神でも仏でもなく人間なのですから。
そう思えば今まで私とは別の存在だと思っていた、敵と味方で言えば敵だった 所謂 いじめっ子 もまた違った存在として映るのです。
人生で出会う敵は、なんらかの縁でもって私の前に現れているのであって、私は何度もこれに叩き潰されるのかもしれませんが、それでも、その度に立ち上がり、やはりこれと対峙すべきなのではないかなと。そう、思うのです。
今日、冒頭で、自分のことを『弱い人』と敢えて書きましたが、今は自分で自分のことを弱いとも思っていません。自分には、踏まれても踏まれても挫けない強さがあり、反対に、所謂『強い人』は、簡単に人に折られるような人ではないのでしょうが、おそらく一度折れてしまったら、私のようには立ち上がれないでしょう。そういう意味では強い人も危ういのです。
この歳になってようやく強い人の危うさが視野に入るようになってきた。
それでは自分はこの強い人とまた対峙し、そして何をすべきなのか、それはわかるようなわからないようなで。
ただ……
人の本質は悪であるなどということを言いながらでも、輪廻天性が繰り返され人間の世が過去現在未来と続いてゆく中で、ただただ同じことを繰り返すのか、という気持ちもあるのです。
既に人の世の中には様々な人物によって書かれた答えというのが溢れていますが、だけど、私は私として生きているから、だから、せっかく生きているのだから、私の答えが欲しい。
人間はみんな本質は悪で、善の方へ向かって進んだりはしないものだ、それが結論ではないのです。人間が本来は悪でありながら、しかし、善の方に向かって進むような瞬間を、形にできたらと思います。
それが、見たい。
捻くれ者の自分にも、きちんと響くようなそんな瞬間です。
今日もまた見事にまとまらないままに思い浮かんだことを
中国の自宅より
汪海妹




