ハッピーエンドと悪役
ハッピーエンドと悪役
2023.02.11
小説を書き始めて、ええっと、本当は息子がお腹の中にいる時も書いてたし、一部分だけ書いては終わらせられなかったものもあるんですが、完成することができた初めての小説、僕の幸せな結末までを書き始めた2019年夏、3年半くらい経ってます。今日、テクテクと音楽を聴きながら歩いていた時にボケーっと色々考えていて、そして、自分の小説について考えてました。
どこから始めたらいいのかな?
本を読むのはすごい好きで、作文を書くのも子供の頃から得意でした。ただね、小説っていうのは一体どういうものなのかなと。
憧れながら見ている小説家とか小説を書くという行為は、外から見ているうちはわからないことがたくさんあったなと最近ちょっと思うのです。ちょっとだけわかったような気がすることがあるので、ここに書いておこうかと。
そしてまた申し訳ないことに話がポンと飛ぶのですが、あのね、ハッピーエンドについてなんです。
小説を書くのって面白いなと思いながら、水を得た魚のように無我夢中に書いていた2020年。自分の中の一人の自分が楽しんでいる反面、もう一人の自分がそんな自分を蔑んでいるんです。ええ、分裂症のように表現しているけど、これは例えばで、一応私は統合されていると思います。自分の中にさまざまな流れの想念があって、時と場合によって考えの流れやパターンが微妙に違う。せっせとせっせと毎日思考を文章という形にしていると、なんとなくそういうものを感覚として知っている。
それをですね、自分の中にまるで人物が何人かいるみたいだ、と認識しているんです。それで、あるいは多重人格者が次々と人格を入れ替えて話すように、感情に任せて一気に文章を書き上げ、気分が落ち着いてから、自分の中の一番冷静で客観的な自分がその文章をチェックしている。
いつからそんなことをするようになったのかはわかりませんけどね。
また話がずれてしまったな。ええっと、自分の作品を蔑んでいるもう一人の自分がいて、それが何をいってるのかに耳を傾けると、
「世の中こんなに綺麗にうまくなんていかないよ」
なんだか自分の作品がですね、ただただ優しくて、人間の綺麗な面だけ見てて、そして、現実とは離れた狭い世界での狭いハッピーエンドのように思えてならなかったんです。それが、あの当時の私の書いていての葛藤でした。
今思えばそれは、自分自身の人生そのものだったんですよね。
人一倍繊細で、そして、やっぱり自分は子供の頃からかなりずれている変わった子だったので、自分の世界というものが非常に独特な子供で。
周りとうまくコミュニケーションが取れず、また、短期的に虐められた時があって、自分の独特で繊細すぎる心を守るために自分の世界を閉じて生きていた頃があったんですね。少しだけ開いて後は閉じて生きている。その頃に本を中心とした架空の世界に心の拠り所を置いていました。
それではいけないと自分的には死にもぐるいでその狭い窓を開いて生きてきて今に至るんです。
その時に自分は自分の周りにある出来事の良い面を見て、良い面に意味を持たせ、現実を脚色して生きていくようになったと思うんです。
見たくないものを見ないようにして、見たいものを中心に見るようにしながら生きていくようになったと思うんです。
それが、普通の、人の生き方ではないですか?
