芸術とは何のためにあるのか?
芸術とは何のためにあるのか?
2023.01.28
仙台で一人暮らしをしながら大学に通っている姪っ子と息子と3人で牛タンやさんに行きました。食いしん坊万歳!ワタクシの食べ物を撮った写真はいつもへたくそなのです。先ほど上げた写真の牛タンの写真とシフォンケーキの写真を見比べていただきたい。ケーキの写真の方がそれでもまだマシなはずだ。牛タンに至っては、主役の牛タンを差し置いてオックステールスープの長ネギの白が目立っておる。
(小説家の皆様すみません。こちらには写真をアップできないのでね)
なぜ、こんなに食べ物の写真がへたくそなのか?
カンッタンな理由である。……早く食べたいから、写真なんかどうでもいいからだ。
チーン
それではなぜ、ケーキの写真はそれでも少しはマシなのか??→私はケーキも好きですが、どっちかというと、酒のつまみ>ケーキ
だから、ケーキを前にはもう少し忍耐力があるだけだ。でもそうはいっても、
「きゃー!すごーい!おいしーい」
フォークを片手にキャキャキャキャと黄色い声をあげ、
「待って、待って♡」
インスタ映えのする写真を撮るために食べ物を前に時間を無駄にする人間ではないのである。そんなカフェ女子的な?そんな女子ではないのである。ケーキはケーキで好きであるが……
めんどくさいが、写真でも撮るか。記録になるからな。食べ物の味の描写は小説を盛り上げるからな。やれやれ。
パチ
これでいいか?よくわからん。
ま、いいか。誰も私にインスタ映えを期待してはおらんだろう。食べ物を前に構図がどうのとか角度がどうのとか、そんなん食い物に対して失礼だ。冷めないうちに食えっての。
どーせ私は温泉に入って
「はー、極楽、極楽」
こんな人間だからな。まぢ、この前、温泉に入って極楽という人の気持ちに共感した。確かに極楽だゼッ!血流の復活、万歳!!
それでですね、牛タンやで大量の牛タンを平らげた。私が一番好きなのは、ついてくるこのスープなんですけどね。むっちゃしょっぱいよ。それから、甘いものを食べようと仙台在住の姪っ子にカフェを検索させた。
「せっかく仙台に来たのだから、話題のカフェに行きたーい♡」
というような、カフェ女子的な人間ではない。食いしん坊ではあるが、インドアで閉じた人間である。どーでもいいのである。
「どこでもいいから連れてけや」(←姪に丸投げ)
母からですね。お小遣いを預かってたんです。彼女の娘、そして、孫娘、子供の頃から食い道楽の人々に金魚の糞のようについて回って口が肥えている。金魚の糞、あるいは小判鮫的な?状態から切り離された時に、
……飢える。
チーン
食い道楽の皆様はガッツリ金をお掛けになりますから、そりゃ、もういいもん当たり前のように食ってきた。
いざ、お財布を切り離されると……
「食えねー。手、届かねー」
高級店のショーウィンドーの前で涎を垂らす、マッチ売りの少女もかくやと思われる状態。
飢餓状態の姪っ子。おばあちゃんからいいもん食わせろとお小遣いもらってきたぞというと、この機会を逃してたまるものかと怒涛の勢いでスマホでカフェ検索をしている。
おお、なんか、ええぞ。ハングリーだ。いい目だ。
その獣のような目の色を頼もしく感じる、おば。
「え、ケーキ?行かないよ」
息子がそんな発言を。男子は甘物にはそこまで興味ないのである。
チャリンチャリン
一人分安く済んだな。母からもらったお小遣いマイナス牛タン代を計算する。
「じゃ、ホテルの部屋で一人でいられるか?」
「いいよ」
「ほんとだな」
「平気だよ」
そこで姪っ子とサシになった。それで赴いたんです。カフェ青山文庫。金曜日の夜、ほぼ満席、賑わってました。
皆、特別な時を特別な人と過ごしてる。友人だったり、恋人だったり、そんな若者たちの群れに親戚関係のわれわれが加わる。
宮沢賢治の生原稿なのかなぁ?額に入れて飾ってあったわ。宮沢賢治のあの独特な言葉遣いが好きでねぇ。それを見て非常に落ち着いたねぇ。癒されたと言ってもいい。文学やフィクションの世界にトランスできそうな、素敵なカフェでした。
姪っ子はこんな言い方をするとちょっと変かもしれませんが、私に輪をかけて絵が上手い子で。いわば私の親が私に見たような夢を私は姪っ子に見てました。我が家の家系は手先の器用な人が多い。この子こそ、名だたるクリエイターになるのではと私が親バカならぬオババカになりそうになった。
しかし、彼女は描くのは好きなのだけど、とある日から作る側ではなくて見せる側になりたいという。学芸員になって、美術展などを企画開催したいというのです。
それは、かつての母の憧れた世界であり、姉の興味のあった夢。それを姪っ子が継ぐのかと。
本当はただ、描きたいのではないの?
