速度を落として
速度をおとして
2023.07.27
空を見上げる暇も余裕もなかった。久々に出かけて行った先でふと見上げると美しい雲と空。空の水色が大好きな私、久々に空の写真を撮った。
それから初めて降りた地下鉄駅から飲み会会場まで歩く。古馴染みに退職のご挨拶をと思って実に2年ぶりになるかと思う参加です。そして、地図アプリに誘導されてゆくと不意に向こう側にマンション群が見える。思わず写真を撮って旦那に送った。
「どこにいるでしょうか?」
仕事中でも割とレスポンスのいい主人。
「○○?なんで?」
今住んでるとこから地下鉄で1時間と徒歩で30分でした。意外と近かったのね。ぶらりローカル線の旅のような気分で出かける。帰りはもちろんタクシーです。行き帰りタクシーにすれば費用はかかるけど大変ではない。しかし、地下鉄に乗りたかった。
速度を落として。
地下鉄を降りてタクシー乗るかと思ったけどそれもやめる。それこそ熱中症になりそうな暑さ。紫外線も殺人的。それでもぷらぷら歩く。
速度を落として、普段とは違う日常をゆく。すると同じ深圳にいても目に入ってこないし感じられていなかったものが見えてくる。⚪︎⚪︎(街の名前)、ここは、息子が小学校に入るまで家族で住んでいた街です。てくてく歩いていたら道の向こうに私たちが住んでいた花園が見えた。
懐かしい……
ありとあらゆる思い出がどっと流れ込んできました。小さなあの子ともう少し若い私たち。舅姑との同居と育児のストレスで、決して幸せとも言えなかったあの日々ですが、でも、思い出となってみるとまた別の側面が見えてくる。
懐かしい……
結婚なんて、人生なんて、曲がり道を延々とゆくようなもの。それこそビートルズのロングアンドワイディングロード。私だけではなくてたくさんの男女が、男の人も女の人も結婚について悩んだり迷ったりしてることでしょう。結婚10余年、自分もよくわかんないんですけど。
ただね……
それがどんな10余年だったとしても、私はこの10余年、1人ではありませんでした。思い出を共有する相手がいるんです。夫婦というのは年月を共に生きる。いつも仲がいいわけでも、お互いをよくわかっていて通じ合えるわけでもないでしょう。ただ、共に生きた時間というのは残るし、それは長くなれば長くなるほど意味のあるものになる。
中には別れてしまう人たちもいると思いますが、それでも、過去一緒に生きた時間というのは残る。願わくば別れても、その時間については緩く共有し合えるような良い関係でいられれば良いですね。
別れても良い関係でいられる人たちなんて、なかなかいないとは思うのですが。
他の人たちにとっては意味のない、深圳郊外の遊歩道から川越しに我々のかつて暮らした花園を撮る。旦那に送る。平凡な写真が我々にとっては美しいのです。うっとりと思い出を眺める。
「私たちの始まりの場所」
きっと10年後、20年後に、一緒に暮らした人がいるという事実がもっと意味のあるものになると思うのです。
よくわからないのですが、私たちはきっと 相手を選ぶという点にとても力を入れてしまうと思うのですね。大抵はそうなのだと思う。自分が幸せではないのは相手を選び間違えたからではないかと、かなりの人が結婚してから思うものではないかな。それから、相手の嫌いなところをいくつも数え出してしまうのです。
それが相手に対しての不満なのかどうか、ちゃんと考えなければならない。
或いは、思い通りにならない自分の人生に対しての不満なのかどうか、ね。
主人と結婚したがために、大変だったことが山のようにあります。日本と中国の感覚が違うこと、それと、私たちの経済格差ですね。豊かに育った私と質素に育った主人で一緒に暮らすのは困難で、それにさらに輪をかけたおばあちゃんと暮らしてるわけだから。
私は主人の個人に対して不満があったというより、自分が今まで日本人としてとってきたごく普通の生活スタイルが維持できないという部分に大変さがあったのかなぁ。
あの、郊外の家で暮らしてた頃のけんけんがくがくが懐かしい。
この情動というか、感慨というか……。突然水が湧き出るように沸いた感情。出かけてきて、ここをてくてくぷらぷら歩かなければ見つけられなかった思いでした。あの私たちの家を目にして湧き上がったというか。
思うんです。
人生のヒントというかきっかけというか、自分が何をどういうふうに感じ、考え、そして、歩む方向を変えてゆく。
人生のいわばロングアンドワイディングロードのあちこちに隠されたゲームでいうところの隠れアイテムのようなもの。
見つけられずに前へと進んでいってしまってる人もいると。
人生において、結婚において重点を置くべきは、誰を選ぶかだけではないと思うのですよ。
日々の中で隠れている宝物を探し出せるかどうか。
とり忘れたままの宝アイテムはありませんか?
リセットボタンを押して何度結婚というゲームを遊び直しても、隠れたアイテムを探し出せるスキルがないままでは、結婚というゲームはクリアできないのかもね。
(本当にそうかな?…そういうことにしておこう)
私の贅沢にギョッとし、姑の質実ぶりに唖然とした私。
間に立たされた男子3人。
ギャアギャアと喧嘩をし、そのうちそれが冷戦になる。
そんな中、舅が血を吐いた。
せっかく楽隠居になったばかりだったのに、胃癌になってしまった。
最後は自分の生まれ育った田舎で死にたいと高速鉄道で田舎へ帰る。去っていった背中が忘れられないんです。
おじいちゃんの背中。
その後1ヶ月で亡くなる舅は、それでも、自分の足で歩いていった。
自分の天秤の片方には人間らしい欲望が入っていて、もう片方には義務や責任が入ってるんですかね?
