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とりとめのないこと 抜粋  作者: 汪海妹
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人はどんな人とならずっと一緒にいたいと思えるのか













人はどんな人とならずっと一緒にいたいと思えるのか













人と争うのが苦手なので、相手に合わせる人である。そのせいか、相手に合わせたくない人に重宝され、よってこられることが割とある。ニコニコして、なんでも相手の希望に合わせるので、私はモテる。


そして、ばいばいして帰り道、やれやれである。やっぱ人と会うと疲れるなっと。


人間関係はどっちかが折れて相手に合わせることで成り立っている。私なんぞは相手と争ってこっちに合わせるように持っていくのが苦手なので、相手に合わせるほうが気が楽だ。おでんが食べたくても、相手に合わせて今日も餃子を食べているみたいなね。


だから、合わせない人と合わせる人は、組み合わせとしては間違ってないのだが、何事もバランスが重要だ。


相手に合わせるのが楽だから合わせている人は、我慢して合わせてやってるとだんだん思うようになり、それに対して相手が感謝してくれないことにだんだんイライラするようになる。


反対に何を聞いても、あなたのしたいようにすればいいよと言われる相手は聞いても何も答えないから何をすれば喜ぶかと考えて用意して、決めてあげてると思ってる。でも、なんでこれがしたいとか或いはこれは嫌だとかはっきり言ってくれないのだろうとだんだん不満に思ってくる。


いつも我慢をしてしまう人というのは、自分の希望を言えば、相手が怒るかもしれないと思ってる。また、自分が選択した結果、つまらなかった時の責任を負いたくないのである。


だから、相手に決めてもらうのが楽なのだ。


こういう人は、勇気を出して、実は、小さな声で、こうしてほしいと言っている。


反対に、我慢する人生を歩んできていない人には、自分の希望を言って相手を怒らせたりしないかと思ったり、言っても結局拒絶されたら傷つくと思っている人の気持ちがこれっぽっちもわからない。


だから、別に深い意味もなく、こうしてほしいという小さい声を遮るか、無視してしまうのだ。


これに我慢する人は大いに傷ついてしまい、もう二度とこうしてほしいとは言わなくなるかもしれない。そして、この世に理想の相手なんていないと、韓流ドラマにでもハマるのだろう。


そんな韓流ドラマにハマる人が、自分のこんな小さな声なんか拾ってくれるのは二次元にしかいないとバーの片隅でモスコミュールとか飲んでたかもしれない。そこに、こういう弱者の心理に通じた相手が現れ、わたしの気持ちなんかわかってもらえないと思い込んでた心を紐解き隣に座ってソルティドックとか飲むかもしれない。


人生初めての運命の恋の始まり、と思い、頭の中にオープニングテーマとか流れるかもしれない。でもね、すみません、それ、現実的には詐欺師かもしれません。気をつけてね。


確かに、パートナーは気持ちに鈍感な人かもしれないが、鈍感なだけでは罪ではない。こういう我慢するのが癖になったような人の心理なんていうものは、わかる人には手に取るようにわかる。弱っている人の心理を利用することなんて、良心さえ邪魔しなければ簡単なことなのだ。


そういう自分の主人も鈍感な人だ。言わなくてもわかる人と結婚したらよかったなと何度思ったことか。ただ、長い時間そうやって拗ねてきたし、もっと違う人とだったらもっと楽しいんじゃないかと思ったこともある。


あともう少しでソルティドックの君に金を巻き上げられていたかもしれない人だ、私も。


ご先祖様が声にならない声で(霊感ないんでね、言ってても聞こえない)、おみゃーが間違ってるとわざわざ日本から中国まで飛んできて、言い続けていたかもしれない。そのせいかどうかは知らないが、随分、ぐじぐじと悩んでいたが、結局は、待てよ、と思った。


多分、私は相手が変わってもうまくいかないなと思った。多分、誰に対しても我慢してしまう。


自分がこうしたいと言ったら、相手が怒るかもしれないと思ってしまうのだ。心に染みついた悪癖だ。


私が旅先を決めて、私が連れ回す。主人はたいてい文句を言う。それでは、主人が旅先を決めて、主人が連れ回すとどうなるか?根本的な問題で、旅立てない。


旅立てないとはどういうことかというと、あそこへ行こう、ここへ行こうと言うだけで、いつどうやっていくかとか調べられないし決められないのだ。


この致命的なダメっぷり、どうであろうか。


客観的第三者である息子から見て、母に軍配があがる。当たり前か。ソルティドックの君よ。さようなら。我慢の君の私も、最近は少しずつ自分の行きたいところに主人を引きずっていき、文句を言われても馬耳東風になってきたぞ。ちなみに文句しか言わないが、その実、それなりに主人も楽しんでいるようだ。


多分、恋人や夫婦という人間関係は、組み合わせという最初で決まる部分もあるけれど、開始以降の一緒にいる間の積み重ねでも変わっていく。


その恋、うまくいかないのは本当に、組み合わせが間違っているからだけなのだろうか?自分にとって苦手なことを変える努力はしているか?


