意なく、必なく、固なく、我なし(いなくひつなくこなくがなし)
意なく、必なく、固なく、我なし
(いなくひつなくこなくがなし)
2023.03.05
論語より、孔子の人間像を語った言葉
意:主観だけで憶測する事
必:自分の考えを無理に押し通す事
固:一つの考えを無理に押し通す事
我:自分の都合しか考えぬ事
孔子にはこの四つの欠点がなかったと言われる。
(参照:https://userweb.mmtr.or.jp)
昔、高校生の時にこういう格言を勉強する機会があったんですね。格言に対して自分なりに考えて皆の前で発表しろという。
このいなくひつなくこなくがなし もそのお題の一つです。
はっきり言ってさっぱりわかりませんでした。
ちんぷんかんぷん(ちなみにこの言葉は中国語の听不懂看不懂からきている)。
しかし、この音が好きで覚えていた。
いなくひつなくこなくがなし。
呪文のようではないですか。
父とチャットで話していた時にこの言葉を父が出してきました。懐かしい!と思って調べてみた。論語の言葉だったんですね。最近、お笑いのものばかり書いていましたが、たまには真面目に思索しようかと○十年ぶりにこの言葉と向き合ってみました。
会社の中で管理職を選ぶ時、まず、我:自分の都合しか考えない こんな人は選ばれません。
「どうしてわたしは課長になれないんですか?」
既に課長がいる状態で、自分を二人目の課長にしろと迫る部下がいました。その時は課に2人課長は置かないと言って退けました。
しかし、実情は、もしポストが空いていたとしても彼女が選ばれることはないなと思っていました。
この歳になって思います。
会社の中に色々な人がいますが、その中で管理職に上る可能性がある人というのは一握りです。
そのラインがこの 我 ではないかなと思います。
冷静になって一緒に働いている人たちを眺め渡す。
かなりの人がこの欠点をもっているんです。
管理職というのは全体を見なければならない立場ですから、会社の都合を考えずに自分の都合を考える人では務まりません。
あなたは課長になれないと言ってもいきりたって何度も何度も抗議してくる部下を見ながら思いました。どうしてそんなにまでして上に上がりたいのか。ステータスしか考えてないんですね。管理職の仕事は自分をそっちのけにして複数の人間の都合を考え調整し、また会社との間を調整する仕事。ついてくるのは給料とステータスだけじゃないぞ。責任もついてくるのに。
その責任が全く見えておらず、キラキラした部分だけ見て固執しているのです。
場合によってはこういった方が上に上がってしまうこともあるかと思うのですが、まず、その後に上を含めた周りが苦労します。
それでは、それ以外の欠点はどうかというと、
今まで会社の中で自分も時々巻き込まれながら争いごとのようなものを眺めてきました。
日本人、中国人、年代や肩書に関係なく、管理職である立場の中にもこの 意、必、固 の欠点をもっている人は多い。
私も含めてです。
特に私の場合は、意 憶測すること この欠点が強いように思います。
管理職のみを並べて、一人一人の傾向をこの三つの欠点で分析してみる。
必、固 は似ているようですが、必は例えば自分の新しい考えが絶対うまくいくと考えてこだわる人に当てはまり、固は例えば非常に保守的で今までのやり方を頑として曲げようとしない人に当てはまるかもしれません。
あくまで自分の考えにこだわる改革派と従来のやり方にこだわる保守派の争い。ありそうではありませんか。
私の欠点は、きちんと相手とコミュニケーションをはかり、相手の真意を確かめずに憶測だけで判断することです。
相手をわかった気になって、ぶつかろうとしない。
もし人がわたしの考えを聞けと迫ってきたら、私は聞くことのできる人間ですし、自分には自分の考えがあったとしても無理に押し通すことはしません。客観的に考えてそれでは問題が出るのではないかと思えば意見は言います。でも、それを相手が受け入れない場合それ以上押し通すことはしない。
ただ、こうなってしまった時にですね。会社全体としては問題が出る場合がある。
社のイニシアチブを握るのはやはり押し通す人になってくる。
人の意見を聞かずに押し通す人は時に大きな間違いを犯すことがありますから。
それを防ぐために会社が取りうる策とは何か。
できるだけ、この4つの欠点を持たない人を上にあげていくことです。
完璧な人などもちろんいないでしょうが、それに近い人を人選するべきです。
それが、事柄を発展させる人材ではないでしょうか。
自分についてもう少し考えてみようかと思います。
組織の中で働くにあたって、自分に不足している要素はなにか。
消極的である部分ですね。
話してもわからない相手には話しても無駄だと思って働きかけない。
だから、私がハンドリングできる範囲というのは限られてしまうんです。