もともと絵を描くのが好きでたまらなかった自分は、姪のこの願望に複雑な思いをしたのです。かつて、美大に行きたいと言えずに実質的にはあの時に絵筆を折ってしまった自分と姪を重ねた。
ため息が出ます。
自分が作るのと、他人が作ったものを皆に見せるのは全然違う行為です。
もしも、自分がクリエイターなのであれば、これほどに心に堪える仕事はない。
自分自身が通用するものなのかどうか、試してダメであれば見せることを考えてもいいと思うけど。でも、姪は自分で絵を描くのが好きであっても、作る側ではなく見せる側に興味を示した。
本人には本人の考えがあるのでしょう。部外者は口にチャックです。
「芸術を仕事にしたい」
今の日本はどんどん貧しくなる。博物館や美術館にかけられる予算がどんどん減って、これじゃ伝統文化を守れないんだよ。もっとお金をかけて欲しいとか。どうしてもっとお金をかけないのだろうかとか。
ロイヤルミルクティーとシフォンケーキを味わいつつふんふんと聞く。
数字を見ながら聞いているわけではないですから、姪っ子がいつの時代の予算と現代を比べているのかわからないけど、結局、国にお金がないのだろうなぁ。そういう文化保護のための予算というのは、どういう観点で組まれているんだろうね。
彼女にツッコミ入れずに聞きながら、でも、私は、そこに財政を回すために別の部分の予算を見直し無駄を省くことと、やはり税収を安定させる、結局は景気を上向かせる。からの、教育文化へ循環させるしかないだろうなと考えるわけです。
ない袖は振れないよなぁ、しかし、こんなことはまだ社会に出てない姪っ子には言わないよ。
そして姪っ子は、だけど、学芸員の給与って安いんだよというのです。
「将来の安定をとるか、夢をとるかで悩む」
「ほぉ」
自分自身も通ってきた道だなぁ。すごーく懐かしい気分になりました。
そうそう若い頃は、夢を追いかけるか、安定した道をいくかで悩んだわぁ。
「おばちゃんは若い頃にカッコつけて夢をとってさぁ」
「うん」
海外を渡り歩く、日本語教師は、薄給でございます。大学院等へ行って専門性を高めても、ガッツリ稼げるとは言えませんねぇ。
「それから、スッゲー苦労してる」
「……」
若者、眉間に皺を寄せる。
「だけど、ま、フツーにやってきてるよ」
そう。理想を追い求めて、後先考えずに海外へ出ました。今まで東京時代も入れると5個の会社を渡り歩いてきた。
10年前までは生活的に豊かとは言えなかったよ。だけど、結婚して子供をもち、なんとかやってきてるわぁ。
自分はね、若い頃の葛藤なんて普段忘れてて、カッコつけて夢を追い求めたために回ってきたツケのようなものを払いながらブツブツ文句言ってますが、よく考えればなぁ……
飛び込む勇気がなくて平凡な専業主婦になってたら?
あるいは、きちんと就職活動して、東京で正社員として働いていたら?
そしたら、自分はうまくいっていたでしょうか?