ダメな自分ともちゃんと向き合ってるか?これは本当に苦しいことだけど、人間関係を続けていくためには必要なことがある。


痩せすぎな息子を太らせようと焼肉を食べにいった。帰りに新しくできた巨大ショッピングモールに足を伸ばす。中秋節なので3階に灯籠が飾ってあるという。


「灯籠、見にいきたい」

「地下鉄はこっちだ」


別にモールなのだから、2階から行こうが、3階から行こうが、地下鉄には辿り着ける。しかし、灯籠に興味のない主人は2階から帰ろうと言って聞かない。


ああ、もういいや、一人でもう一回、来ようかな。


何度こういう、実際には行われない もう一回 を思い浮かべては、色々な機会を逃してきたか。


「もう、お父さん、3階からいくよ」


鈍感な父より生まれたが、姑と母の間に立って育ち、優しい性格のうちの子は、二人の女から女心を学んだようだ。お母さんの味方をしてくれた。


「こっちに地下鉄はないぞ」


ちなみにうちの主人は筋金入りの方向音痴である。2階で寄った無印で店舗に入ったことで進んできた方向がわからなくなり、さらに3階に上がったことで、完全に駅の方向を見失った。


「ほら、あそこに地下鉄のマークがあるでしょ?」

「ああ、それは、もう一つの地下鉄だな。別の地下鉄に乗るのか、遠回りになるぞ」


もう一個の地下鉄なんて、ここにあったか?一瞬、逡巡する。でも、多分、方向に関しては、超のつくど素人である主人が間違っていて、私が正しいであろう。


さっき、2階の回廊から見上げた時に灯籠が見えた。その方向と位置から考えて、もし私が一人で歩いていたなら灯籠は必ず探し当てただろう。しかし、あっちへいくこっちへいくと主人が私たちを連れ回し、灯籠からは離れてしまった。


それでも、冷静に歩けば探し当てられた。ただ、人のことは連れ回すのに、人について歩く時は文句を言うのが我が主人。そして、喧嘩しながらでも自分のたどり着きたい場所へ行こうとはしないのが私。


「みつかんなかったねー」

「地下鉄はこっちの方向じゃないぞー」(主人)

「ここ、さっき通ったね」(息子)


灯籠を見つけるのは結局諦めて、地下鉄へ向かう。意味不明な発言を繰り返す主人を無視する。やはり私の方向感覚で間違いなく、迷うことなく最短距離で地下鉄へ辿り着いた。


それにしても、馬鹿な人ではないのだけど、方向だけはどうしてこんなに音痴なのでしょうか。


 人生というのは時に 一人でいれば問題なく辿り着ける場所へ 家族という荷物があるがために辿り着けないこともある 私があの斜め下から見上げた灯籠のように 少しを楽しんで全てを楽しむことができない 幻を追うようなところがある


 次回でいいか と思うけど その次回がまた来る という保証はどこにもない


 それでは 重いからといって 家族という荷物を捨てる人は いるだろうか?


 多分 それは少ないだろう


 人生とは重い荷物を持って 一歩一歩を踏み締めて 長い道をゆくようなもの そもそもそういうものなのである


私はいつの頃からか 私が我慢しなければならない という ナイトメアを自分で自分に繰り返し上映していて、鈍感で方向音痴な主人は、私がそんなナイトメアにを見ているのだとは知らない。


しかし、息子がトンカチを持っていて、そんな馬鹿げたナイトメアを上映し続ける映画館の天井に穴を開けてくれたみたいだ。


その穴から綺麗な水色の空が見える。自分を暗がりに閉じ込めているのは、結局は自分自身なのだ。


結婚していても、一人で見たいものを見に行ったっていい。嫌がる主人を引きずっていって、文句を聞き流しながら、楽しんだっていい。方向音痴のくせに間違った方向を主張してやまない人を連れて、旅をしたっていいだろう。羅針盤は私。方向音痴であるこの人には羅針盤である私が連れ出す、未来がきっと必要なのだと思う。


いつまで航海を続けられるだろうか。できるだけ健康で長生きしてほしいと思う。父母の長寿を願う、息子のために。


そう、お題の回答を忘れていた。


人はどんな人とならずっと一緒にいたいと思えるのか


その答えは人によって違うのだろう。ただ、自分が強調したいのはこういうことだ。


その人との人間関係とは出会った時に全てが決まっているわけではなくて、出会ってからその人とつくりあげていく部分も多いということで、そして、人とずっと一緒にいるためには、時には、自分という人間を見直す必要もあるということである。


汪海妹

2025.10.08



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