人は精神に病を抱えない限りは、現実に存在し現実に生きているのですが、それぞれの心には癖があって、そして、それぞれの生育過程で手に入れたメガネのようなものを通して世界を体感しているのだと思うのです。
小説を書くということは、そんな自分の目にしかある意味では見えていない世界の在り方を他人に示すことなんだなと。
それが、執筆三年半の自分の感想です。
私の小説に溢れるさまざまな人の優しさや温かさは、人一番人の心の動きに敏感で繊細で、(いわば、犬が人間より鼻が効くように、自分は他の人よりも自分や他人の心の動きを感じ取るんです)生きるのが大変だった自分が生きやすくなるように、自分を守るために作り出した私の世界です。その根っこには本物がある。人生で生きてきて自分が出会った温かな本当の経験を大切に切り取って、磨いて作品にしたものです。
そして、私が悪役をうまく書けないのは、自分が現実の世界で悪というものをできるだけ見ないようにしているからなのだろうな。
でも、それはそこにある。
甘すぎるハッピーエンドを蔑む私の心の中にいるもう一人の自分は、狭い世界を出てもっと広いところへ出ろといっているように思うのです。
書くということは、そんなに静的な行為ではないと思うんですね。書くということはある意味は冒険、そして、闘いなのだと思う。
ずっと、書き始めた時にいたその場所で、安全で危険から遠いその場所で書き続けたっていいんだと思いますよ。
同じような話を何度も何度も、繰り返す。
でも、自分は、それは選ばないんだろうな。
心を完全に閉じて架空の世界で生きるのをやめて、自分を変えようと思ったあの頃から、自分はずっと闘っているのだと思います。
偽物の強さはいらない。
小説家になりたいという夢を見るよりもその前の願いだったと思うんですね。だから、自分の本当の原始的な願い。
強くなりたい。私はちゃんと現実の世界で生きて、そして強い自分でありたい。
それで、自分のさまざまなものがどんどん出てくる作品というものを、自分の中にいるさまざまな人格を交替で使って書いては、一番冷静な客観的な自分がチェックをしている。そして、もっとありのままの世界を書きなさいよ、
本当は書きなさいよ、ではない、もっとありのままの世界の中で堂々と生きなさいよ、自分の中の自分はそう言っているのだと思います。
ありのままの世界の中で堂々と生きた時、きっと私の書く世界、作品はまた違ったものになるでしょう。
作品と作者は確かに繋がっている。生き方というものと書くものというのは繋がっているのだと思います。
私の本当の夢というか願いは、小説家になることではなかったんだな。
しみじみと思います。
みんなに認められて堂々と生きたいということだったんですね。
小説を書くということは、道具であり手段なのだということがわかりました。
ただ、これも3年目の感慨ですが、自分で思っていたよりももっと言葉の力というものは強い。
生まれて初めてこんなにたくさんの文字を綴っていますが、自分から出たたくさんの文字は、いつかどこかで誰かの助けになってくれたらと思って綴ったものでもありますが、まず一番に自分を励ましてくれた。
私の世界は確かに脆い。書き始めた当初は、こんなもの結局作り物だと自分で自分を蔑む自分がいた。
そこで、その、私のようにですね、今、安全地帯にいて幸せに暮らしていて、そして、悪から離れていられる人、あるいは、やはり悪質なものの中にいても、自分の世界を脚色して心を守り暮らしている人、そういう人たちの世界をもう少し、もう少しだけ違うように書けるようになったかなと、あるいはもう少しだけ違うふうに書いてみよう、そういうふうに考えるようになりました。
私の好きな温かで優しい世界に、その悪の気配を置きたいと。それをあからさまな言葉ではなく非常に最小限に混ぜることはできないかと、そんなふうに思ってます。非常に感覚的な話なので、うまく説明できなくてすまないのですが、主人公が何を見ているか、目に見えた空や景色をどんなふうに感じたか。例えばそういうことなのかもしれません。
明日、もしかしたら死ぬかもしれない。
そんな唐突な話だけではなくて、
本当はこの人は私を嫌いなのかも知れない。
登場人物Aが登場人物Bに向かって 「あなたのことが嫌いだ」 と、あからさまにいう。
