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とりとめのないこと 抜粋  作者: 汪海妹
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大丈夫だよの理由












   大丈夫だよの理由

   2022.04.24












 私の子供の頃には珍しかったけど、最近はよく身近で耳にするなと思う事柄。

 アレルギー、うつ病、不登校。


 不登校については、コロナの時期に学校がお休みになってしまったのをきっかけに頑張れなくなってしまう子が結構いたようで、今増えていると聞きました。わたしの身近でもいて、悩んでいる親御さんと話していた。ごくごく親しい方なので、私としても結構突っ込んだことを言ってました。


 そして、言ったこと。


 子供というのは親の特に母親と連動しているのだと思う。母の一喜一憂に連動して動く。だから、愛しているし、愛しているからこそ心配でたまらなくって揺れるのはわかるのだけれど、親がまず落ち着かないとだめなのだと。

 昨日は言えなかった。だけど、そのために周りは今度は母親を支えてあげないといけないのだな。でも、これはお母さん本人ではなくて周りの人に言わなければならないのだな。


 家族というのはやはりチームなのだと思います。

 家族の1人が不登校になってしまったら、お母さんだけではなくて、みんなで支えるべきなのだと。

 

 大事なのはやはり、私はね、まず母子の絆ではないかと。次がお父さん。

 お子さんによって原因が違うと思うので、必ずしも母子ではないと思います。でも、自分が子供を育てていて思う。男の子であっても女の子であっても、お腹の中にいたという絆は強いです。それはお父さんをはじめ他の人が越えられない絆だから、家族がチームだとしたら、そして、1人が不登校になってしまったら、お母さんとそのお子さんがゆっくりと向き合える時間を取れるようにお母さん以外の家族はお母さんを支えてあげた方がいいと。原因がお母さんではなくお父さんであればお父さんが向き合えるように他の家族は脇役としてその役を全うする。


 お子さんが不登校になる前から、基本はそうであるべきだなと。

 子供というのはお母さんが大好きなので、その子を愛しているのであれば、その愛の形は周りの人は脇役になるという形で現れるべきだなと思うんです。でも、そうはうまく行かないのが現実なのですが。


 私が料理をすると不機嫌になる姑と、私を支えるためにおばあちゃんと喧嘩しながら、私の料理を食べたいという息子

 

 自分自身がこういう現在を生きながら、うちの息子はまだ不登校にはなっていませんが、理想的な状態の家庭で育っているわけでもないのかなと。ただね、一言で言えば悪いとも言える環境も、ただそれだけで悪いとは言えないのかなと、最近は思うんです。この世は思い通りにいかないことが多いですから……


 起こってしまった悪いこと、例えば不登校とか色々。我が家の場合は嫁姑の不仲でしょうか。それから逃げずに、学ぶといえば言い過ぎなのですが、思い通りにいかないことと寄り添いながら悩みながらその悩みを人は通り抜けてゆくと思うんですね。通過地点があって、逃げなかった人には逃げた人は知り得なかった、何かが残ると思うんです。


 そういうところからしか人は強くならないし、成長しないものではないかと思う。


 神は越えられない試練を人に与えない


 大人になるとですね、子供の頃にはなかったような問題を解決しなければならないような立場に立たされることがあります。でもね、よく見てみればみんながみんな、その問題にきちんと真正面から向かっているかと言えばそうではないし。みんながみんな、大変な思いをしているわけでもないね。だから、やっぱりある意味マゾな考えかもしれませんが、自分は神様に選ばれたんだと思うことにしてもいいと思います。


 わたしが信じてあげないと、わたしが大丈夫だって信じてあげないとと、不登校になっちゃった親御さんが言っていたのですが、信じるもなにも大丈夫なんですよ。信じる努力をする必要なんてないんです。


 人間は結構強いんですよ。本来強いんです。

 それを親がハラハラとだめだだめだと右往左往するとね、だから、弱くなるんですよ。

 母親は子供の鏡なんです。人間は結構強い。本当です。

 お母さんはあんたは強い。と言ってあげれば、強くなるものだ。


 なんで、こんなに言い切れるのか?

 それは、自分が一回どうしようもないところまで落ちたからだろうなぁ。

 引きこもってしまう人と同じくらいのところまで、近いところにいたと思います。ギリギリでした。

 自力で脱出した。全部1人の戦いでした。


 心の問題は、他人には解決できないんですよ。

 自分を救うのは自分です。


 じゃ、親はなにもできないのか?といえば、子供が大丈夫だということを知ることではないかな。

 信じることじゃないのですよ。

 なぜならば、信じるというところにもう、疑いの気持ちが入りますからね。


 他者として敬うべきです。親子であったとしても。

 くっつきすぎはいけません。


 そして、自分と向き合う話を聞いてあげることではないかと。

 親が考えることをまるで植物に水を与えるように説いて降らせてはいけないのだと思うんですよね。

 子供に考えさせないと。


 親はなにもできないと知ることが大切だとも思う。

 それをひっくり返して言えば、できることはある。

 個人の問題に土足で踏み入らないことです。意味のある距離をとる。


 親子であっても他人。親であるから子供のことを100%理解しているというのは間違いで、また、

 親子であるから100%理解しなければならないものでもないと思う。

 悩んで動けなくなってしまっている原因は親が子を理解していないからじゃないと思うんです。


 私自身、自分の心の中を長い時間をかけて覗いてきて思います。

 人の心の中というのは深い。そして、似ている部分はあったとしても、一人一人どういうふうに感じ、考えるかというのはちょっとずつ違うと思うんですね。心が風邪をひいたみたいに病んでしまった時に、一番他人にされたくないこと。


 それは、自分の心を勝手に語ることではないでしょうか?