争いが嫌いな人間ですので、勝てない相手には喧嘩を挑まないし、戦場を見渡してこれはもうダメだと思ったら一番最初にさっさと逃げる人間です。
そこまでわかってるのなら、もう少し自分をどうかしたらどうか、という話もあるのだと思うのです。
ただね、それが私の限界だなと思うんですよ。
自分の負けや限界、弱みや強みを知るというのは必要なことだと思うんです。
私は無理を押し通す人に対しては無力です。
そりゃあ、もう、とんでもないような人たちが世の中にはいます。そういう人に盾や矛を与えて、指揮を取らせることだってザラにある。
もしも私たちの更に上に、私が理想とするような4つの欠点を持たないような将軍がいたら、無理を押し通す人たちの矛が味方である私たちを貫く前に守ってくれるのでしょうが、いつもいつもそうなるとは限らない。
そこで自分の欠点が強く作用してしまって、どうせ上に言ったって守ってなんかくれないと意固地になりました。
それが自分を更に不利にしてしまった。
それで、この戦局を離れて別の戦場へゆくと。悔しくないわけではありませんが、退却というのは時に非常に有効な策なのです。
そして、また別の場所で今度はどう動くか。
私は無理を押し通す人に対しては無力です。
自分は将の器ではない。単独でめちゃくちゃな要求を突きつけてくるような人と相対して、秩序を守るような強さはありません。
ただですね、私は将にはなれないとしても、将にとっての非常に鋭い矛なのですよ。使いようによっては、暴れ回る人を地面にねじ伏せ、秩序を回復できるようなね。
それが、二番手のプライドです。
1人では勝てない。自分の弱さを知らずにプライドの高いままで突っ込んで行ってはならない。
それが私の若さであり、未熟さでした。
私が求めるのは自分の栄華ではないのです。
ただ、普通に平凡に真面目な人たちが真面目に頑張った分だけ並んでパンを受け取るようなね。
もらったパンを手にみんなで笑い合えるような平凡な結末です。
私にとってはそうあるべきだし、それは非常に平凡な出来事であるのですが、ただ実際はそんなふうにはいかない。
どうしてもそれが許せないのです。
そして、自分を鋭い矛、あるいは、武将にとっての何よりも速く駆ける馬でしょうか?そんなものに例え、自分は将を選ぶと怒りに燃えていた時期もありました。
それもまた、私の若さであり、未熟さであったなぁと。
世の中というのは難しいものです。
科学や医療、文化が発展するにも関わらず、戦争はなくならない。
戦争まではいかなくとも、なんか間違ってるよと思うような争いや出来事も。
これは、人間の心が進化しないからではないかなと思うのです。
それもまた、人間らしいではありませんか。
理想は理想。でも、現実は、矛盾に満ちている。
そこに怒りを覚えるのは若者だと思うのです。
若者には怒ることはできても、事態を解決することはできないんです。
自らは戦場で誰よりも速く駆ける名馬でしょうか?
そんな風に思いながら、自分の理想の主を上に抱けない名馬など世の中に溢れているんです。
事態を解決するために自分が必要とするのは、チョモランマのように高いプライドではなく、この格言
意なく、必なく、固なく、我なし
戒めを胸に、自らを律していかなければなりません。
本当に悔しかったのなら、その怒りは心の一番奥に埋めて自分を動かす燃料としてしまえばいい。
憶測で人を判断し突き放すことはやめ、常に味方を増やそうとすべきです。
いえ、それは味方ではないのだろうな。
味方を増やし、勝とうと思うところに既に争いがある。
勝つ、負ける、と考えるから違うのだと思います。
それでもあえて、敵と味方という言葉を使うとしたら、味方を増やし、そして、敵と語らいあう。
戦をするわけではないのですから、我々がしなければならないのは常に語らいなのでしょう。
敵を作らないことこそが、理想なのではないでしょうか。
本来は争いが嫌いなのに巻き込まれ、散々な目にあっといて何をまた寝ぼけたことを。
しかし、生まれと育ちは変えられないんです。
敵を作らないこと。
言葉としては短いですが、それがどんなに難しいことか。
しかし、私だけがただここでそんなことを言っているわけではなく、古今東西の賢人がやはりさまざまな言葉によりその道を指し示しているように思います。私はそちらの方を目指そうと思います。死ぬまでにどこまで辿り着けるかはわかりませんが。
学生時代には素通りした言葉を、今は心に戒めとして刻みたいと思います。
今は嵐と思うようなこんな風雨だって、いずれは通り雨が来たと思えるようになるかもしれない。
そのために必要なことは、やはり、心を鍛えることではないかと私は思うのです。
人間の心は進化していないと書きましたが、しかし、私たちは 知 という名前の宝物を過去の人たちから授かっているのです。手を伸ばせば届く書物の中に。それに手を伸ばさず死んでゆくということはなんと勿体無いことではないでしょうか。
汪海妹




