学校の先生とは
学校の先生とは
息子が学校の先生になりたいと言っている。それもあって、機会があればさまざまな先生に
「先生ってどうなん?」
と聞いて回っている。するとたまに、自分は先生はできるけど、先生以外はできない。会社なんて入ったらやってけないんだろうななんておっしゃる先生もいる。
「会社の求めるものと、教育の求めるものは違いますものね」
「教師は成果が見えにくい仕事だと言われますね」
それから、先生に向く人ってどんな人だろうなと考えてみた。やはりやりがいである。自分が頑張った結果をその仕事の何から感じることができるのか。それが先生の場合、売り上げ金額の増加とか、利益の増加とか、そういうもので表されないのだ。
それなら、クラス平均点の向上とか、難関校への進学率とかでも得ることができるかもしれない。でも、それも、学生の素質が良ければ良い結果が出ることも多いだろうし、自分が努力した結果と実感できないかもしれない。
実は、自分も昔、日本語教師をやっていたから、先生のこの気持ちはちょっとわかる。自分の仕事への努力が具体的に売り上げに貢献している実感がなかった。
だから、よい教育をしたことによる結果というものは確かに、金銭には換算できないのだと思う。じゃあ、一体何で、自分がいい先生だということは証明されるのだろう?
これが正解だとは思わないが、日本語教師を10年やった経験から一つ書いてみると、自分にとってはそれは、クラス全員をあげる力だった。クラスには優秀な人と普通の人とできない人と全部いる。その中で優秀な人だけわかる授業をやって、優秀な人の成績が伸びたって、普通の人とできない人が落ちたらそれはいい先生とは言えない。
全員を落伍させず、全員を今いる場所から少しでも引き上げる、これに尽きると思っていた。
そのためには、全員に対して公平でなければならない。これが言うのは簡単だが、意外と難しい。学生は人間である。先生も人間だから、普通に好き嫌いがある。しかし、その感情を出してはならない。また、先生にも癖があり、優秀な人が好きな先生もいれば、だめな人が好きな先生もある。しかし、偏ってはならない。全員に同時に気を配らなければならない。
さもなければ、全員を同時に引き上げることは不可能だからだ。
この結論から導けば、実は理想の先生になれる人間は限られているかもしれない。みんなに対して公平でいられる人というのは、そんなゴロゴロいるものでもない。
一方、そんな一時教師をしていた人間が企業で働いていると、人事の側面にアラを感じる。
管理職である人が、部下に対して好き嫌いがあるケースが往々にしてあるからだ。人間だもの、しょうがない。また、部下にもいろいろなレベルの人がいる。レベルに応じて指示や指導を変えなければならないが、それもまためんどくさい。細かく個人を見て評価するのもめんどくさい。でもその結果、部下は自力で成長できる人を除けば成長しないし、管理職は『うちの部下はだめな奴ばっかりで』と永遠に繰り返すことになる。
でもね、教育とはそういうものではないのですよ。人は育つ、育てることができるという信念のもとにじっくり取り組むものですから。
とはいえ、目標管理とか人事教育とか評価とか、めんどくさと思われるし、形のみになっていてなかなか根を張らない会社もある。それは、やっぱり教育というのが時間がかかる上に成果の見えにくいものだからだろう。学校でも会社でも同じだ。
それでは、会社では教育はやっぱりいらないだろうと言われると、そうは思わないのだ。AIが出てきて、色々便利な社会になってますます、コミュニケーションが苦手な人が増えてきている中で、会社は落伍者を出してはいけない。そのためには、管理者には 話し方を学んでもらわなければならない。せっかく入ってくれた社員をせっせと追い出すような管理者では困るのだ。
教育が重要ではなかったなんて時代は今までもないし、これからも教育は大事だと思うのだ。
出産した後には日本語教師よりも安定した職業につき、教師は辞めてしまったが、あの仕事が嫌いではなかった。あの、あいうえおを教え続けた日々が、今の自分の仕事にも役に立ってると思いたい。
そして、息子がいつか教師か、あるいは教育関係の仕事について、彼らしく生き生きと働いている未来に夢を馳せる。
2026.03.23
汪海妹