 分かってなどないのに、ああではないのか、こうではないのかと探られて語られること。


 自分の心はですね。自分の言葉で語られなければならないんです。

 だから、深く悩んでしまった人には言いたい。

 本を読まなければだめです。


 言葉をたくさんいれて、自分の頭で考えなければ、人は強くなれないんですよ。


 人間がね、絵で物を考えるなら、漫画でもいいと思うのよ。

 それと、特に悩むことがない人は、無理に本を読まなくてもいいと思う。

 本を読むのはね、勉強のためじゃないんです。迷路の中に入り込んでしまった時に、迷路から抜け出すためなんですよ。

 

 自分と向き合って、自分の心を言葉に表すことは、とても辛い作業です。

 だけど、それが必要になる時がある。

 それができたらもう一つ辛い作業が残っています。

 それを、相手に伝えることです。親である場合が多いと思いますが……


 不安の原因は、自分があって、他人があって、自分が自分の中でだけ考えていることを外に出したら、それをどう思われるか、どうとられるかがわからないからなんではないかな?


 そこからのブレイクスルーは、自分が言葉にして外に出したことに、他人が自分が予想していたのとは違う反応をした時です。

 その瞬間と出会わなければならず、そういう小さな嬉しい予想外なことを繰り返しながら、人というのはもう一度再生する物だと思ってます。


 それでも、生身の人間相手に、自分の心の一番弱くて辛い部分を晒すのは辛いですよね。

 

 だから、もう一度勧めます。本を読みなさいと。

 本を通じての出会いは、書いている作者と読んでいる人と1対1の出会いであり、そして、読んでいる人が心を閉じたければいつでも閉じられる。読むのをやめればいい。人と語らえば、その人は話しかけてきますが、本はこちらを探られる心配はしなくていい。

 古今東西の書き残されたものの中に、たくさんの人が悩み考え生き抜いてきた結果があります。そこに答えを探るべきです。


 無理矢理に与えられる解決の出口ではなくて、人が自分の足で立ってそこから抜け出せるように

 悩んでいることを一時忘れて笑えるように


 私がやりたいのは、相手の中に入り込んでいって、心の中をかき混ぜながら人の答えを探すことではなくて、

 自分がした経験を手を変え品を変えながら色々な形の作品にして、やっぱり過去の私のように悩んでしまった人が私の作品の横を通り過ぎる時にね、ショーウィンドーの中を覗くような気持ちで覗いてくれたらいい。そういうふうに通り過ぎながらいくつもの本の中から気に入ったピースを集めて、最後にそれでオリジナルの絵を組み立てて外に出ていけるように。


 本当に辛い暗い心象風景というのは、そういう経験をした人にしか書けないものだと思うんですね。

 それは本物だと思ってます。本物にしかある意味、本当に苦しんでいる人に届く力はないのではないかと考えるようになりました。


 私が辛い思いをした意味は、そこにあるのではないかと思うようになったほどで。


 そこから、更に考えたことがあるんです。


 いいことというのも悪いことというのも、本当はこの世にないんですよ。

 出来事に色をつけるのは、それを経験した人間の方です。


 例えば戦争のような、誰がどう見ても悪いことでしかないような、個人の手ではどうしようもないこともあるわけですが、個人の手でどうにかしようと思えば、どうにかできる小さな悪いことというのもありますね。


 だから、私はそこに色をつけたんですね。

 あの、昔、色々悩んだり、自分として耐えられないような嫌だった出来事、それは、その経験を経て得た思いを作品にするためだったのではないかという、色です。そのために生まれてきたんだと信じるほどのね。


 真実というのは人間の心の中で作られるものです。だから、自分にとって都合のいい真実を作るべきです。

 そして、狂ったようにそれを信じるのもいいではないですか。


 一回きりの人生なんです。楽しまなければ損です。


 小さい頃から小説家になりたかったです。私にとって大切なその夢に親が便乗してしまい、大騒ぎして本来の目的を長い間見出せずに闇の中のようなところを歩き回ってました。親と私にはずれがあった。世間一般と自分にもあったかもしれません。


 小説家というのがあまりに職業として捉えられているからなんだろうなと。

 有名な会社に入るのと小説家になるというのはなんかちょっと違うことなんだと思うんですね。


 小説家というのはツールなのだと。長い時間かけてやっと辿り着いた答えです。

 このツールを使ってやりたいことは、おそらく書いている人それぞれで違うのだと思います。


 表現したいことがある、その時に手にするツールはいくつかある、画家、漫画家、アニメーター、詩人、歌手、小説家。

 大事なのは表現したいことがあるということなんです。この目的。

 物を作りたいという人間の魂のような物です。


 うちの親は、あまり親の文句を言ってもね、しょうがないとは思うのだけれど、芸術家ではないわけですよ。

 それで、職業としての成功のようなものをどっさりと私に持たせてしまったので、倒れてしまったんですね。


 目的がある。そのために、どこまでやれるかわかりませんが、私の人生で起こった嫌なことをタネにして咲いた花を書いていこうかと。

 私は、会社員には向いていませんので、ね。


 本日もまた、まとまりのないままに。

 汪海妹

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