人生は少女漫画のようにはなかなかいきませんね。でも、実は筋金入りの隠れ乙女の私。それでも人生に夢を見てる。捨てきれないそういう碌でもないものをギュッと抱きしめつつ、小説を書いてるわけですね。これを捨ててしまっては、もう1文字も書けないでしょう。私が私たるために必要なものなんです。
反面におじいちゃんの背中がある。人の生き方というものを民族を超えて私に教えてくれた背中です。
これを裏切って主人を泣かせるというのは相当ですよ。相当です。
そんな中で、しかし、今日もフラフラとしてる。人生は見えない。結婚もロングワイディングロードだなっと。
そして、曲がり角を曲がるとそこに、とある日に、我々の昔住んでいた家を見て、今までに得たことのないような深い感傷に浸ったわけだ。
おばあちゃんも歳とった。私も家庭だけでなく仕事でも色々あった。
かつての冷戦の二大巨頭も歩み寄りを見せるわけですよ。
そんな中、誕生日だからと旦那をせき立て出かけたイタリアン。かつては外食なんて贅沢とついてくるのを拒否したおばあちゃん。わたしがいかなければ1人ぶんお金が節約できるだろうなんて口をきいていた御仁です。この10余年の成果。とうとうばあちゃんもイタリアンについてくるようになった。
「これをかけてみろ」
「ん?」
ばあちゃんのサラダにバルサミコをかけてやる。
「これは美味しいな」
「イタリアの黒酢だ」
「ほぉ」
やっとこの一口がいくらなんだろうとか、外国の物なんて悪魔の食べ物(←早死にするような食い物だと信じてた)と思わずに食べるようになったではないか。
「これ美味しいぞ」
「酸っぱいの、嫌い」
酢やレモンを嫌がる主人に勧めるおばあちゃん。いつもは食の細い息子が小さな胃袋に食べ物をこれでもかと詰め込む。
「おい、大丈夫か。食べすぎるとお腹痛くなるぞ」
「大丈夫」
今はそんなこと言ってる君も中年になったらそんなに食えないからね。(←心の声)
私たち家族には、築き上げてきた10余年、これだって、歴史なのだよな。私たちのオリジナル。
自分には、心の中に破壊神みたいなものがいついているのですよ。物事というのは死と再生で成り立っている。破壊をするからこそそこに創造が生まれる。自分の中のこの破壊神は捨てられないのです。
ただ、そんな芸術的傾向というか、創造的な部分を自分の人生の全てに投げかけてご覧?
仕事を手放した。さらに家庭も手放す?
嵐のような衝動。テンペストは望むところです。変化、上等!変化は上等だけど、それは仕事までにしとくべき、かな?
嵐を飼いながら、だからこその凪を愛すべきなのでしょうか。
相変わらずプレゼントは電化製品。
愛してるとかいうのは苦手。
中国人というのは、こういう民族だったっけ?
これはもう民族というよりうちの主人の性格のようです。
ところが、この前、仕事中にわたしと息子の写真を送ってくる。焼肉屋で笑ってる写真。
仕事中に写真眺めていたのね。
最近やっとわかった。言葉にはしないのだけれど、この人にとって大事なのは息子。
……だけではなくて、息子と私。愛してるの代わりに写真送ってくる。それだけで伝わりませんよ。
なんの変哲もない街角の写真。しかし、私たちにとっては意味がある。
「私たちの始まりの場所」
「この部屋、やっぱりとても良かったよ。広かったし、マンションの敷地内でランニングもできるし」
主人も懐かしかったのでしょう。うっとりとした返事が返ってきた。自分も懐かしさに包まれながら、しかし、すみません。背中に臍がついている人だからね、つい憎まれ口を。
「BARはないけどね」
今住んでるところは市内なので、BARやカフェに事欠かないのですよ。
それから、てくてくを続ける。懐かしい街は来ないうちにすっかり変わってました。懐かしさの中にも新鮮さを覚えているところで、爆音。見上げれば飛行機。椰子の木の葉っぱと飛行機をカメラに収めたかった。うまくいかなかったけど。
自分は思いもしなかったけど、沖縄よりも南の中国で暮らしてるし、これからも暮らしてゆくのだなと。そんな自分を象徴するような一枚が撮りたかったんだけどな。
私には思い出を共有する相手がいる。
私はきっと不器用な主人のことも、おじいちゃんのあの死に向かう背中も、裏切れないでしょう。一生。
愛してやまない息子が望まないことはできないと思う。
ただ、絶対にしないと言いたくはないのだよなぁ。
自分が欲しいのは、そういうこと自体ではないのです。いわば不倫の恋とか、第二の人生とかさ。
次が見えないことが重要なんですよ。
曲がり角を曲がったらそこに何があるかわからない。そんな未来。
永遠に現役でいたい。それはつまり、なんだって起こりうると思っていたいってことなのです。
人生は冒険に満ちていて欲しいですねぇ。
永遠にどこかは子供のままでいたい。
汪海妹