妈妈回来了(お母さんが帰ってきた)
妈妈回来了(お母さんが帰ってきた)
2021.11.07
最近は結婚をしない人も増えたし、結婚しても子供を持たない人も増えてる。それについてどんな意見を持っているかと言われれば、持ちたくても持てない人もいるし、一方、持てるのに持たない人もいるし、ここは地雷源、簡単に言葉を挟むわけにもいかない。ありきたりの言葉だけど、持ってみないとわからない。結構いいものですよ、子供って。という答えになるのだろうか。
でも、よく思い出してみれば産む前はこんなふうには考えてなかったのです。
子供を産めば自分にはもう可能性は残らない。子供に可能性を奪われる、そう思って思い詰めていました。
世に出る順番を子供に譲って、自分は舞台から降りるのだと思いながら出産しました。
自分がなかなか結婚をしなかったのは自分がなりたい自分になれていなかったからです。国際結婚だから親に言い出しにくかっただけではなかった。
私は田舎の優等生でした。子供の頃からやはり田舎者の親に期待されながら育った。成績は良かったけれどメンタルが繊細で、根本のところで人とのコミュニケーションに問題を抱えていました。表面上それを隠して、自分を演じながらかろうじて生きていた。親の見ている私と私の見ている私には大きなずれがありました。
なれっこないものになれと言われながら、そんなものにはなれないと言い返すことをできずに、卵の殻のようなもので自分を覆って、内側の芯のところに壊れかけた自分を置いて守っていた。そして、親から逃げ出して海外へ来たんです。
親を愛していたし愛しているけれど、家族を大切に思っているけれど、家族というのはですね、たとえ仲が良かったとしても正の面もあれば負の面も内包している。完璧な家族なんていない。苦労しながら大きくなったからそれを知っている。
そんな私が親になる。
手放しで喜んで親になったわけではないんです。
逃げられない重荷、責任、そういったもので、地面にとうとう打ち付けられてもう夢を見られなくなる。どこへも飛んでいけなくなるなと心の底では絶望してた。
終わったなとすら思ってたくらい。ただ、今はこう思ってます。
親から見て私が終わったのだとしたら、そこでやっと私は親から自由になったのだなと。
だから、本当は始まったのかもしれません。
私は本当に始まるのが遅い人間。蝉が長い時間地面の中で潜伏していたのと似ている。願わくば、ただ一瞬のうちに鳴き散らして散るところまでは似てほしくないものです。
息子が生まれてすくすくと育ち、最初はそばで世話をしていた私も仕事が決まり、息子を義父母に預けて出勤するようになった。最初は朝離れるとき泣きました。そして夕方帰る。ドアのところでガチャガチャと言わせると、必ず毎日玄関まで飛んでくる。
「妈妈回来了!」(お母さんが帰ってきた)
そして私に抱きついてくる。その明るい声と笑顔。
それは、想像しているうちには分からない。その笑顔と明るい声。それを腕の中に捕まえてみるまで、それがどういう意味を持つものなのか人はやっぱり分からないのだと思うんです。
どこか投げやりに生きていた。今だって投げやりでないとは言えない。だけれど、親としての責任とはまず、自分が前向きに生きることなのではないかと思い始めた。自分のために自分の生を楽しむ。そのために必死でもがかなければならない。
終わってなどいられないのだと、小さな手を握りながら思うのです。
自分一人の生命ならば、多少粗末にしてもいいでしょう。
でも、息子を産んだことで、私の生命は私一人のものではなくなりました。
この子を悲しませることだけはできない。だから、無闇に生きてはならないと心の底から思うようになった。
産む前にはそんなことを自分が思うようになるなんて、これっぽっちも思ってなかったんです。
人生というのは分からない。私はまだまだ若いのだと思い至った。
女の人の肌や髪といった意味での一番の美しさを過ぎれば、後はもうおまけの人生だなどと思うからいけない。
美しさのピークを過ぎてもまだ、人は未熟なのだと思います。知らないことばかりです。
人は生かされている。生きているのではないのです。
自分で行きたい方向に行けるものではない。川に流されていて、そして、その流れを泳ぎながら少し変えていくぐらい。
そんな風にして生きているものではないかと思います。
その川の全体を捉えながらも、それでもどこかへ辿り着こうと泳ぎ続ける。流されていること、これからも流され続けることに負けずに泳ぎ続けることを、私は息子に、あの息子の明るい声に誓ったのだと思います。