私はきっと自分で自分を追い詰めていたと思う。どうしてかといえばそれは、自分には小説を書きたいという夢があったからですね。それは漫画でも良かったかもしれない。あるいは絵の世界に進んでも良かったかもしれない。とにかくクリエイター、物を作り出す人でいたいという夢があったからです。
小説を書くという夢を思ったときに、20代の自分には何も書けることがありませんでした。
自分は空っぽだと思うたびに、どうしようもなく絶望して、そして、言葉を綴ることができなかったんです。
空っぽな自分は思想的な経験を得ることと引き換えに、安定した生活を手放しました。
そう、カッコつけて。
あの大学を卒業するときに手放したものの影響を今でも受けています。何かを捨てた。いろんな何か。
ああ、ちっくしょう。損したなぁ。
現実的な大人になればなるほど、世の中の仕組みのようなものが見えてきて、そんなことを思うものです。
だけど、昔の自分を見るような姪っ子と二人、宮沢賢治の額がある文学的な雰囲気に満ちたカフェの片隅で、極寒の仙台。ミルクティーで冷えた手を温めながら、思う。
久しぶりにですね、夢を追ったために自分が手に入れたものについて思い馳せたのです。
私は、海外で長く苦労をしました。いろいろなことを学んできた。それはお金ではないんです。お金という物理的なものよりも、精神的なものを求めてカッコつけて若い頃に物理的に豊かになるチャンスを自分から捨ててしまった。
私は、お金よりも芸術を取ったのだと思う。
今、姪っ子がまさに悩んでいるような悩みを持ちつつ、私はお金よりも芸術を、夢をとったのだと思う。
夢をとった後もずいぶん回り道をして、結局自分が作品を書き上げたのは結婚して子供を持ってからでした。
やっと書けた。
だから、これで良かったのだと思います。私の人生は。
若い人や昔の自分を思い出して思う。
夢を持つということはつらいものです。諦めきれない夢にがんじがらめにされて、その夢に向かわない自分を自分がどこかで許さない。
そりゃ、夢を持って、真っ直ぐにひたすらにそれを目指す人だっているでしょう。だけど、それは一握りの人だけで、大半の人は夢を持って、だけど、大成する自信がなくて苦しんでいるか、あるいは、夢らしい夢がなく生きていく自分にどこかで疑問を抱えつつ、いや、これでいいんだ、これが普通だと自分に言い聞かせる。そのうち、そんな若者らしい悩みを忘れて、人は大人になるのだと思います。
人は諦めた目をした大人になるのだと思う。
社会に出る前の若者は、まだ何も失っていない人間です。
世の中のありとあらゆる職業に、いまいちやりがいというものを感じられず、働く意味がよくわからない。
そこで、芸術を仕事にしたいと思う若者は多いのです。
ビジネスは、芸術をどういう位置に位置付けているでしょうか?
お金と芸術というと、水と油のように馴染まないもののようにも思う。
やはりそこは、働いたことのない学生の思うようなものとは違うと思うのです。
社会というのは、利益が上がってなんぼです。
社会に出たことのない純粋な若者が、社会の洗礼を受けて変わっていく様子は、こんな言い方もなんですが、男の人を知る前の乙女のようだよね。確かに我々は、犯されるのだと思いますよ。社会というものに。
でも、だから、姪っ子には、あまり私の思ういわゆるビジネスとは、という考えは小出しにしたいのです。
純粋である人を素早くそうではなくする必要が、どこかにあるか?
いずれは必ず、やはり洗礼を受けるとは思いますが、それはもう少し先でもいいではないかと思うのです。
そして、姪っ子のことは傍に置いておいて、もうすでに何度も何度も社会の荒波に揉まれてきた人間として改めて考えたのです。
それでも、やはり、芸術を愛する一人の人間として。
芸術とはお金儲けの道具ではないはずで、だけど、それと全く切り離すこともできない。
そんな芸術とは何のためにあるのか。
少し、話が飛んでしまうのですが、芸術から人が得られる物を思う時、私はやはり同時に死を思うのです。
私の人生の指針はある意味シンプルで、自分が死ぬ時に自分が何を欲しいかということなんです。
お金を天国に持って行けますか?
それでもお金が欲しい人はいるのだろうなぁ。
だけど、私が人生とは何かと思うとき、それは自分が生涯をかけて稼いだ数字の合計ではないのではないかと思うのです。
少なくとも私にとって、それはお金ではない。
人生というのは流れていく時間、その場面場面で、自分が感じたことの塊ではないでしょうか。
芸術とは、人生を彩るものです。
芸術に乏しい生き方をした人の、人生の彩りはやはり乏しい。色とりどりの浮かんでは消えていく思い出は、芸術を取り入れて生きることによりより美しく輝く。
人は感じることができる生き物です。
まだ知ることのなかったような驚きに満ちた感動を、与えてくれるのはやはり芸術ではないかと思う。
芸術がなくても、人はご飯を食べ生きていくことができる。
それは必要不可欠なものではないのかもしれません。
だけれど、人間は動物ではないでしょう?
衣を着て、物を食べて、屋根のある家に住む。
それ以上を手に入れられる存在なのだと思う。
それが、豊かであるということではないでしょうか。
豊かに生きる。そのために芸術は必要なのだと思います。
より豊かに生きる。