これはですね、リアルではないと思うんです。
リアルな世界では、もしかしたらこの人は私を嫌いなのかもしれない、そう感じるような態度や行動、ほんのわずかな言葉を人は人にかけるものではないでしょうか。
その態度や行動、ほんのわずかな言葉は作品の中に置くのですが、それに対する主役の感想を書かないのです。
つまりは、Aの言葉を聞いて、私は嫌な気分になった、という叙述ですね。
なんで?と言われると、それがリアルな世界ではないかと思ってて
無意識にはこの人は私を嫌ってると知ってるのだけど、それを認識するのを脳が許さない。
私はそういう世界で生きてますよ。人の反感を買わないように極力注意していますが、それでも私を嫌いな人はいるでしょう。私のした行為に対して心で舌打ちをしている人だっているかもしれない。そんなのいちいち拾ってたら、生きていけないでしょう。
でも、若い頃は拾おうとしてたよね。
どこまで書けるかはわからないですが、私のようにできるだけ人の悪意を見ないようにしながら生きている人が、それでもそれに晒されてしまう様子とかね、あとは、やはりそれでも悪だけでなく善もあるわけですから。
すっごくわけわかんないことを書いているって自覚はしつつ、むしろ今は純粋に自分の創作のために書いているのですが、
自分はね、弱い人間なんです。弱くて傷つきやすい繊細な人間です。こんな私ににた人だって世の中には結構いるでしょう。人間なんて自分で自分を騙し騙し生きていく、そういう自分が自分のまんまで最大公倍数でどうやれば生きやすく生きていけるのか。
死ぬまでに自分がやらなければならないことはそういうことだと思ってるんです。
世の中のことをおもしろおかしく脚色して、でも、そんな小手先の技じゃ通用しないような洒落にならない出来事も現実では起きるわけで、そこに自分はどうやって立ち向かっていくかだと思うんです。
この世の中の人間の全部が、自分の敵のように思えてしまった過去。
それから、もう一度いわば世界と和解するために、空想の世界という安全圏から出てきた自分。
世の中の人を敵と味方に分けて、敵には近寄らないようにしながら、空の下で息をしていたんです。
だから、私の世界はやはり甘くなければならないんです。なぜならば、世界が甘いと思わなければ足がすくんで一歩も歩き出せない人というのが、この世に一定数いるからです。
世界は甘い。でも、本当は辛い。ふふふふふ。
でも、そんなに弱かった自分でも、こんなふうにちゃんと生きているし、生きていけるんだよと。
そのためにはですね、私は悪役を思うように書けなくていい。
悪い人の顔を正面から見ることができないくらい、子供の頃に傷ついてしまいましたからね。
それでもなんとか、現実の世界で堂々とやるためにはどうしたらいいのか?
それは私の人生そのものなんです。
人が怖くてたまらなくても、人の間に飛び込んで戦ってきた私の人生そのもの。
だからこそ、簡単に話を面白くするために悪役を書けなくていい。
目をそらしたくなるような残虐な出来事を作中におき、それを軽々と乗り越えていくヒーローを書く必要なんてないんです。
だって、それは別の人が書いてくれますから。
悪い人の顔を真正面から見ることができない人の気持ちは、軽々と英雄を書く人にはわからないし、書けません。
弱い人には弱い人の存在価値があるんです。それを証明しなくては。
このままの自分で。
自分で自分を好きだと思えない、誇りを持てない苦しさは、そういう経験をした人にしかわかりません。
誰にも助けられない。自分で自分を助けなければ、それについても私はわかっているんです。
でもね、人生は長い。
未来というのは見えないんですよ。苦しい時には思いもしなかったような未来が待っている。
もしも、自分が立ち上がれば、それは手に入るんです。
幸せになるために、助けてくれる人なんて誰もいない。
自分を助けてくれるのは自分だけです。
途中で手を取ってくれる人はいるかもしれない。
だけど、自分の足で立ち上がり、自分の足で歩き出さなければ。
そのためには自分の頭で考え、自分の言葉で語らなければね。
随分とまたまとまりのないことを。
お風呂に入らない息子を叱りながら。土曜の夜にコーヒーを飲んでしまいました。
ちゃんと寝られるかしら?
汪海妹




